第19話 三錠
双眼鏡の中で、神谷蓮の表情から余裕が消えた。
電話を耳に当てたまま何かを返しているようだが、ここからでは声までは聞こえない。ただ、さっきまで取引相手と向かい合っていたときとは明らかに様子が違っていた。
やがて神谷は電話を切り、すぐに周囲を見回した。
「……気づいたか?」
玲司が双眼鏡を少し動かすと、離れた場所にいた久世も神谷の変化を察したらしく、立ち位置を変えていた。榊も別方向へ動き、周囲に紛れていた捜査員たちの空気が変わる。
神谷が一歩下がった。
次の瞬間、待っていた男をその場に残して歩き出す。その足取りはすぐに速くなり、人混みへ入る頃にはほとんど走っていた。
「おい」
久世たちも動いた。
玲司は双眼鏡を下ろした。
来るなと言われている。それは覚えているし、警察の邪魔をするつもりもなかった。
それでも、昨日まで自分が追っていた相手が逃げ出したのを見て、そのまま帰る気にはなれなかった。
「結局こうなるのかよ……」
玲司も距離を空けたまま後を追った。
*
神谷は池袋駅の方へ向かっていた。
人の間を縫うように進み、何度も後ろを振り返っている。駅へ近づくほど通行人は増え、黒いジャケットの背中が見えたと思った次の瞬間には、別の人間に隠れた。
玲司も人を避けながら追ったが、交差する人波に行く手を遮られたところで、とうとう神谷の姿を見失った。
「どこ行った……」
足を止め、周囲を見回す。
少し先には久世がいた。その向こうでは榊も辺りを確認している。二人の動きを見る限り、警察も神谷を見失ったらしい。
駅へ入ったのか。それとも近くの店へ逃げ込んだのか。
玲司は人の流れに沿って歩きながら、周囲を探した。
池袋駅に直結する東武百貨店の入口が見える。
逃げ込むなら、ああいう人の多い場所もありそうだと思っただけだった。確信があったわけではない。
玲司も館内へ入り、買い物客に混じって歩いた。
紙袋を提げた女、子どもの手を引く男、大きなキャリーケースを転がす旅行客。次々と人が通り過ぎていく中、その向こうから見覚えのある男が現れた。
「……いた」
神谷だった。
玲司は追いかけようとして、すぐに足を止めた。
神谷が出てきたのは男子トイレだった。
しかも落ち着いて出てきたわけではない。入口を出るなり左右を見回し、そのまま足早に人混みへ入っていく。
その姿を見た瞬間、玲司には何をしていたのか分かった。
「……流したな」
昨日、神谷のロッカーにはギアがあった。
今は警察に追われている。
そんな男が逃走中にわざわざトイレへ入った。
ほかに考えにくかった。
神谷の姿はすでに人の向こうへ消えかけていたが、玲司は追わなかった。外には久世たちもいる。神谷本人を追うより、今はトイレの方が気になった。
だからといって、神谷の直後に慌てて飛び込むような真似はしない。
玲司は歩調を落とし、普通に用を足しに来ただけの客のように男子トイレへ入った。
洗面台には数人いる。
その横を通り、奥の個室を見ると、一つだけ扉が開いていた。
中へ入る。
便器には何も残っていない。
「やっぱり流したか」
神谷が本当にこの個室を使ったかどうかも分からない。玲司の考えすぎだった可能性だってある。
そう思いながら出ようとしたところで、足元に小さな灰色のものが見えた。
「ん?」
玲司はしゃがみ込んだ。
壁際に落ちている。
縁には小さな切れ込みが入っていた。
見覚えがある。
「……ギア」
一錠。
さらに少し離れたところに、同じ灰色の錠剤がもう一つ落ちていた。その奥にもある。
三錠。
慌てて処分したときに落としたのか、床の別々の場所へ転がっていた。
玲司は三錠を見つめた。
警察へ渡すべきだとは思う。
そもそも神谷のことを久世へ知らせたのは、自分たちだけで追うのをやめて警察へ任せるためだった。
それでも玲司は、手持ちのティッシュで三錠を包んだ。
「……三つだけ」
誰に言うでもなく呟き、ポケットへ入れる。
そのまま個室を出た。
*
