第7話 幻想召喚
「っ……ふぁぁぁ……!」
微睡の中から目を覚ます。なんだかずいぶん久しぶりな夢を見た気がする。
全ての原点。王牙の宿罪の始まり。
少年院から釈放された王牙は、誓いの通りに嘘をつくことをやめた。それは人間社会への反抗に等しかった。
よくよく考えてみればわかることだ。世の中は白黒はっきりと分かれているわけではない。嘘も方便と言うように、時には人を助けてくれる嘘もある。
しかし王牙はそれらを真っ向から捨て去った。結果的にそれが誰かの悲劇につながるとしても、王牙は言葉を偽ることをしなかった。それは徐々に周囲の反感を買っていき、最初は陰湿なイジメだけだったのが、やがて金を握らされた不良たちに襲われるようになった。
しかし、王牙はそれら全てを暴力で解決できてしまった。
イジメられたら、もはやそんな気が起こらないほど叩き潰す。暴力で訴えてきたら、より大きな暴力で蹂躙する。
そうすると、誰もが王牙に怯えて近づかなくなった。
クラスメイトはもちろん、教師や大人たちすらも。
王牙はそのころには自分がまともでないことはわかっていた。しかし、それでいいと思っていた。嘘をつく人間になるくらいなら、人間でなくていいと。
だが、それを変えてくれた人がいた。
それが桜だ。彼女は三年生の時に引っ越しで同じ中学校に入ると、暴走する彼を身を挺して止めてくれたのだ。そして今まで誰も近づこうともしなかった王牙と根気よく向き合い、理解しようとしてくれた。
だから王牙も彼女のことを理解したくて、少しはまともな人間になろうと思えたのだ。そう言う意味では王牙にとって桜は、自分を人間に戻してくれた恩人だ。
だけど、変えられないものもある。
それは嘘をつかないという誓い。
――もし嘘をついたら、俺はあの嘘だらけな親と同じに、なにより弱かった俺に戻ってしまうかもしれない。
だから、俺は……。
そこまで考えて、王牙は現状を整理しようとした。
最初に目に入ったのが青空ではなく天井であることに一瞬呆けたが、すぐに昨日の記憶を思い出す。
そうだ。あのあとお互いボロボロになりながら肩を貸しあって、死に物狂いで我が家に帰宅したのだ。それでベッドについた途端、泥のように眠ってしまったと。
そう自覚した時、酷い倦怠感が体をベッドに縫い付けようとしてくる。それを振り払い、なんとか上半身を起こす。
途端、ピキリという音が体中の筋肉から鳴った。
「ぎゃぁぁぁ!?」
肉離れでも起こしたかのような激痛が眠気をぶっ飛ばす。
『駆動心音』の出力を三倍にまで引き上げた代償か。
この筋肉痛、走ることすらできなくなるほど痛いのでできれば使いたくなかったのだ。しかし一日経てば痛みも治るはず。そう己を慰めつつ、ため息混じりに王牙は自身の体を見下ろす。
上半身の服はない。代わりに大量の包帯が腹と腕に巻きつけられている。その痛々しさは惨敗した負傷兵のように見えるが、彼にとっては勝利の勲章だ。
もっとも、こんな怪我が一生残り続けるとしたらプールの時に大目玉をくらってしまう。なのでなるべく早く勲章には消えてもらわないと。
「腹減った……なんか残ってたっけ?」
あれだけ昨日動いたのだ。体は回復のための栄養源を欲していた。
腹をさすりながら、老人もびっくりな速度でゆっくり、ゆっくりと震えながら歩いていく。壁に手をつきながらそうやってリビングに歩いていくと……。
「遅い。もう七時よ。朝ごはんはまだかしら?」
最初に目に入ったのは、人様の家のソファに足を組んで座っているバカ巫女の姿だった。彼女の前にはテレビがついており、それが朝のニュースを告げている。
……エンジョイしてんなこいつ。
「あのな、俺の体見ろよ。歩くのも辛いんだぞ? 腕も持ち上げるのすらだるいし、お前を庇ってやった恩人に飯くらいは作ってやってくれよ」
と、ムカついたので多少恩着せがましく言ってみると、
「嫌よ。面倒くさいじゃない。それに最低限動けるようには治してあげたでしょ?」
