第14話 浮気調査
警察署を出てから、数日が経った。
黒瀬玲司が探偵事務所のドアを開けると、奥の机から紙をめくる音がした。
「おはようございます」
「遅い」
顔を上げることもなく返してきたのは、事務所の社長である倉田壮介だった。
三十六歳。依頼人の前では物腰も柔らかく、それなりに信用できそうな探偵に見える。少なくとも玲司が初めてここへ来たときはそう思った。
働き始めてから、その印象はだいぶ変わった。
「まだ午前中ですよ」
「午前中なら何時でも朝だと思うな」
「呼ばれた時間には来てますけど」
「口だけは一人前になったな」
倉田はそこでようやく顔を上げた。
狭い事務所には机が二つと、依頼人を座らせるための小さな応接セットがある。壁際の棚にはファイルが詰まり、その上にはいつから置いてあるのか分からない段ボール箱が積まれていた。
数日ぶりに戻ってきたが、何も変わっていない。
玲司はそれを見て、少しだけ安心した。
「顔、もう大丈夫そうだな」
倉田が言った。
「顔?」
「歌舞伎町で殴られたんだろ」
「ああ」
玲司は頬に触れてみた。押せばまだ多少痛むが、見た目にはほとんど分からない。
「殴られたの、顔だけじゃないですけどね」
「自慢するな」
「してません」
玲司は空いている椅子へ腰を下ろした。
ホテルで起きたことについては、警察で嫌というほど聞かれた。なぜホテルにいたのか、戸倉慎吾とはどういう関係なのか、なぜ事件のあと現場から逃げたのか。さらに、数日後にまた戸倉と同じ場所にいた理由や、ギアについて知っていることまで何度も確認された。
同じ話を何度したのか、途中から数える気もなくなった。
ホテルから逃げたことについては、今考えても褒められた行動ではない。だからといって、あの場でもう一度同じことが起きれば、素直に警察へ事情を話せたかどうかは自信がなかった。
最後に久世から、ギアについてこれ以上勝手に調べず、何か分かったら警察へ連絡すること、それから危ない真似はするなと念を押されたことだけは覚えている。
言っていることは正しいし、玲司自身もしばらくはそのつもりだった。
「警察にはもう行かなくていいのか」
倉田が聞いた。
「今のところは。何かあったらまた連絡するって」
「そうか」
それだけ言って、倉田は再び机の書類へ目を落とした。
玲司は少し拍子抜けした。
「それだけですか?」
「何が」
「いや、もっと聞かれるかと思って」
「警察に聞かれたんだろ」
「聞かれましたけど」
「なら俺が同じこと聞いてどうする」
倉田は紙を一枚抜き、玲司の方へ差し出した。
「それより仕事だ」
「急だな」
「探偵事務所に来て仕事振られて驚くな」
玲司は受け取った紙を見る。
依頼人の名前と連絡先、それに簡単な依頼内容が書かれていた。
「浮気調査?」
「そう」
「普通ですね」
「普通で悪いか」
「いや、最近ちょっと普通じゃないことが続いたんで」
「だからちょうどいいだろ」
倉田が椅子の背へ体を預けた。
「水野沙耶、二十三歳。付き合ってる男と同棲中。その男が最近どうも怪しいらしい」
「怪しいって?」
「そこから先は本人に聞け」
「社長、聞いてないんですか」
「聞いたよ。お前が行くんだから、お前も聞け」
「二度手間じゃないですか」
「人の話を聞くのも仕事だ」
正論だったので言い返せない。
玲司はもう一度、紙へ目を落とした。
「相手は?」
「神谷蓮。二十四。池袋のホスト」
「ホスト?」
「店ではレオって名乗ってるらしい」
「いかにも浮気しそうですね」
「職業で決めつけるな」
「社長がそれ言うんですか」
「俺は言ってない。お前が言った」
「ずるいな」
倉田は気にした様子もなく、別のファイルを開いた。
「今日はまず依頼人から話を聞け。待ち合わせは渋谷」
「今から?」
「一時間後」
「先に言ってくださいよ」
「今言った」
「そういう意味じゃなくて」
玲司は時計を見た。
まだ余裕はあるが、のんびりしているほどでもない。
「で、浮気してたら写真撮ればいいんですよね」
「まずは事実確認だ。勝手に結論出すなよ」
「分かってます」
「ホテルに入ったからって突撃するな」
「しませんよ」
「揉めたからって殴り合うな」
「俺、普段そんな仕事してないですよね?」
倉田は玲司を見た。
数秒、沈黙した。
「最近のお前見てるとな」
「不可抗力です」
「警察にそれ言ってこい」
「もう散々言いましたよ」
玲司は紙を折ってポケットへ入れ、立ち上がった。
「じゃあ行ってきます」
「黒瀬」
「何です?」
「今回は神谷と喧嘩するなよ」
「しませんって」
「壁も壊すな」
「俺が壊したんじゃない!」
倉田は笑いながら、もう書類へ目を戻していた。
*
渋谷駅を出た玲司は、スマートフォンで店の場所を確認した。
待ち合わせの喫茶店は駅からそれほど離れていない。人の流れを避けながら歩き、指定された店へ入る。
昼を少し過ぎた時間だったが、店内には仕事中らしい客が多かった。
玲司が店内を見渡すと、奥の席に座っていた女と目が合った。
二十代前半。肩までの髪を明るい茶色に染め、白いブラウスに細身のパンツを合わせている。派手ではないが、きちんと化粧もしていた。
「水野さんですか」
「はい」
「黒瀬です。倉田から聞いてます」
「あ、どうも」
水野沙耶は立ち上がりかけたが、玲司が軽く手を上げると、そのまま座り直した。
玲司も向かいへ腰を下ろす。
店員が来たので、アイスコーヒーを頼んだ。
