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第17話 帰る場所

挿絵(By みてみん)

「これ、ギア」


葵がスマートフォンの画面から顔を上げた。


玲司も、もう一度写真を見る。


神谷のロッカーにあった灰色の錠剤は、縁に入った切れ込みまで、葵が持っていたものとよく似ている。


「やっぱりか」


「たぶん間違いない」


「たぶん?」


「写真だけなんだから仕方ないでしょ。でも、見た目は同じ」


葵がスマートフォンを返すと、玲司は画面を消してポケットへ入れた。


「じゃあ、久世さんたちに連絡する」


「するんだ」


「この前、何か分かったら連絡しろって散々言われたからな」


「珍しく言うこと聞くんだね」


「誰のせいで言われたと思ってんだよ」


「知らない」


「半分くらいお前だろ」


葵は返事をせず、スマートフォンで時間を確認した。


「じゃあ私、行くから」


「どこに?」


「用事」


「今から?」


「友達に会う」


玲司は疑うように葵を見る。


「何その顔」


「お前の言う友達って信用できねえんだよ」


「失礼すぎない?」


「トー横の知り合い?」


葵が少しだけ目を細めた。


「そうだけど」


「変なことすんなよ」


「そっちこそ」


「俺は警察に連絡するって言ってんだろ」


「じゃあ大丈夫じゃん」


葵は片手を上げ、そのまま駅の方へ歩いていった。


玲司はその背中を見送った。


以前なら、どこへ行くのかもっと聞いていたかもしれない。だが、今は連絡先も知っているし、何も言わずに消えたわけでもない。


少しくらい放っておいてもいいだろう。


そう思いながら、玲司はポケットからスマートフォンを取り出した。


     *


新大久保駅近くのコーヒーショップに入ると、窓際の席から手が上がった。


「ミオ、こっち」


久しぶりにその名前で呼ばれた。


葵は注文したアイスティーを受け取り、向かいの席へ座る。


「久しぶり」


「ほんと久しぶり。最近トー横にもいないじゃん」


「ちょっとね」


「何してんの?」


「いろいろ」


「何それ」


女の子が笑った。


トー横にいた頃、何度か一緒に朝まで時間を潰したことがある。毎日べったり一緒にいたわけではないが、顔を合わせれば話すくらいの仲だった。


服装も髪型も以前と大きくは変わっていない。それでも、前に会ったときより少し疲れて見えた。


「ミオ、なんか変わった?」


「どこが」


「分かんない。前より普通」


「それ褒めてる?」


「たぶん」


「何それ」


二人で笑った。


近況らしい近況もないまま、しばらくどうでもいい話が続いた。最近トー横に誰がいるとか、前によく見た子が来なくなったとか、コンビニの店員が変わったとか。


葵はアイスティーを飲みながら聞いていた。


やがて向かいの女の子がストローを指で回し始め、笑っていた顔から少しずつ表情が消えていく。


「でさ」


「何」


「ちょっと相談あるんだけど」


葵はグラスを置いた。


「だから呼んだの?」


「まあ」


「何?」


女の子はすぐには答えず、窓の外へ目を向けた。


大通りを車が流れ、駅から出てきた人たちが次々と歩道へ広がっていく。


「私さ、もう家戻ろうかなって思ってる」


葵は一瞬、何を言われたのか分からなかった。


「家?」


「うん」


「帰るの?」


「まだ決めてない」


「じゃあ何で」


「だから相談してんじゃん」


少し苛立った声で返され、葵は口を閉じた。


女の子は自分のグラスへ目を落とす。


「家に帰りたくないのは、今も変わってないんだよ」


「うん」


「帰ったところで、たぶん何も変わってないし」


そこまで言うと、女の子は少し笑った。ただ、その笑い方にはさっきまでの軽さがなかった。


「でも、こっちももうしんどい」


葵は何も言わず、続きを待った。


「金なくなるじゃん。そうしたらまた誰か探して、知らない男についてって。次の日になったらまた金なくなって」


「……うん」


「寝るところも毎回あるわけじゃないし。ずっと誰かといるのも疲れるし、一人になるのも嫌だし」


女の子はストローから手を離した。


「最初はさ、家にいないだけで楽だったんだよ。誰にも何も言われないし、好きな時間に帰れるし」


「帰ってないじゃん」


「……そうだね」


女の子はそう答えると、またグラスへ目を落とした。


しばらく黙ってから、ぽつりと続ける。


「でも、ずっとこれやるのかなって考えたら、急に嫌になってきて」


葵にも分かる部分はあった。


