第22話 取引
大学を出て駅へ向かう途中、玲司は何度目か分からないほど、さっき記録したアカウントを開いていた。
短い投稿が並んでいる。
大雅から隠語だと聞かされても、玲司には何が薬を意味しているのかまでは分からない。
「まだ見てんの?」
隣を歩いていた葵が覗き込んできた。
「見るだろ。これが今のところ唯一の手掛かりなんだから」
「連絡するんでしょ」
「する」
「じゃあすればいいじゃん」
「今やるよ」
玲司は歩きながら画面を操作しかけ、葵に腕を引かれた。
「危ない」
「何が」
「前見ろよ」
「見てるって」
「今、信号赤だったぞ」
葵が足を止める。
玲司も仕方なくその横で止まった。車が何台か目の前を通り過ぎる。
その間も玲司はスマートフォンを見ていたが、ふいに葵が聞いた。
「ねえ」
「何」
「あんた、なんでそこまでやんの?」
玲司が顔を上げる。
「何が」
「ギア」
葵は玲司の持つスマートフォンを顎で示した。
「私が莉奈のこと手伝ってって言ったから、大雅探したんでしょ」
「そうだけど」
「だったら、もう大雅見つけたじゃん」
玲司はすぐには答えなかった。
「薬渡したのもあいつだった。治療費も払うって言わせた。それなのに、あんた今度はその先を追おうとしてる」
「気になるだろ」
「それだけ?」
信号が青に変わった。
周囲の人間が一斉に歩き出したが、葵はその場から動かなかった。玲司も数歩進んだところで気づき、振り返る。
「何だよ」
「さっきもそうだったじゃん」
「何が」
「私、大雅に責任取らせたいって言ったのに、あんた勝手に薬の出どころの方が先だって決めた」
「あれ、まだ怒ってんのかよ」
「怒ってるよ」
葵がようやく歩き出した。
玲司も隣へ並ぶ。
「私が頼んだことと、途中から違うじゃん」
「大雅一人で終わってないからだろ」
「だから何で、あんたがそこまで気にすんの」
玲司は少し黙った。
自分でも、いつからここまで追うつもりになったのかはっきりしない。
最初は、葵のバッグに入っていた灰色の錠剤が何なのか気になっただけだった。
そのあとホテルで戸倉が暴れた。
瀬尾が同じ薬を使い、数日もしないうちに死んだ。ミサキのところには戸倉がギアを回収しに来た。神谷を追えば、また同じ薬が出てきた。
警察が神谷を捕まえたときには、これで少しは終わると思った。
それなのに今度は莉奈が倒れ、大雅まで使っていた。
「ホテルからずっとだろ」
玲司が言った。
「何が?」
「ギアだよ。終わったと思ったら、また別の奴が持ってる」
葵は黙った。
「瀬尾が死んで、ミサキのところに戸倉が来て、神谷捕まえて。それで終わりかと思ったら莉奈だ。今度は大学のアメフト部員まで持ってた」
「……うん」
「これ、放っといて終わると思うか?」
「知らない」
「俺も知らない。だから知りたいんだよ」
葵が横を見る。
「どこから流れてきて、どこまでつながってんのか。何で同じ薬でも人によって違うのか。今のままじゃ、分かんねえことが多すぎるだろ」
「警察に任せればいいじゃん」
「それはそうなんだけど」
「じゃあ何」
玲司は面倒そうに髪を掻いた。
「葵もいるし」
「私?」
「どうせ俺がやめろって言ったって、一人で行くだろ」
「それは……分かんないけど。状況による」
「ほらな。今回みたいなことがあったら行くだろ」
「それが理由?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「知らねえよ」
「自分のことでしょ」
「全部きれいに説明できるほど考えてねえよ」
玲司が言うと、葵はしばらくこちらを見ていた。
「……まあいいけど」
「聞いといてそれかよ」
「納得したとは言ってない」
「面倒くせえな」
「最初に勝手に話変えたの、あんたでしょ」
「まだ言うか」
