第23話 ヴァンガーズ
日野本大学ヴァンガーズのロッカールームには、試合前特有の落ち着かない空気が漂っていた。
ユニフォームに着替えた選手たちが行き交い、誰かが大声で笑えば、そのすぐ横ではイヤホンをつけたまま一人で座っている選手もいる。廊下の向こうからは、スタンドに集まり始めた観客の声がかすかに聞こえていた。
桐生大雅は自分のロッカーの前に座り、スマートフォンを眺めていた。
数日前、大学までやって来た篠崎葵と黒瀬玲司から、小野寺莉奈はまだ意識が戻っていないと聞かされた。その後、回復したという話も聞いていない。
大雅は画面を消した。
見舞いには行っていなかった。
行こうと思えば行けたし、病院がどこなのか聞くこともできた。治療費を払うと約束したことも忘れてはいない。それでも、まだ病院の場所すら聞いていなかった。
「大雅」
呼ばれて顔を上げると、同じ三年の部員が立っていた。
「今日、お前最初からだって」
「知ってる」
「余裕だな。俺だったら朝から吐きそう」
「吐くなら外で吐けよ」
「冷たっ」
男は笑いながら離れていった。
大雅も少し笑い、それから膝に置いていた両手を見た。
今日は最初から試合に出る。
少し前までの自分なら、それだけで朝から落ち着かなかったはずだった。
QBとして練習には参加し、試合に出る機会もあったが、正レギュラーではない。準レギュラーとして出番を待ち、呼ばれれば結果を出そうとする。それが大雅の立ち位置だった。
だが、ここ最近で状況が変わった。
練習でも試合でも目に見えて結果が出始め、正レギュラー候補として名前を挙げられるようになった。社会人チームからも声がかかり、卒業後について内々にかなり具体的な話まで進んでいる。
ずっと欲しかったものが、急に手の届くところまで来ていた。
「桐生」
今度はスタッフに呼ばれた。
「今日、例の社会人チームの人も来てるぞ」
「聞きました」
「変に意識するなよ」
「してないです」
「そういう返事する奴は、大体してるんだよ」
背中を軽く叩かれ、大雅は笑って返した。
スタッフが離れてから、自分のバッグへ目を向ける。
ファスナーを開き、奥に入れてあった小さなケースを取り出した。中には縁に切れ込みのある灰色の錠剤が残っている。
指で一つ摘まんだところで、ホテルにいた莉奈の姿が頭に浮かんだ。
最初は楽しそうだった。何でもないことで笑い、普段よりよく喋っていたのに、そのうち話が噛み合わなくなり、最後には呼びかけてもまともに返事をしなくなった。
大雅は助けを呼んだ。
そのあと、莉奈が意識を取り戻していないと聞いた。
摘まんだ錠剤を見つめる。
自分は今までにも使っているが、一度も倒れていない。意識がおかしくなったこともなく、むしろ使った日は体が思った通りに動き、試合でも結果が出ていた。
「……俺は平気だ」
そう呟いて、大雅は錠剤を口に入れた。
*
最初の攻撃が始まって間もなく、大雅には今日も体が動くと分かった。
「セット!」
声を上げると、味方が配置につき、それに合わせて相手の守備も動いた。
センターからボールを受けた大雅は、すぐに右を見る。相手の選手が内側へ寄ったことで、その外を走る味方のレシーバーとの間に一瞬だけ空間ができた。
大雅は迷わず腕を振った。
高く放たれたボールに合わせ、スタンドから声が上がる。
走っていたレシーバーが速度を落とさないまま両手を伸ばすと、ボールはその胸元へきれいに収まった。
「よし!」
大雅は拳を握った。
一発目から長いパスが通った。
サイドラインへ戻ると、仲間がヘルメット越しに頭を叩いてくる。
「今日もやべえな!」
「まだ一本だろ」
「一本目からあそこ投げる?」
「空いてたから」
「言うねえ」
大雅は笑ってフィールドへ戻った。
次の攻撃では短いパスを味方の胸元へ正確に通し、相手が前を厚くすれば、その背後へボールを落とした。距離が開いても、以前のように届かせようと余計な力が入ることがない。
腕を振れば、狙ったところへボールが飛んでいく。
