第20話 意識不明
《MUSE》を出ると、外はもう夕方だった。
昼の仕事を終えた葵は、普段の服に着替え、髪も簡単にまとめ直していた。これから夜の店へ向かうらしい女たちとすれ違いながら、新宿駅の方へ歩いていく。
歌舞伎町は昼と夜の境目だった。
看板には次々と灯りが入り始めているのに、空にはまだ明るさが残っている。観光客の姿も多く、その間を仕事へ向かうホストや、酔い始めた男たちが行き交っていた。
葵はバッグからスマートフォンを取り出した。
玲司からは何も来ていない。
「珍しい」
これまでは、どこにいるとか、いつ戻るとか、余計なことを聞いてきたのに。
画面を閉じ、そのまま歩き続ける。
ホテル街へ続く通りに差しかかったところで、少し先に赤い光が見えた。
救急車が一台、ラブホテルの前に停まっている。
入口には従業員らしい男と、何人かの人が集まっていた。
葵は一度そちらを見ただけで、そのまま通り過ぎようとした。
この辺りで救急車を見ること自体は、それほど珍しくない。酔って倒れる人間もいれば、喧嘩で怪我をする人間もいる。
自分に関係があるとは思わなかった。
ホテルの自動ドアが開いた。
救急隊員がストレッチャーを押して出てくる。乗せられているのは若い女だった。
髪がストレッチャーの脇へ少し垂れている。
葵は歩きながら、何気なくその顔を見た。
足が止まった。
「……え?」
もう一度見る。
見間違えるはずがなかった。
「莉奈?」
葵は人の間を抜け、救急車へ駆け出した。
「莉奈!」
ストレッチャーの脇まで行こうとして、救急隊員に止められる。
「すみません、下がってください」
「友達です! この子、知ってます!」
莉奈の顔には血の気がなかった。
目を閉じたまま、葵がこれだけ大きな声で呼んでも反応しない。
「莉奈、ねえ!」
「お知り合いですか?」
「はい。友達です」
答えながら、葵はストレッチャーから目を離せなかった。
少し前まで普通に喋っていた。家へ戻るかどうかで揉めて、最後には二人で笑っていた。
その莉奈が、今は何も言わない。
救急隊員がストレッチャーを車内へ運び込む。
「ご家族ですか?」
「違います。でも、この子一人なら私も行きます」
いくつか確認されたあと、葵も救急車へ乗った。
扉が閉まる。
車が動き出しても、莉奈は目を開けなかった。
*
病院に着いてから、葵には何がどこまで進んだのかよく分からなかった。
莉奈はそのまま奥へ運ばれ、葵は廊下に残された。
しばらくして警察官が来た。ホテルから救急搬送された時点で、警察にも連絡が入ったらしい。
「小野寺さんとは、どういう関係ですか」
「知り合いです」
「ご友人?」
葵は一瞬だけ迷った。
「……まあ」
「今日、一緒にいたわけではない?」
「違います。仕事終わって駅に向かってたら、たまたま救急車がいて」
「そこで小野寺さんに気づいた?」
「はい」
「今日、小野寺さんが誰と会っていたか知っていますか」
「知らないです」
「最近、何か薬を使っているような話は?」
葵の指が、膝の上に置いたバッグへわずかに触れた。
中には三錠のギアが入っている。
そして少し前、莉奈のスマートフォンには、
――いいの入ったんだけど、一緒にやらない?
というメッセージが届いていた。
葵は警察官を見る。
「分かりません」
「何か心当たりがあれば、小さなことでも構いません」
「ないです」
それ以上は言わなかった。
莉奈がトー横にいたことも、金に困れば知らない男と会っていたことも、誰かの誘いに乗って出ていったことも。
葵の口から話すことではないと思った。
自分だって、知らないところで家庭のことや、歌舞伎町で何をしていたかを勝手に話されたら腹が立つ。
「ご家族にはこちらから連絡しています。お母様が朝には来られるそうです」
「……そうですか」
「あなたも今日は帰って大丈夫ですよ」
葵は奥へ続く廊下を見る。
「まだ、目覚めてないんですよね」
「詳しいことは医師から説明があると思います」
警察官はそれ以上答えなかった。
葵も帰らなかった。
*
夜が明けても、莉奈の意識は戻らなかった。
待合室の椅子は固く、何度座り直しても腰が痛くなる。途中で眠ったのかどうかも、葵にはよく分からなかった。
スマートフォンには玲司から何件かメッセージが入っていた。
『どこいる?』
『今日戻らないのか』
最後には、
『生きてるなら返事しろ』
と来ている。
葵は画面を見たまま少し考えたが、まだ返信しなかった。
廊下の向こうから、一人の女が歩いてきた。
五十歳前後だろうか。
急いで来たらしく上着の前は開いたままで、手にはバッグを強く握っている。
受付で莉奈の名前を告げ、しばらく話したあと、こちらへ目を向けた。
葵と目が合う。
女は少し迷ってから近づいてきた。
「莉奈の……お友達?」
「知り合いです」
「そうですか」
それだけだった。
誰なのか、どこで知り合ったのか、何をしていたのか。
母親は聞かなかった。
葵も何も説明しなかった。
少しして医師が現れ、二人は説明を聞くことになった。