館内を出て神谷を探したが、姿は見当たらなかった。
玲司は駅へ続く地下通路へ向かう。
また逃げられたのかと思いながら歩いていると、少し先で人の流れが乱れていた。何人かの通行人が歩く速度を落とし、振り返っている。
その向こうに警察官の姿が見えた。
玲司も近づき、ようやく状況が分かった。
「……捕まったか」
神谷が壁際で取り押さえられていた。
何人かの警察官に囲まれ、さっきまで走っていたせいか肩で息をしている。髪も乱れ、ホストクラブで客に笑っていたレオの姿とはずいぶん違って見えた。
「離せよ!」
「暴れるな」
近くには久世がいる。
その横では榊が、ほかの捜査員と一緒に神谷の所持品を確認していた。
玲司は少し離れたところで立ち止まった。
神谷が捕まった。
それなら、もう自分が追う必要はない。
帰ろうとしたところで、榊の声が聞こえた。
「久世さん」
久世が振り返る。
榊の手には、小さなケースがあった。
蓋が開かれ、中には灰色の錠剤が残っている。
玲司の目が止まった。
さっきトイレで拾った三錠と同じ形だった。
「残ってたか」
久世がケースを覗き込む。
「所持品の中にありました」
榊は錠剤を確認したあと、神谷へ目を向けた。
「これは何ですか」
神谷は答えない。
久世もケースを見た。
「ようやく現物が出たな」
「まだギアと決まったわけではありません」
「分かってるよ」
「なら結構です」
「今日はいつも以上に厳しくない?」
「いつも通りです」
こんな状況でも二人の調子は変わらないらしい。
玲司はポケットへ手を入れた。
ティッシュ越しに、三錠の硬い感触がある。
警察も現物を確保した。
自分が持っている三錠をどうするか考えていると、不意に名前を呼ばれた。
「黒瀬」
玲司の手が止まる。
顔を上げると、久世がこちらを見ていた。
「……どうも」
「どうも、じゃない。お前、来るなって言ったよな?」
「見てただけですよ」
「張り込み教えたの、お前だろ」
「違いますよ。ちゃんと調べてください」
「怪しいことするなよ」
榊もこちらを見る。
「やはり来ましたね」
玲司は眉を寄せた。
「何ですか、その言い方」
「署で久世さんに言いました。たぶん来ると」
「信用なさすぎません?」
「これまでの実績です」
「実績って言わないでくださいよ」
久世が呆れたように息を吐いた。
「まあいい。神谷は確保した。あとは俺たちの仕事だ。お前はもう帰れ」
「言われなくても帰りますよ」
玲司は背を向けた。
数歩歩いたところで一度だけ振り返る。
神谷はまだ警察官に囲まれており、榊の手には灰色の錠剤が入ったケースがあった。
そして玲司のポケットにも、三錠のギアが入っている。
今度こそ振り返らず、地下通路を離れた。
*
中野の物置部屋へ戻ると、葵はソファに座ってスマートフォンを見ていた。
玄関が開く音に気づき、顔を上げる。
「遅かったね」
「いろいろあったんだよ」
玲司は靴を脱ぎ、部屋へ入った。
「レオ、捕まった」
葵がスマートフォンを下ろす。
「警察に?」
「ああ。池袋の地下通路で確保されてた」
「逃げたの?」
「途中でな。一回見失ってたけど、結局捕まった」
玲司は椅子へ腰を下ろした。
葵は少し考えてから聞く。
「ギアは?」
「警察も見つけてた。神谷の持ち物に残ってたみたいだ」
「じゃあ、やっと警察も本物を手に入れたんだ」
「中身まで同じかは、これから調べるんだろうけどな」
葵が頷いた。
そこで玲司はポケットへ手を入れ、ティッシュに包んだものをテーブルへ置いた。
「あと、これ」
「何?」
「開けてみ」
「何で私が」
「いいから」
葵は怪しみながら包みを開いた。
中から三錠の灰色の錠剤が現れた瞬間、表情が変わる。
「……ギア?」
「たぶん」
「たぶんって」
「見た目は同じだろ」
葵は三錠をじっと見た。
「どこから持ってきたの」
「レオが逃げてる途中で東武百貨店に入ったんだよ」
「百貨店?」
「ああ。そこで一回見失ったんだけど、しばらくしたらトイレから慌てて出てきた」