と、心なくあっけらかんと言われてしまった。
たしかに、昨日動くことすらできなかった王牙をここまで治してくれたのは夜美だった。彼女はあのあとひと足先に休んで霊力をある程度回復させた後、自分の傷を後回しにして王牙の治療をしてくれたのだ。
それは手のひらから出た緑色の光を傷に当てることで、再生していくという不思議な治療法だった。彼女によると『祈祷術』と言って、昨夜見た五行術や護法術と同じ陰陽術の一種らしい。
彼女をよくよく観察すると、昨日負った傷は綺麗さっぱり消えており、白磁のように美しい彼女の肌が見えている。それどころか服の汚れすら消え去っていた。いろいろツッコミたいところだが、話が長くなりそうなので王牙は別の話題を振る。
「これ、どれくらいで治るんだ?」
「昨日は疲労が限界だったから最低限の治療で済ませたけど、私が本気でやれば三日で治ると思うわ」
「マジ!? てっきり数ヶ月ぐらいはかかると思ってたぜ」
「陰陽師は昔から負傷者がしょっちゅう出るから、それと同時に治癒の術も進歩してきたってわけ。だから腕一本取れたぐらいじゃすぐに前線に戻されるわ」
「ブラックすぎる……」
治っても嬉しさ半減するわ。
そんな悲しい陰陽師界隈のことを聞いていると、ふと今日も学校があったことを思い出す。途端に王牙の顔が真っ青になった。
「やべっ、このままじゃ遅刻しちまう!」
「いや待ちなさいよ。その怪我で学校に行くつもり? 今日は仮病使いなさい」
「俺は誰かのためにならない嘘はつかないって決めてるんだよ」
それは彼の座右の銘でもあった。
嘘が時に人を助けることがあるとはいえ、たいていの場合それは害をもたらす。だったら必要な時のみしかそれを使わないようにしよう。特に自分のための嘘は絶対つかない。
それが、桜に現実を諭されたことで決めた彼の新たな戒めだった。
この誓いがあるおかげで、王牙はなんとか人間社会に溶け込んで暮らしていけているのだ。
「だったらなおさら今日は休みなさい。そんな重傷で行ったら確実に怪しまれるわ。それで探りを入れてきた誰かしらが昨日みたいに巻き込まれるのはあなたも嫌でしょ?」
「そりゃ、そうだが……」
たしかに、王牙の周りはおせっかいな人間が多い。桜と形見なら心配で、下竹と倉伏なら好奇心で彼が隠していることに首を突っ込んできてもおかしくはない。
それに、王牙は絶望的に嘘が下手くそだ。この傷のことを問われて隠し通せる自信はなかった。
「……微妙だが、これも周りのため、か……」
少し詭弁な気もするが、言っていることは正しい。そう思った王牙は渋々学校に棒読みで熱が出たと連絡し、一週間休めることになった。
急ぐ必要もなくなったので彼は朝食のためにこんな状態でも手軽に食べられるシリアルと牛乳を取り出し、テーブルに並べる。
「何これ? 犬の餌?」
「社畜の餌だな」
酷い言いようである。彼女は王牙が食べているのを見て、同じように牛乳を注ぎ、恐る恐るスプーンですくって口に入れた。
「……意外といけるわね」
「だろ?」
どうやらこのお嬢様のお眼鏡にかなったようだ。カップ麺を気に入っていたので、こういうものもいけると思っていたが、どうやら正解だったらしい。
そうやって二人が食べていると、ニュースが見覚えのある住宅街を写し出す。
『先日、香霊町にある住宅街にて、一部の通りが大きく破壊されていることがわかりました。犯人は不明で――』
「げっ、これ昨日のやつだろ。陰陽師ってアフターケアみたいなのはしないのかよ?」
「……いいえ、普通は戦闘後の陰陽師の報告を受けて、修理担当の部隊が環境整備をするはずよ。ただ、これは嬉しい誤算ね」
「どういうことだ?」
「忠則はたぶん、私の討伐に他の誰一人関わらせないつもりなのよ。修繕の報告をしていないのも、自分の敗北に気づかれて増援を呼ばせないためね」
「へぇ。あの忠則ってやつ、マジメそうな顔してるのにな」