「現時点では、何らかの薬物による影響が疑われます」
葵は顔を上げた。
医師は必要なことだけを淡々と続けた。
莉奈は現在も意識が戻らず、集中治療室で経過を見ている。今後どうなるかは、まだ断定できる段階ではない。
葵が理解できたのは、それくらいだった。
「……薬物」
莉奈の母親が小さく言った。
驚いた様子はなかった。泣きもしない。
医師から何か質問があるかと聞かれても、首を振っただけだった。
葵は横からその顔を見た。
少しだけ腹が立った。
莉奈はまだ目を覚ましていない。それなのに、どうしてこんなに静かでいられるのか。
母親は医師が立ち去ったあとも、しばらく同じ場所に座っていた。
やがて、自分のバッグへ目を落としたまま口を開く。
「いつか、こうなるんじゃないかと思ってました」
葵は何も言わなかった。
「何度言っても帰ってこないし。連絡しても出ないし。誰といるのかも分からないし」
母親の声には怒りも涙もなく、ただ疲れていた。
「そうですか」
葵はそれだけ返した。
莉奈が少し前、
――もう家戻ろうかなって思ってる。
と言っていたことは話さなかった。
母親が知らないなら、それでいい。莉奈が自分で話すことだった。
目を覚ましたら。
葵は集中治療室へ続く扉を見た。
その「目を覚ましたら」が、いつになるのかは誰にも分からなかった。
*
スマートフォンが震えた。
画面には玲司の名前が出ている。
今度は電話だった。
葵は少し離れたところまで歩き、通話を取る。
「何」
『何じゃねえよ。どこいんだよ』
「病院」
一瞬、向こうが黙った。
『何で葵が病院にいんだよ』
葵は廊下の壁へ背を預けた。
「莉奈が倒れた」
『莉奈?』
「この前会った子」
また少し間があった。
『家に帰るかどうか話してた?』
「そう」
『何があった』
「分かんない」
『病院どこ』
葵が答えると、玲司はそれ以上何も聞かずに電話を切った。
*
一時間もしないうちに玲司が来た。
待合室に入ってきた姿を見つけ、葵は椅子から顔を上げる。
「早くない?」
「中野からなら、こんなもんだろ」
玲司は空いている隣の椅子へ座り、葵を見た。
「何があった」
葵は少し黙ってから、順に話した。
少し前に新大久保で莉奈と会い、家へ戻ろうか迷っていると相談されたこと。その途中で誰かからメッセージが届いたこと。
そこには、
『いいの入ったんだけど、一緒にやらない?』
と書かれていた。
莉奈は迷った末に、
『わかった。行く』
と返した。
そして昨日、仕事帰りにホテル前を通り、救急搬送される莉奈を見つけた。
玲司は途中で口を挟まなかった。
「医者は?」
「薬かもしれないって。まだ意識戻ってない。集中治療室」
「警察には?」
「何も言ってない」
「メッセージのことも?」
「言ってない」
玲司が葵を見る。
「何で」
「莉奈のことだから」
「それだけ?」
「それだけ」
葵は視線を逸らした。
玲司は何か言いかけたが、結局やめた。
しばらく二人とも黙っていた。
葵はバッグを膝へ置き、その上で両手を組んだ。
「玲司」
「何」
「莉奈に薬渡した奴、見つけたい」
玲司が葵を見る。
「見つけてどうすんだよ」
「責任取らせる」
「どうやって?」
「……分かんない」
自分でも答えられないことに腹が立った。
「でも、このままでいいとは思えない。見つけて、警察に突き出す」
「莉奈が自分で飲んだ可能性もあるだろ」
葵は口を閉じた。
「薬を渡した奴がいたとしても、そいつからもらった証拠もない。そもそも、少し前の相手が原因かどうかもまだ分かってない」
「じゃあどうすればいいの?」
思ったより強い声が出た。
玲司も一瞬黙る。
「莉奈はあんなになってんだよ。目も覚まさないんだよ。じゃあ何もしないで待ってろって?」
「そんなこと言ってない」
「じゃあどうすんの」
「だから今考えてんだろ」
葵は玲司から顔を背けた。
待合室の向こうを人が通り過ぎる。
玲司は少し考えたあと、背もたれから体を起こした。
「まず、誰と会ったのか調べよう」
葵が顔を戻す。
「そいつが本当にギアを渡したなら、話はそこからだ」
「見つけたら?」
「せめて治療費くらい出してもらえないか、話してみる」
「それだけ?」
「それだけって、お前な」
「ついでにぶっ飛ばす」
「それは相手の出方次第」
「何で?」
「何でも暴力で解決しようとすんな」
「私そんなに殴ってないけど」
玲司が無言で葵を見る。
「……何、その顔」
「自覚ないのが一番怖いな」
「うるさい」
少しだけ、いつもの調子が戻った。
それでも莉奈が意識不明なのは変わらない。
葵は膝の上のバッグを握った。
「玲司」
今度はすぐには言葉が出なかった。
これまでなら、一人で相手を探し、会いに行って、その先はその場でどうにかしようとしていた。
でも今回は、何をすればいいのか自分でも分からない。
葵は玲司を見る。
「……手伝って」
玲司は少しだけ目を見開いた。
それから、いつものように大げさなことは言わず、椅子から立ち上がった。
「最初からそのつもりで来てるよ」