そこまで聞いただけで、葵にも分かったらしい。
「ああ……流したんだ」
「俺もそう思った。中に入ったら、これが落ちてた」
「三錠だけ?」
「俺が見つけたのはな。ほかは流したんだろ」
葵が玲司を見る。
「これ、警察に渡さなかったの?」
玲司は一瞬だけ黙った。
「警察も持ってる」
「答えになってないけど」
「細かいな」
「あんたが言う?」
玲司は三錠へ目を落とし、それから包みごと葵の方へ押した。
「お前が持っとけ」
「え?」
「ただし、絶対飲むなよ」
葵が眉を寄せる。
「じゃあ何で渡すの」
「本当にヤバいとき用だ」
「絶対飲むなって言った直後に?」
「俺だって矛盾してんのは分かってるよ」
「何それ」
玲司は椅子の背にもたれた。
「戸倉みたいなのがまた来るかもしれないだろ。警察が毎回間に合うとも限らない。でも、だからって簡単に使うな」
葵は三錠を見たまま、しばらく何も言わなかった。
瀬尾も戸倉も、同じ名前の薬を飲んでいた。
自分だけ反応が違うからといって、これからも同じとは限らない。
そのことは、葵自身も分かっているはずだった。
「……分かった」
思ったより素直な返事だった。
玲司は少し意外に思いながら、もう一度念を押す。
「本当にだぞ」
「分かったって」
「あと、それ」
「何?」
「トイレの床に落ちてたからな」
葵の手が止まった。
「……最悪」
「しかも便器のすぐ近く」
「は!?」
葵が勢いよく三錠から手を離した。
「ちょっと待って。それ先に言えよ!」
「だから絶対飲むなって言ってんだろ」
「そういう意味だったの!?」
「一応、拾うとき包んだ」
「そういう問題じゃない!」
葵は露骨に嫌そうな顔で三錠を見た。
「これ本当に持っとくの?」
「本当にヤバいとき用」
「便器のすぐ近くに落ちてたやつを?」
「命とどっちが大事だよ」
「今比べたくない」
玲司は笑いそうになるのを堪えた。
本当は、便器のすぐ近くに落ちていたわけではない。
そこだけは、わざと大げさに言った。
少しでも葵が使うのを嫌がるなら、その方がいい。
葵はしばらく三錠を睨んでいたが、結局ティッシュをきっちり折り直した。
「袋ない?」
「そこまで嫌かよ」
「便器のすぐ近くって言ったの、あんたでしょ!」
「分かった、分かった」
「二重にして」
「薬よりそっち気にしてんじゃねえか」
「うるさい」
玲司が小さな袋を渡すと、葵は紙包みごと中へ入れた。それでもまだ嫌そうに眺めてから、バッグの一番奥へ押し込む。
「絶対使うなよ」
「しつこい」
「お前に言ってんだから、これくらいでちょうどいい」
「次言ったら捨てるからね」
「それはそれで困る」
「じゃあ黙って」
玲司は口を閉じた。
数秒後、葵がバッグのファスナーを閉める。
その音を聞いてから、玲司はようやく椅子へ深く座り直した。
お読みいただき、ありがとうございます。
【解説】
日本の薬物規制制度について
作中では、この時点の「ギア」は、まだ成分や正体が十分に判明しておらず、指定薬物として規制された状態ではありません。
では、なぜレオ(神谷蓮)が捕まったのかについて、少し解説します。
日本では、まだ「指定薬物」になっていない物質であっても、人の身体に作用させることを目的として販売されている場合、薬機法上の「無承認無許可医薬品」に該当し、販売などが違法となる場合があります。
そのため本作でも、レオは「ギアが指定薬物だから捕まった」のではなく、人体への使用を目的とする薬物を無承認・無許可で販売していた疑いなどから、警察に身柄を確保されたという扱いです。
一方、その後ギアの成分が特定され、「指定薬物」として規制されれば、販売だけでなく、所持・使用・購入・譲り受けなども原則として禁止の対象になります。
つまり、
「まだ指定されていない=自由に売ってよい」
というわけではありません!
本作では、この日本の法制度を参考にしながら、未知の薬物「ギア」を巡る捜査を描いています。