家を出た直後は、それだけで何かが変わったような気がする。誰にも行き先を聞かれず、何時に帰るのかも、どこへ行くのかも自分で決められる。


その代わり、次の日をどうするのかも自分で決めなければならない。


「帰りたいの?」


葵が聞くと、女の子は眉を寄せた。


「分かんない」


「じゃあ帰らなくていいんじゃない」


「でも、このままも嫌」


「……じゃあ帰れば?」


「簡単に言わないでよ」


声が少し強くなり、葵も黙った。


言われてみれば、その通りだった。


自分だって家には帰っていない。母親とも話したくないと言い続け、叔母から連絡が来ても戻る気にはならなかった。


そんな自分が、他人には「帰ればいい」と言っている。


「ごめん」


葵が言うと、女の子は少し意外そうな顔をした。


「ミオが謝るの珍しくない?」


「うるさい」


「でもさ」


女の子は葵を見る。


「ミオはどうするの?」


「何が」


「家」


今度は葵が答えられなかった。


「戻んないの?」


「今は」


「今は?」


「……分かんない」


口にしてから、自分でも変な気分になった。


少し前までなら、帰らない、と即答していた。今だって帰りたいわけではないし、母親と顔を合わせたいとも思わない。


それなのに、前ほど簡単に「絶対帰らない」とも言えなくなっていた。


中野の仕事部屋では、勝手に毛布を使って玲司に怒られ、冷蔵庫を開け、どうでもいいことで言い合っている。玲司の財布から金を抜いて朝飯を買ったことまであった。


あそこも自分の家ではないし、いつまでもいられる場所でもない。それでも今は、出ていけばそれで終わりとは思えなくなっている。


「何、その顔」


「別に」


「ミオも分かんないんじゃん」


「だから分かんないって言ったでしょ」


「じゃあ私に帰れとか言わないでよ」


「ごめんって言ったじゃん」


「一回だけね」


「何回謝ればいいの」


女の子が笑い、葵もつられて笑った。


結局、答えは出なかった。


帰った方がいいとも、帰らない方がいいとも言えない。ただ、向かいに座っている女の子が、このまま続けるのもしんどいと言っていることだけは分かった。


「とりあえずさ」


葵が言う。


「今日決めなくてもいいんじゃない」


「さっき帰ればって言ったくせに」


「言ったけど」


「適当だなあ」


「本当に帰るなら、ちゃんと考えてからにすればいいじゃん」


「何を?」


「知らない」


「そこ考えてよ」


「自分のことも決められてないのに無理」


「役に立たないなあ」


「じゃあ何で私に相談したの」


言い返したところで、テーブルの上に置かれていたスマートフォンが震えた。


女の子が画面を見ると、さっきまで笑っていた顔が止まった。


「何?」


「んー……」


「誰?」


「知り合い」


その言い方が気になり、葵はグラスへ口をつけながら相手の顔を見る。


女の子は画面を見たまま、少し迷っている。


「何て?」


「別に」


「じゃあ何でそんな顔してんの」


「ちょっと誘われただけ」


「何に」


女の子は一度、葵を見た。それからスマートフォンをテーブルへ置く。


通知の文章が一瞬だけ見えた。


『いいの入ったんだけど、一緒にやらない?』


葵の目が止まる。


「何それ」


「だから、知り合い」


「何が入ったの?」


「知らない」


「知らないのに行くの?」


「まだ行くって言ってないじゃん」


女の子はそう言いながら、もう一度スマートフォンを手に取った。


親指が画面の上で止まる。


「やめとけば?」


葵が言った。


「何で?」


「何か分かんないんでしょ」


「会って聞くだけだよ」


「だったら今聞けばいいじゃん」


「ミオ、急にうるさくない?」


「今そういう話してたばっかりでしょ。このまましんどいって」


「それとこれは別じゃん」


「別なの?」


女の子の表情が少し曇った。


葵はそれ以上言わなかった。


自分だって、ギアが危ないと分かり始めてからも使った。玲司を助けるためだったとはいえ、飲むと決めたのは自分だ。


知らないものに手を出すな、と偉そうに説教できる立場ではない。


女の子はしばらく画面を見ていた。


「ちょっと会うだけ」


誰に言い訳しているのか分からない声だった。


葵が何も返さないまま見ていると、女の子は短いメッセージを打った。


『わかった。行く』


そのまま送信する。


画面に表示された文字を見てから、葵はもう一度、向かいの女の子を見た。


さっきまで家へ帰るかどうかを相談していたはずなのに、話はもう別の方向へ動き始めていた。

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