玲司はスマートフォンへ目を戻した。
「とにかく連絡するぞ」
「早くして」
「急かすなって」
歩道の端へ寄り、アカウントに書かれていた連絡先を開く。
大雅から聞いた通り、そこで直接やり取りするわけではなかった。短いやり取りのあと、別の匿名メッセージアプリへ移るよう指示が来た。
「返ってきた?」
「来た」
葵がまた覗き込んでくる。
「近い」
「見せてよ」
「今見せるから」
玲司は画面を葵にも見えるよう少し傾けた。
相手は名前を名乗らなかった。
何が欲しいのか。いくつ必要なのか。
短いやり取りが続く。
玲司は余計なことを書かず、ギアが欲しいとだけ返した。
しばらく返信が止まる。
「無視された?」
「まだ二分だぞ」
「遅くない?」
「普通だろ」
「こういうの、すぐ返ってくるのかと思ってた」
「俺に聞くなよ」
数分後、画面が震えた。
日時と場所が送られてきた。
二日後の夕方。
場所は新宿でも池袋でもなく、御徒町駅から少し歩いたところだった。
玲司が地図を開く。
「ここか」
葵が画面を見ながら言う。
「私も行く」
「そのつもりだよ」
「珍しく話早いじゃん」
「ただし、お前は離れてろ」
「何で」
「二人で行ったら警戒されるだろ」
「じゃああんた一人?」
「会うのはな」
葵が嫌そうな顔をした。
「弱いのに?」
「それ今関係ある?」
「あるでしょ」
「薬買うだけで殴り合いになる前提で話すな」
「今まで大体なってるじゃん」
玲司は何も返せなかった。
*
二日後。
指定された場所へ着いたときには、日が落ち始めていた。
駅前から少し離れるだけで、人通りは目に見えて減った。飲食店と古いビルが並び、その間を仕事帰りらしい人間がときどき通っていく。
玲司は上着の内側へスマートフォンを入れた。
通話はすでにつながっている。
『聞こえる?』
イヤホンから葵の声がした。
「聞こえる」
『そっちは?』
「普通に聞こえる」
『じゃなくて、私にそっちの音入ってるかってこと』
「それ俺に聞いてどうすんだよ」
『喋って』
「何を」
『何でもいいから』
「腹減った」
『聞こえた』
「じゃあいいだろ」
『何で腹減ったなの』
「何でもいいって言ったのお前だろ」
玲司はイヤホンを外した。
葵に会話を聞かせていることまで、取引相手に知られる必要はない。
通話だけをつないだまま、スマートフォンを内ポケットへ戻す。
葵は少し離れた通りのコーヒーショップにいる。
何かあれば、すぐ警察へ連絡する。
最初からそう決めていた。
玲司は指定された建物脇まで歩き、周囲を見た。
誰が相手なのか分からない。
しばらく待っていると、少し離れたところから一人の男が歩いてきた。
三十代後半から四十代くらいに見える。
派手な服でもなければ、見るからに怖そうな格好でもない。暗い色のジャケットにシャツという、ごく普通の服装だった。
男は玲司の前まで来ると足を止めた。
「黒瀬玲司だな」
玲司の表情が止まった。
内ポケットの向こうで、葵も同じ言葉を聞いている。
「……誰だよ」
「取引に来たんだろ」
「何で俺の名前知ってんだ」
男は答えず、玲司の後ろへ視線を向けた。
「篠崎葵は来てないのか」
今度こそ玲司は動かなかった。
葵の本名を知っている。
しかも、玲司と一緒にいることまで知っている口ぶりだった。
「何で葵の名前知ってんだ」
「それくらいは知ってる」
「答えになってねえよ」
「お前がギアを探ってることもな」
玲司の背中に力が入る。
普通の売人ではない。
少なくとも、大雅から聞いた連絡先を辿ってきただけの客に、薬を渡すだけの人間ではなかった。
「……あんた、何者だ」
「真壁でいい」
「でいい?」
「名前なんかどうでもいいだろ」
「俺の名前は知ってんのに?」
「不公平か?」
「気持ち悪いんだよ」