「普段はルールが服を着たような男よ。ただ、今回はどうしても一人でケジメをつけたいみたいね」
夜美は呆れたようにため息をつく。しかしそこにはどうしようもないものを可愛がるような小さな笑みが浮かんでいた。
「まったく、実力は光るものがあるけど、まだ若いわね。私を殺そうとするくせに、心のどこかで迷ってて霊器の使用を躊躇するし。挙げ句の果てに私情で報告を怠るなんて。現役だったら速攻でその性根を叩き直していたわ」
「……関係を聞いても?」
「……上司と部下、のようなものかしらね。あっちの方が歳上だけど、私は学院に通わずに幼いころから陰陽師として活動していたから。それで色々とストレス発散……じゃなくて手ほどきしてあげてたってわけ」
「最後物騒な言葉が聞こえたんだが」
これが上司とか自分は絶対ゴメンだと王牙はひそかに忠則に同情した。だってパワハラ酷そうだし。
その後、王牙たちは簡素な食事を完食し、スプーンを置いた。そして王牙は彼女の瞳をまっすぐ見据え、本題に入る。
「んじゃあ腹も膨れたところで、聞かせてくれよ。お前が何者で、なんのためにこの町に来たのかを」
「……まあここまで巻き込んだんだもの。さすがに誤魔化しきれないわよね」
はぁ、と盛大なため息をつく夜美。
本当は王牙を関わらせたくはなかった。だから最初に会ったあの時、彼を遠ざけようとした。
だが、これからは違う。彼が能力者だとわかった以上、忠則は、いや陰陽師たちは確実に彼も標的に入れてくる。なぜなら能力者は霊器の素材になるからだ。それらから身を守るためにも最低限の知識は持っておかなければならない。
「改めて自己紹介するわ。私は出雲夜美。陰陽師よ」
彼女は優雅な立ち振る舞いで、そう名乗りを上げた。
『陰陽師』。その名前については王牙も知っていた。フィクションの漫画やゲームで何度も聞いた名だ。だがまさか実在していたとは。
王牙はまじまじと黒い巫女装束の彼女を観察した。
昨日の会話から察するに、彼女はあの忠則と同じ職業の人間だったのだろう。それがなぜ敵対することになったのか。
「色々説明するべきことはあるけれど、まずは陰陽師について話すべきかしら」
「そこはなんとなく察しがつくぜ。あれだろ、妖怪とかそういうのを退治するんだろ」
「まあ、おおむね正解ね。私たち陰陽師は千年以上も前から活動し、妖怪を代表とする異類の存在を退治してきた。全ては人類の守護のために」
「でも、昔はともかく、今は陰陽師とか妖怪って話に聞いたこともないぞ? 陰陽師はそんなに昔から活動してたのに、おかしくないか?」
と、王牙は至極真っ当な質問をした。夜美はそれに頷いて答える。
「妖怪というのは人間の負の感情から生まれてくる存在なのよ。何十、あるいは何百、はたまた何千何万という悪意が束ねられ、そこに大気の霊素が混ざり合い、生まれる幻想災害。研究によってそれを知った数百年前の陰陽師たちは自分たちと妖怪の存在を隠蔽し、闇に移すことで人々が感じる恐怖の感情を薄め、妖怪の発生を抑制しようとした。当時は人々の心の拠り所が宗教から科学に移り始めたから時期が良かったというのもあるわ」
「そしてその結果、陰陽師と妖怪は忘れ去られ、平和な世の中が誕生したと」
「ええ。それでも人間がいる限り妖怪が根絶されることはない。だから陰陽師は光天京にある陰陽師院という組織に属し、その命令で浮世に降りて妖怪退治を行うの」
「その光天京ってのは?」
「異界に作られ、浮世とは切り離された都よ」
王牙は夜美の言葉を一つ一つ咀嚼し、理解しようとする。残念ながら王牙のオツムはさほどよくはない。だがこの話だけは重要だとわかってはいるので、脳をフルスロットルで働かせてなんとか食らいついていた。
「で、そんな正義の味方の陰陽師院から、なんで陰陽師のお前が追われているんだ?」
「……今の私の姿を見て、よく私が陰陽師って信じられるわね」
