初日吊り
世界は、ただ救いようもなく灰色だった。
どんよりと低く垂れ込めた雲。痩せ細った数本の杉の木。その一本から、私は吊るされていた。
首に食い込んだ粗末な麻縄が、私の喉を無慈悲に握りつぶしている。
熱い。痛い。口からは粘り気のある涎が糸を引き、汚らしくこぼれ落ちた。白く濁った泡が、潰れた喘ぎ声と共に唇の端から溢れ出す。私は必死で、自由の利かない両手を喉元へ伸ばした。
指先が、首とロープのわずかな隙間を探して彷徨う。だが、そこにあるのはただ絶望的な圧迫だけだ。この理不尽な窒息から逃れたいという本能だけが、泥の中をのたうつ魚のように私を悶えさせていた。
ふと、視界の隅に人影が映った。
八人。八人もの男が、円を描くようにして私を取り囲んでいる。そして彼ら全員の、冷酷に尖った人差し指が、一斉に私を指し示していた。
死ね。死ね。お前が死ね。
声には出さずとも、その指先が、その凍りついた瞳が、私の全存在を否定していた。私は泣き叫びたかった。助けてくれ、私は何もしていない、私はただ、善良に、臆病に生きてきただけなのに。なぜ、これほどまでに疎まれ、屠られなければならないのか。
叫びは形にならず、ただ自分の首の皮を無様に、激しく掻き毟るばかりだった。
意識の縁が煤け、視界が急速に狭まっていく。
「さっさと死ねよ」
ああ、終わるのだ。この薄汚い空の下で、誰からも愛されず、ただゴミのように捨てられて。
私は最後の一息を求めて虚空を仰ぎ、そして、ぷつりと糸が切れるように、暗黒の中へ墜落した。
……。
次に気がついたとき、私は冷たい大理石の床に座り込んでいた。
杉の木立も、灰色の空も、首を締め上げる忌々しい縄の感触もない。
あるのは、豪奢な、けれどどこか古臭い香水の匂いが漂う洋館のエントランスだ。高い天井から吊るされたシャンデリアが、燦然と輝いている。
「……夢?」
掠れた声を出して、私は自分の首を触った。跡はない。痛みもない。ただ、心臓だけが、壊れた時計のように激しく時を刻んでいた。
あまりに鮮明な、あまりに醜悪な夢。私は脂汗を拭い、ふらふらと立ち上がろうとした。
「邪魔だ。どけよ女」
ふと背後から投げつけられた、鋭い声に、私は弾かれたように振り返った。
そこには一人の青年が立っていた。悠仁、という名が不意に脳裏に浮かぶ。
私は息が止まりそうになった。彼は、あの「夢」の中で、誰よりも悦楽に満ちた声を張り上げ、私の処刑を、私の死を、熱狂的に支持していた男だったからだ。
彼は私を汚物でも見るような目で見下すと、肩を乱暴にぶつけて去っていく。
「くすくす。悠仁、そう邪険にしちゃ可哀想だよ」
その後を、マリと呼ばれた男が追っていく。しなやかな身体つきで、唇には軽薄な、粘りつくような笑みを浮かべて。彼もまた、あの場で私に指を突きつけていた一人だ。
私はただ、呆然とその背中を見送るしかなかった。何もかもが分からない。なぜ彼らがここにいるのか。なぜ私は生きているのか。
「大丈夫ですか? お嬢さん」
不意に、穏やかな、耳当たりの良い声が聞こえた。
見れば、そこには田中と名乗る男が、心配そうにこちらへ手を差し伸べていた。彼の瞳には、悠仁たちのような刺々しい悪意は見当たらない。
男は少しだけ眉を下げ、困ったような、それでいて慈父のような微笑を浮かべた。
「顔色がひどく悪い。ここは少し冷えますから、椅子へ移動しましょう」
「……ここは、どこなんです?」
「おや、私たちは招待状で招かれて、この洋館に休暇を過ごしに来たじゃないですか。忘れてしまったんですか?」
招待状。その言葉が、霧に包まれた私の記憶の端を、ほんの少しだけ照らし出した。
そうだ。私は選ばれたのだ。
ここは憧れのメトロポリス。銀幕の向こう側にあるような、選ばれた富裕層だけが入場を許されるという洋館。
泥にまみれた農村で生まれ育った私にとって、ここは一生縁のない場所のはずだった。私が知っていることといえば、冷害に強い作物の育て方や、痩せた土壌をいかにして耕すかといった、泥臭い生活の知恵ばかりである。
そんな私に、ある日突然、金の縁取りがなされた真っ白な封筒が届いたのだ。
「……そうです、招待されたんです。私が、ここに……」
呟きながら、自分の指先を見る。あかぎれが残る、美しさとは無縁な私の手。
田中の話によれば、折悪しく嵐が到来し、外との道は遮断され、通信も途絶えてしまったのだという。ミステリ小説なら定番の、けれど現実にはおよそ不釣り合いな状況。
「嵐が過ぎれば、迎えも来ます。それまでは、この館でゆっくりと過ごせばいい。ここは世界最大の都市ですからね、生活に困ることはないでしょう」
なぜ私のような人間が選ばれたのか。運が良かったのか。それとも、何かの手違いだったのか。
そんな疑問すら、この豪華なシャンデリアの下では些細なことに思えた。この夢のような場所にいられるなら、泥の匂いも、あの恐ろしい杉林の記憶も、すべて塗り潰せるはずだった。
その時だ。
二階の廊下の方から、夜のしじまを切り裂くような叫喚が響き渡る。
「ひ、人が……! 人が死んでいる! 殺されているぞ!」
その悲鳴を聞いた瞬間、私の首筋に、消えたはずの縄の冷たさが、じりりと蘇った。
ぽかりと口を開いた田中と顔を見合わせ、ざわめきが波のように広がっていく。
憧れ、招待、休暇。そんな浮ついた言葉が、音を立てて崩れ去っていく。
状況は依然として、私の理解の範疇を超えていた。ただ、ひとつだけ確かなことがある。
私はこの豪華な檻の中で、再びあの「指を差される側」に立たされようとしているということだ。