二本目のロングパスが決まり、さらに三本目まで通ると、スタンドの歓声は明らかに大きくなった。
「桐生!」
サイドラインから監督の声が飛んできた。
大雅が振り返ると、監督は何か言おうとして、結局親指を立てただけだった。
大雅も手を上げて返した。
前半を終えた時点で、大雅の投げたボールは一度も地面に落ちていなかった。
*
スタンドの後方に、周囲の歓声とは無関係な顔で試合を見ている男がいた。
真壁遼一だった。
大雅がまた長いパスを通すと、前方に座っていた観客が一斉に立ち上がり、拍手が広がった。
真壁は立ち上がらなかった。
グラウンドを見たままスマートフォンを取り出し、短く何かを打ち込む。それが終わると画面を消し、何事もなかったように再び試合へ目を戻した。
*
後半に入っても、大雅の調子は落ちなかった。
相手の守備がパスを警戒し始め、前から強く圧力をかけてくる。それでも大雅には、相手がどこから詰めてくるのかが普段より早く見えていた。
センターからボールを受け、投げる相手を探した瞬間、正面のコースが塞がった。右からも相手が距離を詰めてくる。
無理に投げれば捕られる可能性がある。
大雅はボールを抱え込むと、空いていた左へ走った。
「桐生、行け!」
味方の声が飛ぶ。
すぐ目の前へ相手の選手が出てきたが、大雅は速度をほとんど落とさず、捕まる直前に横へ切った。伸びてきた腕がユニフォームの端をかすめただけで、大雅の体はその先へ抜ける。
もう一人が進路を塞ごうとした。
外へ逃げるように一度体を向けてから、内側へ切り返す。相手の重心が遅れ、その横に一本の道が開いた。
その先にエンドゾーンが見えた。
大雅は一気に走った。
後ろから追ってくる足音は聞こえていたが、距離は縮まらない。最後まで誰にも触れられないままラインを越えると、笛と同時にスタンドの歓声が一段大きくなった。
タッチダウン。
「大雅!」
仲間が次々に駆け寄ってきて、肩やヘルメットを叩いてくる。
「お前QBだろ!」
「QBが走っちゃ駄目なのかよ!」
「誰もそんなこと言ってねえ!」
「じゃあいいだろ!」
大雅は囲まれながら笑った。
全力で走ったぶん息は上がり、足にも疲労はある。それでも痛みや気分の悪さはなく、体はまだ十分に動いた。
莉奈とは違う。
俺には合っている。
その考えが、大雅の中でさっきまでよりはっきりした。
*
試合終了の笛が鳴るまで、大雅のパスは一度も外れなかった。
仲間と握手を交わしながらサイドラインへ戻ると、監督が待っている。
「桐生」
「はい」
「今日、何本外した?」
「ゼロです」
「自分で言うか」
「聞いたじゃないですか」
監督が笑った。
「調子乗るなよ」
「乗ってないです」
「もう乗ってる顔だ」
頭を軽く叩かれ、大雅も笑った。
少し離れたところでは、チームメイトたちがまだ試合の話をしている。何本も通ったロングパスや、最後に自分で走り切ったタッチダウンについて、その中心には何度も大雅の名前が出ていた。
以前にはなかった光景だった。
「桐生君」
声をかけられて振り返ると、スーツ姿の男が立っていた。
以前から話をしている社会人チームの関係者だった。
「今日も見せてもらったよ」
「ありがとうございます」
「すごかったな。特に最後のラン」
「あれは、たまたま空いたんで」
「その空いた場所を見つけて行けるのも能力だよ」
男はそう言って笑った。
「前に話した件だけど、こっちはもう君を迎える前提でかなり話を進めてる。今日みたいなプレーを見せてもらえると、こちらとしても安心するよ」
大雅の胸が一気に熱くなった。
「本当ですか」
「まだ卒業までは時間があるけどね。今のまま続けてくれればいい。怪我だけはするなよ」
「はい」
「また連絡する」
男が離れていくのを、大雅はしばらく見送っていた。
口元が勝手に緩む。
大学へ入ってから、自分より上の選手を何人も見てきた。体格で負け、肩の強さで負け、同じ場面でも判断の速さで差をつけられた。
自分だって何もしてこなかったわけではない。練習を重ね、筋力をつけ、試合映像も何度も見返した。それでも、正レギュラーまであと少しのところで届かなかった。