夜美はどこか自虐的な笑みを浮かべながら、自らの頭から垂れている桃色の兎耳を手で弄ぶ。
たしかに、その外見からして今の彼女は人外で間違いないだろう。それが陰陽師を名乗っているのだから普通は矛盾していると思うかもしれない。
だが……。
「お前が嘘言ってるかどうかなんてその目を見りゃわかる。それにあの忠則ってやつの反応から、本当に上司部下の関係だったってのもわかるからな」
「そう……」
彼女はそれを聞いて、今度は本当の笑みを浮かべた。
それは気のせいだと思えるほど小さな笑みだったが、まっすぐ顔を見ていた王牙にはそれがわかった。
「そうね。本来の私は人間だった。人間として生を受け、人間として成長し、人間を守るために陰陽師になった。そして私は人間として終わりを迎えたはずだった」
「終わりを迎えた?」
「ええそう。本来の私は一ヶ月ほど前に心臓を貫かれて死亡したの」
衝撃の告白。それを聞いて王牙の頭の中が真っ白になる。あまりの驚きに言葉すら発せずにいると、夜美が話を続ける。
「きっかけはとある神が現れたことよ。元は創造と破壊を司る神だったらしいけど、永い年月の果てに創造神と破壊神に分たれたようね。私を襲ったのは、その破壊神の方」
「……」
「私は出雲の巫女としてこの世界を守るために、その神と戦ったわ。だけど奮戦虚しく私は敗れてしまった。そして心臓を抉り取られて死んでしまったの」
「じゃ、じゃあ目の前のお前は亡霊とかそういうのになったってことか?」
この世の異類を妖怪と呼ぶのなら、間違いなく亡霊も妖怪の一種に数えられるだろう。
しかし彼女は首を横に振る。
「陰陽師院にはね。禁じられた術がいくつか存在するの。その一つが『幻想召喚』。莫大な霊力と触媒、そして強固なイメージを織り重ねることによって、ありとあらゆる存在を幻魔として召喚する秘術。それがたとえ死者であってもね」
「……おいマジか。てことはお前は……」
「そう。私は幻想召喚によって生み出された幻魔、出雲夜美なのよ」
さすがに超常現象には慣れてきたと思った王牙も、こればかりは目を剥いて驚いた。
死者蘇生すら可能な禁術? なんだそのデタラメっぷりは。忠則の地獄の炎や王牙の『駆動心音』がちっぽけなものに見えてくる。
「私を召喚したのは家臣の一人よ。忠誠心が厚い人だったのだけれど、それが暴走してこんなことをしたようね。彼はその後、掟を破った罰として私の目の前で切腹して死んだわ」
「っ……! それは……!」
「同情は不要よ。幻想召喚は禁忌の秘術。彼が自害しなかったら私が首を刎ねてたところよ。それがわかっていたからこそ、彼は自害したのでしょうね」
日常に生きてきた王牙には理解しがたい価値観だ。
それに驚いてしばらく放心していたが、やがてある疑問が彼の中に浮かび上がる。
「……でも、どうして陰陽師院のやつらは幻想召喚を禁止してるんだ? 道徳的にはまずいのはわかってるけど、死者蘇生すらできるんだったら過去の英雄とか呼び放題じゃねえか」
「幻想召喚には一つ欠点があるの。それは召喚した存在は必ず狂化されてしまうこと。つまりどんな英雄だろうと神だろうと呼べばその性質が反転して、闇に堕ちてしまうのよ」
「えーと、つまり、どういうことになるんだ?」
「どんな善人だろうが幻魔になった時点で悪人に成り果てるってことよ。実際、どこかのバカが英雄を幻想召喚した結果、罪なき人々が殺戮されたなんて記録が山ほどあるわ」
「なるほどな。そんなに都合のいいものでもないのか。だから禁術指定されてると」
「そういうこと。そして過去の数々の過ちによって陰陽師院が導き出した答えは、術の封印と召喚された幻魔の処刑だった。まあ当然よね。召喚されるのはたいていが英雄か神霊。それが悪性を持ってしまうのだから、人類の守護者側としては殺すもやむなしってやつよ」
