第15話 尾行
神谷蓮のマンションが見える場所で、玲司は自動販売機の横に立っていた。
時刻は午後三時を少し過ぎたところだった。
神谷が仕事へ向かうにはまだ早い。水野沙耶から聞いた話では、最近は出勤前にふらりと家を出ることが増えているという。
その時間に何をしているのか。それを確かめるのが、今日の仕事だった。
玲司はスマートフォンを取り出し、画面を確認した。
映っているのは、道路を挟んだ向こう側だ。
かけているスマートグラスの正面には小さなカメラがあり、その映像がスマートフォンへ送られている。神谷のマンションをじっと見続けなくても、顔をそちらへ向けてさえいれば、画面越しに入口を確認できた。
周囲から見れば、スマートフォンを眺めて時間を潰している若者にしか見えない。
「便利だけど、目疲れるんだよな」
独り言を漏らし、玲司は一度画面から目を離した。
仕事道具として渡されてから何度か使っているが、長時間これだけを見続けるのはきつい。それでも、張り込み中に対象の方ばかり見ているよりはずっとましだった。
マンションから人が出てくるたび、玲司はスマートフォンへ目を戻した。
会社員や買い物袋を持った女、自転車を押した老人が出てきたが、神谷ではない。
玲司はポケットから缶コーヒーを出し、一口飲んだ。
浮気調査なら、対象が女と会ってくれれば話は早い。会った相手を確認し、必要なら写真を撮る。それで終わる。
数日前までの騒ぎと比べれば、ずいぶん平和な仕事だった。
十分ほど経ったところで、マンションの自動ドアが開いた。
画面の中に、黒いジャケットを着た男が現れる。
玲司はスマートフォンに保存してある写真と見比べた。髪型は少し違うが、顔は同じだった。
「出た」
神谷蓮。
店ではレオと名乗っている二十四歳のホストだ。
神谷は建物を出ると、すぐには歩き出さなかった。スマートフォンを確認してから、道路の左右へ一度ずつ目を向ける。
玲司は缶コーヒーを口へ運んだまま、視線だけを画面へ落とした。
こちらを見たわけではない。それでも、普段から周囲を確認する癖はあるらしい。
やがて神谷が駅の方へ歩き出した。
玲司はすぐには追わず、十分に距離が開くのを待った。
自動販売機の陰へ入ると、着ていたリバーシブルのパーカーを脱いで表裏を返す。違う色を外側にして着直し、ポケットからキャップを取り出してかぶった。
服の色と頭まわりの印象が変わるだけでも、さっき自動販売機の横に立っていた男とは違って見える。
玲司はスマートフォンを確認した。
神谷はまだ先を歩いている。
自動販売機の陰から出ると、距離を保ったまま後を追った。
*
駅までの道で、神谷は二度振り返った。
一度目は交差点。二度目は駅へ入る少し前だった。
玲司はそのたびに神谷へ直接目を向けず、スマートフォンの画面を見ながら歩いた。映像の中で神谷が立ち止まり、後ろを確認している。
数秒して神谷が前へ向き直ったところで、玲司も歩く速度を戻した。
「浮気する奴って、みんなこんな警戒すんのか?」
誰にも聞こえない声で呟く。
女と会うところを見られたくないのなら、警戒すること自体はおかしくない。ただ、神谷の場合は少し気にしすぎているようにも見えた。
電車へ乗ると、玲司は神谷と同じ車両には入らなかった。隣の車両から位置だけを確認し、そのまま池袋まで追う。
人の多い駅構内では、一人を見失わずに追うのも楽ではない。
神谷は足を止めることなく改札を抜け、そのまま外へ出た。
玲司も少し遅れて続く。
池袋の街へ出てからも、神谷はまっすぐ勤務先へ向かわなかった。大きな通りを歩いたあと、途中で一本脇へ入る。
玲司も距離を保ったまま後を追った。
やがて神谷が足を止める。
壁際には若い男が一人立っていた。
二十代くらいだろう。神谷を見つけると、向こうから近づいてきた。
玲司は歩道脇で足を止め、スマートフォンを操作するふりをする。
画面には二人の姿が映っていた。
何かを話しているようだが、ここからでは声までは聞こえない。
数十秒ほどして、男が財布を出した。
「……ん?」
玲司は画面へ目を凝らした。
男の手から神谷へ何かが渡る。
距離があるため細かいところまでは分からなかったが、紙幣のようには見えた。
神谷は受け取ったものをポケットへ入れる。
しかし、神谷から男へは何も渡さなかった。
二人が離れても、男は壁際に残ったままだった。神谷だけが歩き出していく。
「何だ?」
金を借りたのかもしれないし、何かの代金を先に受け取ったのかもしれない。それだけなら、いくらでも説明はつく。
浮気調査とは関係なさそうだが、一度見ただけで怪しいと決めるのも早かった。
玲司は再び神谷を追った。
神谷は数分歩いたあと、小さな公園へ入っていった。
玲司は入口から離れた場所で立ち止まる。このまま中まで追えば距離が近すぎる。
スマートグラスを公園の方へ向けたまま、スマートフォンの画面を確認した。
神谷は遊歩道を外れ、人の少ない方へ歩いていく。
木や植え込みが重なり、画面の中から一度姿が消えた。
「見えねえな」
玲司は公園の外側を歩き、別の角度から中を確認できる位置へ移る。
しばらくすると、神谷が再び画面に入った。
しゃがんでいる。
そのそばには、紙袋のようなものが見えた。