真壁は少しだけ笑った。
「元気そうだな」
「誰が」
「篠崎だよ」
玲司の顔から表情が消える。
「葵に何の用だ」
「話が早くて助かる」
「薬買いに来たんだけど」
「それもある」
真壁は上着のポケットへ手を入れた。
玲司の肩がわずかに強張る。
出てきたのは、小さな透明の袋だった。
中には灰色の錠剤が入っている。
玲司は目で数えた。
五錠。
縁には見覚えのある切れ込みがある。
「ギアか」
「そうだ」
真壁は袋を玲司へ差し出した。
玲司はすぐには受け取らなかった。
「いくら」
「今日はいい」
「は?」
「持ってけ」
「タダで?」
「挨拶代わりだ」
そんな挨拶があるか、と言いかけて玲司はやめた。
真壁は手を引かない。
玲司は数秒迷ったあと、袋を受け取った。
「で?」
「篠崎に伝えろ」
「何を」
「こっちに協力する気はないかってな」
玲司の眉が寄る。
「何に」
「ギアを使ったときの反応を見せてもらう。何度かこっちの指定した場所へ来てもらって、話も聞く」
「……なんで? 人体実験でもやるの?」
「そんな大げさなもんじゃない」
「十分大げさだろ」
玲司は袋の中の五錠を見る。
「莉奈が意識戻ってないの知ってるか」
真壁は少しだけ目を細めた。
「誰だ、それ」
知らないらしい。
「ギア飲んで倒れた奴だよ」
「そうか」
「そうかじゃねえよ」
「俺に言われても困る」
玲司の声が低くなる。
「そんな薬使わせて、こっちは何の得があるんだよ」
「金は出せる」
「いらねえよ」
「篠崎本人が決めることだろ」
「危ない薬飲ませて金払いますって、それで受けると思ってんのか」
真壁は肩をすくめた。
「だから聞いてみろって言ってるだけだ」
「断ったら?」
「それならそれでいい」
あっさりした返事だった。
玲司は逆に警戒した。
「本当に?」
「無理やり連れていったところで、面倒が増えるだけだ」
ホテルの廊下が頭に浮かぶ。
葵を囲んでいた男たち。
戸倉。
傷つけるな、と言っていた声。
「……前に葵を連れてこうとした奴らと、あんた関係あるのか」
真壁は少し黙った。
「いろんな奴が動いてる」
「ごまかすなよ」
「全部お前に説明する必要あるか?」
「ないけど、聞くくらいいいだろ」
「ダメだ」
真壁は玲司を見る。
「俺から言えるのは、篠崎は普通と少し違うってことだけだ」
「何が」
「ギアを使ったときの反応だ」
玲司の目が変わった。
「知ってるのか」
「細かいことまでは知らない」
「じゃあ誰が知ってる」
「それをお前に教える理由はない」
玲司は黙った。
真壁自身が詳しく知っているわけではない。
それでも、葵がほかの使用者と違うことは把握している。
その事実だけで十分だった。
「とにかく、伝えろ。本人が話を聞く気になったら連絡してこい」
「たぶん断るぞ」
「それならそれでいい」
「俺は断る」
「お前に聞いてない」
即答され、玲司の眉が動く。
「葵をまた巻き込む気かよ」
「もう巻き込まれてるだろ」
返す言葉が一瞬なくなった。
真壁はそれ以上追わなかった。
玲司の手にある五錠へ目をやる。
「それは持って帰れ」
玲司も袋を見る。
「これさ」
「何だ」
「俺、このまま警察持ってくかもしれないぞ」
「好きにしろ」
あまりにも早い返事だった。
玲司は真壁を見る。
「……いいのかよ」
「何が」
「あんたのことも話すぞ。今日ここで会ったことも」
「それも好きにしろ」
真壁は少しも慌てなかった。
玲司の方が気味悪くなる。
「余裕だな」
「別に余裕があるわけじゃない」
真壁はポケットへ両手を入れた。
「ただ、お前らだけが相手を見つけたと思うなって話だ」
「何?」
「黒瀬玲司。篠崎葵」
真壁が二人の名前を順に言う。
「お前らが誰で、どうつながってるか。こっちはもう把握してる」
玲司の顔から軽さが消えた。
