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異物

本作品は、実在する人物、団体、名称等とは一切関係のないフィクションです。個人の趣味により執筆された内容であり、実在の人物・団体への誹謗中傷、ヘイトスピーチ、名誉毀損等を目的としたものではございません。


また、このエピソードには「グロテスクな死体描写」が含まれます。あらかじめご了承の上、閲覧をお願いいたします。

 重厚なオーク材の扉は、わずかに口を開けたまま、そこから先の空気だけを異様に濃くしていた。敷居をまたいだ瞬間、鼻腔を突き破ってきたのは、香水の甘さなどでは到底隠しきれない、肉の臭気だ。

 夏の盛りに電源の切れた業務用冷蔵庫、あるいは屠殺場の床。鉄錆を煮詰めたような濃い臭いが、喉の奥にまでべったりと貼りついてくる。


「ひっ……!」


 私は反射的に口元を押さえ、その場に膝を落としそうになった。


 部屋の中央、ペルシャ絨毯の上に転がっていたのは、もはや人間と呼ぶにはあまりに不都合な、肉と骨のスクラップだった。

 仕立ての良い制服を着ていたはずのその男は、胸から下腹部にかけてをミキサーで乱暴に抉られたように引き裂かれていた。壊れた傘の骨のように四方に突き出た肋骨。その隙間から、冷たくなった内臓が、ぬらぬらと重たく溢れ出している。血は絨毯の毛足に吸い込まれ、赤黒い染みをじわじわと広げている。

 顔も酷かった。右頬から顎にかけて肉がごっそり削がれ、白い骨が湿った光を返している。残された右目は天を仰いだまま、ビー玉のように虚ろに濁っていた。


「……ねえ、これ。みつなり、だよね……?」


 沈黙を破ったのはマリだった。先ほどまでの軽い調子は消え、顔はひどく青白く引きつっている。


「本物……? やばいって……」

「は……? こんなの、聞いてないって……」


 隣では悠仁が激しく狼狽していた。人が死んでいる。それがこんなにも場を壊すのだと、私は息をするのも忘れて見ていた。


「ナハハハハ、人のやるこっちゃないわなあ」


 一歩進み出た男は、死体を前にしてなお眉一つ動かさなかった。ひょろりとした体を少し傾け、まるで珍しい見世物でも覗くみたいに口の端を歪めている。


「獣にでも齧られたみたいやね。内臓、綺麗にやられとる」

「人が死んでんのに、笑ってんじゃねぇよ」


 赤いシャツの男が怒鳴った。尾崎、と誰かが小さく呼ぶ。尾崎は肩を怒らせ、今にも大榎に掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。


「テメェ、怪しいな。お前がみつなりをぶち殺したんじゃねえだろうな。ああ?」

「あの、尾崎さん、落ち着いてください……! まずは状況を冷静に――」


 その背後から、肉付きのいい男が慌てて割って入る。右井、と呼ばれていた。だが尾崎は耳も貸さない。


「黙ってろ右井。今はすっこんでろ!」


 尾崎は右井を乱暴に突き飛ばした。右井は「あっと」と情けない声を上げて床に背中を打ち付ける。だが彼は怒るでもなく、ただ引きつった表情で、それ以上は何も言わなかった。私は見てはいけないものを見てしまったような気持ちになった。

 生々しい血の匂い。剥き出しの怒鳴り声。震える手。すべてが同じ部屋の中で、どろどろに混ざり合っている。私はもう、自分の立っている場所が現実なのかどうかさえ分からなかった。


「ここから離れましょう。気分が悪くなる」


 不意に肩へ手が置かれた。田中だった。柔らかい声だった。静かな眼差しだった。その穏やかさだけが、この場で唯一、壊れていないもののように見えた。

 私は言われるまま、彼に縋るようにしてその場を離れた。


「あの……連れ出してくれて、ありがとう……」

「警察に連絡をしましょう。こんなことは、一刻も早く終わらせるべきです」


 田中はロビーの黒電話へ向かい、受話器を取った。だが、すぐにその表情がわずかに強張る。耳に当てた受話器の向こうには、呼び出し音すらなかった。あるのは、薄い砂嵐のような雑音だけだった。


「……通じません」


 彼は今度こそ自分のスマートフォンを取り出した。けれど画面の上には、非情なまでに圏外の表示が浮かんでいる。通信も、電波も、何もかもが途絶えていた。


「そんな……。私たちは、船でここへ来たんですよね。ならば、外へ出れば――」

「ここは特別保護区です。富裕層以外は立ち入れない、隔絶された場所だと説明を受けていました。ヘリの迎えも、一週間後まで来ない。私たちの足となるものは、今は何も無いのです」


 言葉を聞きながら、私はじっと玄関のほうを見た。確かめずにはいられなかった。田中の静止を聞かずに重厚な扉を押し開ける。


 瞬間、暴力的な突風が顔を殴りつけた。

 外は、世界が終わるのではないかと思うほどの暴風雨だった。空は鉛のように重く、灰色が視界を押し潰している。雨粒は斜めに走り、肌を刺す。遠くでは黒い海がうねり、巨大な獣の背中のように波を持ち上げては、岩肌へ叩きつけて白い泡を噴き上げていた。


 逃げ道はない。


 助けも、呼べない。


『――ピン、ポン、パン、ポーン』


天井の隅に据え付けられたスピーカーから、平坦な合成音声は流れる。


『――ゲストの皆様。これより、一階中央ホールにお集まりください。繰り返します。一階中央ホールへ――』


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