草むらの近くに置かれていたものを取り出したらしい。
神谷は紙袋へ手を入れ、中から何かを取り出した。小さすぎて正体までは分からない。
それをポケットへ入れると、紙袋を元の場所へ戻して立ち上がった。
玲司は公園を出ていく神谷を見ながら眉を寄せた。
「何やってんだ、あいつ」
買い物した物を置いていたようには見えない。
わざわざ公園まで来て、草むら近くから紙袋を取り出し、中身だけを持って戻っていく。
神谷が先ほどの道へ戻ると、金を渡した男は、さっきとは違う場所へ移動して待っていた。
玲司は歩道の反対側へ移り、スマートフォンを見ながら歩く速度を落とした。
二人が再び接触する。
今度は神谷の手が先に動いた。
男へ何かを渡す。
受け取った男は、それをすぐにポケットへ入れた。会話らしい会話もなく、今度こそ二人は別々の方向へ歩き出す。
玲司は足を止め、記録した映像を少しだけ戻した。
最初の接触では、男から神谷へ金らしきものが渡った。
神谷はそのあと公園へ行き、紙袋から何かを取り出して戻ってきた。
そして今度は、神谷から男へ何かを渡した。
「……さっきの金、これか?」
まだ断定はできない。
ただ、浮気調査で見る動きではなかった。
玲司は記録を止めず、そのまま神谷を追った。
*
十分ほど歩いたところで、今度は女が神谷へ近づいてきた。
最初の男とはまったく雰囲気が違う。
二十代後半くらいだろうか。仕事帰りにも見える服装で、神谷と親しそうに話す様子はなかった。
玲司は離れたコンビニの前で足を止める。
「今度は女か」
ようやく浮気調査らしくなってきた。
そう思ったのも短い間だった。
女がバッグから財布を出し、神谷へ何かを渡した。
神谷はそれを受け取っただけで、二人はすぐに離れる。
女は金を渡した場所から離れたところまで移動すると、そこで足を止めた。帰る様子はない。
一方の神谷は、また別の方向へ歩き始める。
玲司の顔から、さっきまでの軽さが消えた。
「また?」
神谷は先ほどと同じ公園へ戻っていった。
玲司は中まで追わず、公園の外からスマートフォンの画面を確認する。
やがて神谷が戻ってきた。
今度もポケットには何かを入れている。
神谷は金を受け取った場所には戻らず、離れた場所で待っている女のところへ向かった。
ほんの数秒だけ接触し、手から手へ小さな何かを渡す。
女は受け取ったものをしまうと、今度こそその場から立ち去った。
玲司はスマートフォンを持ったまま、その後ろ姿を見送った。
一人目と同じだった。
相手同士に関係があるようには見えず、会話も短い。先に神谷が金らしきものを受け取り、その場を離れる。公園へ向かい、戻ってきたあと、別の場所で待つ相手へ何かを渡す。
「偶然じゃねえな」
玲司は再び神谷を追った。
神谷は何事もなかったように歩いている。
途中でスマートフォンを確認すると、また周囲へ目を向けた。
玲司は顔を上げない。
スマートフォンの画面には、神谷が後ろを振り返る姿が映っている。
数秒ほど周囲を見たあと、神谷は再び前へ向き直った。
玲司も歩き出す。
少しして、三人目の相手が現れた。
今度は神谷より年上に見える男だった。最初の男とも、先ほどの女ともまったく違う。
その男とも長く話さず、神谷は何かを受け取ると一人で離れていった。
もう玲司も、最初のときのようには首を傾げなかった。
神谷が向かう先も分かっている。
「また公園かよ」
玲司は距離を保って追った。
神谷は同じ公園へ入り、前と同じように人の少ない一角へ消える。
数分後、戻ってきた。
そして離れた場所で待っていた男のもとへ向かい、何かを渡す。
男は受け取ると、そのまま立ち去った。
玲司はスマートフォンの画面を止めた。
三人の相手に共通点はほとんどなかった。
若い男、仕事帰りに見える女、それより年上の男。神谷と親しそうに話した者は一人もいない。
それでも、やっていることは同じだ。
先に神谷へ何かを渡し、その場から離れて待つ。
神谷は公園へ向かい、戻ってくると別の場所で何かを渡す。
少なくとも、女とこっそり会っている男の行動ではなかった。
玲司は画面の中を歩いていく神谷を見る。
「……浮気じゃねえな」
依頼としては、それだけでも一つの答えだった。
だが、このまま「浮気してませんでした」で帰っていいのか。
神谷が何をしているのかは分からない。
公園から持ってきているものの正体も、映像からでは確認できなかった。
ただ、知らない相手から金らしきものを受け取り、そのあと場所を変えて何かを渡している。
それを何度も繰り返している。
玲司は記録した映像を、もう一度短く見返した。
一人目も、二人目も、三人目も同じだった。
神谷はすでに次の角へ向かっている。
玲司はいったん足を止め、キャップを外した。
リバーシブルのパーカーをもう一度脱いで表裏を返し、張り込みをしていたときの色へ戻す。続けてポケットから薄手のニット帽を取り出してかぶった。
パーカーの色は戻ったが、さっきまでのキャップ姿とは印象が変わる。
玲司はスマートフォンへ目を戻した。
画面の中で神谷が周囲を確認してから、また歩き出す。
玲司も距離を保ったまま、そのあとを追った。
「こいつ、何か売ってる」