その差が、今はほとんど感じられない。
バッグの中に残っている灰色の錠剤が頭に浮かんだ。
全部あれのおかげだと認めてしまえば、今日の結果まで自分のものではなくなるような気がした。
だが、薬だけでここまで来たわけではないとも思う。
投げ方を覚えたのは自分で、試合を読めるようになるまで練習したのも自分だ。ギアは、それまで積み上げてきたものを出せるようにしているだけなのだと、大雅は考えた。
そのとき、試合会場の外を救急車が走っていった。
遠ざかっていくサイレンを聞いただけで、ホテルにいた莉奈の顔が浮かんだ。
大雅は唇を結び、救急車が消えた方から目を逸らした。
*
シャワーを浴びて着替えたあと、大雅は人気のない廊下へ出た。
スマートフォンを確認すると、一件だけメッセージが届いている。
『終わったか』
送り主の名前は登録していなかったが、誰なのかは分かっていた。
大雅が電話をかけると、数回鳴ったところで相手が出る。
『どうだった』
「勝った」
『お前は』
「かなり良かった」
『かなりって?』
大雅は廊下の壁へ背を預けた。
「パス、全部通った」
電話の向こうが一瞬だけ静かになる。
『全部?』
「一回も外してない」
『長いのも?』
「何本か通した」
『走ったか』
「一回、自分で入れた。タッチダウン」
『体は』
「別に。普通」
『痛いところは』
「ない」
『気分は』
「だから普通だって」
質問が続き、大雅は少し苛立った。
「毎回細かいんだよ」
『薬欲しいんだろ』
その一言で、大雅は口を閉じた。
「……いる」
『なら答えろ』
「分かったよ」
大雅は誰もいない廊下の先へ目を向けた。
「次、いつもらえる?」
『また連絡する』
「切らすなよ」
『分かってる』
通話が切れた。
大雅はしばらく画面を見ていた。
頼んでいるのは自分なのだから、多少の質問には答えるしかない。それでも、以前より聞かれることが増えている気がした。
試合でどうだったのか。体に痛みはないか。使ったあと、何か変わったことはないか。
最初から、薬を継続してもらう代わりにその程度は答えろという話だった。大雅も、それ以上の意味があるとは考えていなかった。
スマートフォンをポケットへ入れ、ロッカールームへ戻ろうと歩き出した。
*
同じ頃、真壁は試合会場から少し離れた道を歩いていた。
耳からスマートフォンを離し、通話を切る。
さっきまで大雅が走っていたグラウンドの照明が、建物の向こうにまだ見えていた。
真壁は一度だけそちらを振り返った。
「全部、か」
それだけ呟くと、また前を向いて歩き出した。
*
大雅がロッカールームへ戻ると、まだ何人かの部員が残っていた。
「お、大エース帰ってきた」
「やめろよ」
「今日のお前に言わなきゃ誰に言うんだよ」
同じ三年の部員が笑いながら近づいてくる。
大雅は自分のロッカーを開けた。
「でもマジでさ、最近のお前、何かやってるだろ」
荷物へ伸ばした手が、わずかに止まった。
「何かって?」
「トレーニング変えたとか、食ってるもの変えたとか。急に動きよくなりすぎだろ」
「普通だよ」
「普通で今日みたいになる?」
「今までの努力が出たんだろ」
「自分で言うなよ」
周囲から笑い声が上がり、大雅も笑った。
それで終わるかと思ったが、男はまだ隣にいた。
「いや、でも本当に何かあるなら教えろよ」
「何で」
「俺だって強くなりたいからに決まってんだろ」
「練習しろよ」
「お前にだけは言われたくねえ」
「俺も練習してるわ」
「知ってるよ」
男は笑いながら大雅の肩を叩き、自分のロッカーへ戻っていった。
大雅はバッグのファスナーへ手をかけた。
中には、まだギアが残っている。
少し前までなら、誰かに渡そうなどとは考えもしなかった。
だが、今日の試合を思い返すと、さっきの言葉が妙に耳に残った。
――俺だって強くなりたい。
大雅はバッグを開きかけたまま数秒止まり、結局ファスナーを閉じた。
それでも、もう一度も考えないとは思わなかった。