沙耶はすでに半分ほど飲んだカフェラテのグラスに触れながら、玲司を見ていた。
「思ってたより若いんですね」
「よく言われます」
「探偵って、もっと年上の人が来るのかと思ってました」
「俺はまだ見習いみたいなもんです。ちゃんと社長もいますよ」
「あ、そうなんですね」
「不安になりました?」
「ちょっとだけ」
「正直ですね」
玲司が笑うと、沙耶も少しだけ笑った。最初より表情が柔らいだところで、玲司は本題へ入る。
「それで、神谷さんのことなんですけど」
「はい」
沙耶の笑顔が消えた。
玲司はスマートフォンをテーブルへ置いた。
「社長から大まかな話は聞いてます。同棲してる彼氏が浮気してるかもしれない、と」
「そうです」
「そう思った理由を、最初から聞いてもいいですか」
沙耶はすぐには答えなかった。
カフェラテのストローを指で動かし、少し考えてから口を開く。
「最近、帰ってくるのが遅くなったんです」
「仕事は?」
「ホストです。池袋の店で働いてます」
「《CLUB ASTRIA》?」
「はい。レオって名前で」
そこまでは倉田から聞いている。
「仕事なら遅くなることもありますよね」
「前から遅いですよ。それは分かってます」
沙耶はすぐに否定した。
「でも最近は、仕事に行く前にも出ていくことが増えてて」
「出勤前に?」
「はい」
「どこへ行くか聞きました?」
「聞きました。でも、友達に会うとか、買い物とか、その日によって言うことが違うんです」
玲司はスマートフォンに簡単なメモを取った。
「ほかには?」
「休みの日も、急に出ていくことがあります」
「一人で?」
「たぶん」
「出ていって、どれくらいで戻ります?」
「二時間くらいで戻ることもあるし、そのまま仕事に行くこともあります」
そこだけ聞けば、浮気と決めるには弱い。
玲司が黙っていると、沙耶は少し焦ったように続けた。
「あと、スマホをすごく気にするようになりました」
「見られたくない感じ?」
「前からロックはしてました。でも、最近はずっと持ち歩いてるんです。お風呂にも持っていくし、寝るときも枕元に置いて」
「中を見たことは?」
「ないです」
沙耶は少し間を置いた。
「見ようとはしましたけど」
「正直ですね」
「だって気になるじゃないですか」
「まあ」
玲司にも、それを責めるつもりはなかった。
「でも開けなかった?」
「パスコード変わってました」
「なるほど」
玲司はコーヒーを一口飲んだ。
「神谷さん本人に浮気してるか聞きました?」
「聞きました」
「何て?」
「してないって」
「それだけ?」
「疑うなら勝手にすれば、って」
沙耶はそこで口を閉じた。
怒っているというより、その言い方を思い出して傷ついているように見えた。
玲司はすぐには次の質問をしなかった。
店内では食器の重なる音と、隣の席から聞こえる笑い声が続いている。
沙耶はストローから手を離した。
「別れたいわけじゃないんです」
「はい」
「ただ、本当に女がいるなら知りたいんです。このまま何も知らないまま一緒にいる方が嫌で」
「分かりました」
玲司は頷いた。
「まず、神谷さんがどう動いてるのか確認します。誰かと会ってるなら、その相手もできる範囲で見ます」
「お願いします」
「写真あります?」
「あ、あります」
沙耶がスマートフォンを取り出し、何枚か写真をめくってから玲司へ画面を向けた。
そこには若い男が映っていた。
黒に近い髪を整え、細身のジャケットを着ている。整った顔立ちで、写真を撮られることにも慣れているのか、笑顔にもぎこちなさがない。
「これが神谷さん?」
「はい」
「最近の写真ですか」
「一か月くらい前です」
玲司は写真を送ってもらい、自分のスマートフォンで拡大した。
神谷蓮、二十四歳。店ではレオと名乗っている。
「普段もこんな感じ?」
「仕事の日は。休みの日はもっと普通です」
「帽子とか眼鏡は?」
「たまに帽子は被ります」
「身長は?」
「百七十七くらいって言ってました」
「よく行く場所とか、分かります?」
「池袋が多いです。店があるから。でも、最近どこに行ってるのかは本当に分からなくて」
そのあと玲司は、神谷の勤務日や家を出る時間、マンションの場所、沙耶が把握している休日、よく着ている服などを順に確認した。移動には車を使わず、ほとんど電車だという。
話を聞き終えた頃には、玲司のコーヒーもほとんどなくなっていた。
「じゃあ、まず何日か見てみます」
「どれくらいで分かりますか?」
「それは相手次第ですね。浮気してても、俺が見てる日に会ってくれるとは限らないんで」
「そうですよね」
「何か分かったら事務所から連絡します」
「お願いします」
沙耶が頭を下げる。
玲司も軽く頭を下げて席を立った。
店を出ると、人の多さと街の音が一気に戻ってきた。
玲司は歩道の端へ寄り、スマートフォンを取り出す。
送ってもらった神谷の写真をもう一度開いた。
つい数日前まで、警察署で正体の分からない薬の話をしていた。ホテルの壁を壊して逃げた男はいまだ捕まっておらず、分からないことも山ほど残っている。
それでも玲司は探偵で、依頼が来れば仕事をする。
今回調べるのは、家出した十八歳でも、警察から逃げている男でもない。同棲相手に浮気を疑われている、二十四歳のホストだ。
玲司は画面の神谷を見た。
「今度こそ、普通の仕事だろ」
スマートフォンをポケットへ戻し、人混みの中へ歩き出した。