「……脅してんのか」
「警察に行きたいなら行け。止めねえよ」
「だったら何だよ」
「行けば全部終わって、自分たちだけ安全になると思うなって言ってる」
意味を理解するのに時間はかからなかった。
玲司が一歩、真壁へ近づく。
「葵に手出したら――」
「そういうのやめとけ」
「何が」
「今ここで俺に何言ったって意味ないだろ」
真壁の声は変わらなかった。
「今回はこうして話してる。それだけだ」
「どういう意味だよ」
「次も同じように済むと思うな」
「それも脅しだろ」
「忠告だよ」
玲司はしばらく真壁を睨んだ。
殴ったところで何も変わらない。
それ以前に、真壁が一人で来ているのかどうかすら分からない。
葵は離れた場所で、今の会話を全部聞いている。
何かあれば警察へ連絡する。
その取り決めが、急に頼りなく感じた。
「じゃあな」
真壁が玲司の横を通り過ぎる。
「待てよ」
玲司が振り返った。
「葵に話って、具体的に何させる気だ」
「本人が来たら話す」
「来なかったら?」
真壁は足を止めた。
振り返らないまま答える。
「そのときは、そのときだ」
それだけ言って歩き出した。
玲司は追わなかった。
手の中には、五錠のギアが残っている。
*
真壁の姿が完全に見えなくなってから、玲司は通りを戻った。
コーヒーショップの前まで行くと、葵がすでに外へ出て待っていた。
顔を見るなり言う。
「長い」
「お前、今の聞いてただろ」
「聞いてた」
「じゃあ分かるだろ」
「何が」
玲司は五錠の入った袋を見せた。
葵の顔が露骨に嫌そうになる。
「また増えた」
「そんな言い方すんな」
「だって増えてるじゃん」
「お前が持ってる二錠と合わせて七錠だぞ」
「数えなくていい」
葵は袋へ手を伸ばしかけたが、途中で止めた。
「それ、タダなんだよね」
「ああ」
「余計怖いんだけど」
「俺もそう思う」
玲司は袋をポケットへ入れた。
葵が少し歩いてから聞く。
「で」
「何」
「私に協力してほしいって話」
「断るだろ」
「断るけど」
「じゃあいいじゃん」
「勝手に先に断るなよ」
玲司が足を止めた。
「どっちなんだよ」
「私が断るのと、あんたが勝手に断るのは違う」
「結果同じだろ」
「違う」
「面倒くせえなあ」
「さっきからずっと言ってるでしょ。私のこと勝手に決めんなって」
「危ない薬また飲まされるかもしれない話だぞ」
「だからやらないって言ってるじゃん」
「じゃあ何で怒ってんだよ」
「そこじゃない!」
葵の声が少し大きくなり、通りを歩いていた男が振り返った。
葵は一度そちらを見て、声を落とす。
「……とにかく、もう勝手に決めんな」
「分かったよ」
「本当に?」
「たぶん」
「絶対分かってない」
二人はまた歩き出した。
しばらくして、葵がぽつりと言う。
「あいつら、私のこと知ってるんだね」
「ああ」
「ホテルのときから?」
「そこまでは分かんねえ」
「私がギア飲んだときのことも知ってる」
「みたいだな」
葵はそれ以上何も言わなかった。
玲司も、無理に話を続けなかった。
自分たちが相手を追っていたつもりだった。
神谷を見つけ、大雅から連絡先を聞き出し、ようやく上へ近づいたと思っていた。
だが違った。
向こうは、玲司の名前も葵の名前も知っていた。
そして葵がギアに普通とは違う反応をすることまで把握している。
玲司はポケットの中の五錠へ触れた。
「……なあ」
「何」
「これ以上、こっちから追うの、一回考えた方がいいかもな」
葵はすぐには答えなかった。
少し歩いてから、小さく言う。
「うん」
珍しく意見が一致した。
それでも玲司の頭から、真壁の言葉は消えなかった。
――お前らだけが相手を見つけたと思うな。
二人が追うのをやめたからといって、向こうまでやめるとは限らなかった。