諦観をこめた表情で彼女は語った。陰陽師院の言い分にも納得はできる。王牙には英雄やら神様やらの力を具体的には想像できるわけではないが、それでもそれらの存在が現代兵器を遥かに超える力を持っていることだけはわかっていた。なぜなら王牙ですらそのくらいの力は持っているのだ。それ以上の存在が制御不能になるなど考えたくもない。
「……あれ? でもお前は狂っているように見えねえんだが……」
「……それは私にもわからないわ。狂化を解除する方法なんて今も見つかってないはずだし。私が特別なのかと言われると、それも違う気がするわ。私以上に格の高い存在を呼んでも正気を保てなかったって記憶も残ってるし。ただその代わりなのか、私の力は生前と比べるとかなり落ちてしまっているみたいね」
彼女はまるで己の力を確認するように手のひらを握っては開きながらそう口にした。そしてビシッと王牙に指差してくる。
「だから昨日のあれも本来の力があれば余裕で突破できたのだから。勘違いしないでよ」
「へいへい。負けず嫌いなことで……」
昨日もどうでもいいことだと思っていたが、どうやらそれは彼女にとって重要なことらしい。思わず高飛車女という言葉が彼の頭に浮かび上がった。その無駄に高いプライドといい、着ている服からしてやっぱり彼女はどこぞのお嬢様か何かなのだろうか。雰囲気や仕草の一つ一つから気品のようなものを感じるし。
「……ちなみに、その兎耳は生前からあったのか?」
「あるわけないでしょうが。これは触媒に家で飼っていた兎が使われたせいで、その性質が混ざったのよ」
ちょっと冷たい目で王牙は睨まれてしまった。どうやら彼女は人外の証であるあの兎耳が嫌いらしい。個人的には長い横髪みたいに垂れていて似合っていると思うのだが、それを口にすればどうなるかは想像できるので黙っていることにした。
「なんで兎?」
「私の家は古くはオオクニヌシを、今ではツクヨミを祀っているわ。そしてその両方に関係が深い動物が兎というわけで、私の家では儀式用に兎が大切に育てられていたの。だからそこの巫女である私を召喚するのに選ばれたのでしょうね」
「うーん……ツクヨミってのは月の神だろ? だから兎ってのはわかりやすいけど、そのオオクニヌシ? ってのはどんな関係があるんだ?」
「『因幡の白兎』って言えばわかるかしら? あれで兎を助けたのが、のちに地上の支配者となるオオクニヌシなのよ」
「えっ? あれって桃太郎とかカチカチ山みたいなお伽話じゃないのか?」
「正式に古事記や日本書紀に書かれている神話よ。まったく、自分の国の神話すら学ばないなんて、浮世の教育はどうなってるのよ?」
そんなことを言われても困る。王牙としては別にどうでもいいことだと思うのだが、彼女からすればそうではないらしい。愛国心を育むとか、大和民族の誇りがどうとか、小難しいことをブツブツと呟いて文句を言っていた。
しかしこのまま話が脱線していては埒があかないと思い、王牙は唐突に話を切り替えようとする。
「ま、まあ、とりあえずお前がなんらかの原因で正気なことはわかった。じゃあそれを陰陽師院に言えばいいじゃねえか?」
「幻魔の言うことなんて誰も信じないわよ。過去に正気だと主張して騙した例もあるし」
「……そうか」
その事実を知り、王牙は夜美の心が気になって彼女を見つめる。
彼女はそこは割り切ったとばかりに冷静な顔をしているが、本当に彼女はこの運命をすんなり受け入れたのだろうか。今でも自分を陰陽師と名乗っていることから、彼女にとってその肩書きは重要なものであったはずだ。それをあっさり捨てられるとは到底思えない。
しかしどれだけ王牙が彼女の内心を推測してもその氷の仮面の奥を見抜けない以上、それはただの憶測でしかないのだった。
「お前が追われている理由はわかった。それで? 今後はどうするつもりなんだ? しばらくだったら俺の家でかくまってやることもできるけど……」
「……私がここに来たのは、この町で起こる大災厄を防ぐためよ」
「……は?」
突然の内容に王牙の頭が一瞬フリーズする。
災厄? この香霊町に?
それを理解した途端、彼は身を乗り出す勢いでテーブルを叩き、彼女に詰め寄った。
「どういうことだ!?」
「……今でも感じるのよ。失われたはずの心臓とのつながりを。そしてそれを手にしているあの神の存在を。私の予感が正しければ、かの破壊神は今この町のどこかにいるわ」
「っ……!? それは……本当なのかよ?」
「あくまで私の感覚でしかないから、あなたを納得させられる根拠はないわ。でも巫女の勘ってのは当たるものなのよ? ましてや私ほどのものならね」
感覚と言いながらも、彼女は敵の存在を確信しているようだった。ゆえにその顔は自信に満ちていた。
「だから私はここに来た。陰陽師として災いを退け、人々を守護するためにね」
「お前……」
その真剣な瞳の輝きを見て、王牙は彼女の覚悟を悟る。
どう言い繕っても彼女は幻魔、人間ではない。つまり彼女はもう、陰陽師ではない。そんなこと、誰よりも彼女がわかっているはずなのだ。
だけど彼女は陰陽師であり続けることを決意した。たとえそれが叶わない夢であろうと、心だけは陰陽師であり続けることを決心したのだ。
「何かしらその顔は? 哀れみは不要よ。どんな体になろうと私は陰陽師。陰陽師であり続ける限り、私は私でいられるの」
「自分が自分であるために、か……」
叶わない意地を通そうとするその誇り高い姿。それに、王牙は自分を重ねてしまう。
嘘をつかないなんてこの人間社会で生きていく以上、どうしたってできないことだ。その事実に王牙はさんざん打ちのめされてきた。
だけど、嘘をつかないという意志。
これだけはどれだけその通りにならなくても捨てられないのだ。それこそが王牙の信念なのだから。それを失った途端、王牙は王牙でなくなってしまう。
同じようなことを、彼女も考えているのだろう。特に彼女は幻想召喚によって己の存在を半ば否定されてしまっている。生前とはどう言い繕っても違う以上、自身の存在は偽物であると、自分を見失いかけてもおかしくはない。だからこそ、彼女は陰陽師という唯一自分を定義できるものにしがみついているのだ。
「気に入った。その仕事、俺も手伝わせてくれ」
拳を打ち合わせ、王牙は覚悟を決めた。
もちろん、戦闘に恐怖はまだある。昨日の傷なんて一生のトラウマものだ。腕の神経が焼け切れ、だんだんと動かなくなっていく感触など思い出すだけで吐きそうになる。だがそれでも、王牙は逃げるわけにはいかないのだ。
「……ダメよ。あなたは能力者とはいえ一般人。これ以上巻き込むわけにはいかないわ」
彼女はその提案を拒否してきた。
責任感の強い彼女のことだ。そう言ってくるのはなんとなく理解できていた。だが、王牙は諦めずに一歩踏み込む。
「ふざけんな。自分の町がぶっ壊されそうだってのに黙ってられるかよ! この町には俺の仲間たちがいる! 俺はそいつらを絶対助けたい! 仲間を見捨てて、本心すらも偽って、他人任せのまま生きていくなんて死んでもゴメンだ!」
「王牙……」
「そうだ! 俺は我道王牙! 座右の銘は『誰かのためにならない嘘は絶対つかねぇ』! どれだけお前が拒否っても、絶対に巻き込まれてやるからな! 覚悟しとけ!」
この啖呵は夜美に見せつけるためだけのものではない。王牙自身の覚悟の表れでもある。
一度吐いた唾は飲まない。これで、王牙はもうこの戦いから逃げることができなくなったというわけだ。逃亡は王牙の信念の死を意味することとなる。それだけはどうしても受け入れられない。
だから、絶対に町を、仲間たちを救ってみせる。
夜美はその爛々と激しく輝く決意の瞳を見て、諦めたようにため息をつく。
「……その様子じゃ言っても無駄なようね。いいわ。どのみち私一人じゃ厳しいだろうし。あなたは今日から私の式神よ」
「はぁ!?」
「さあ、さっそくこれからのことについて話していくわよ。ほら、ぼけっとしないでお茶の一つでも出しなさい」
「いやちょっと待てよ! なんだ式神って!? そこは仲間だろうが普通は!」
「あなたが私の仲間になんて百年早いわ」
「お前が陰陽師院から追われてる理由、もしかして幻魔うんぬんじゃなくて性格の悪さが原因だったりしねえか……?」
「何か言ったかしら?」
「イエ、ナニモ!」
結局、夜美の恐ろしく冷たい笑みによって王牙はその話を了承してしまったのだった。
その後、王牙は話し合いがひと段落済んだと判断したところで、休憩のために二人分の茶を入れてテーブルに置いた。しかしそれを飲んだ夜美は、
「うっ! 何これ、汚川の水でも温めたの?」
「インスタント食品はいいのに、なんでインスタントの茶はダメなんだよ!?」
「お茶は別よ。お茶は大和民族の心よ。妥協は許されないわ」
「あえて点数をつけるんだったら?」
「五点。私に提供するんだったら最低八十点は取れるお茶を用意することね」
「死ね。そして全国のインスタント茶作ってる業者の人に謝れ」
そんなこんなで王牙たちの会議は次のステップに進み、今後どうするかについて話し合うことになった。
とはいえ、王牙が提案できることは少ない。王牙は敵を殴ることはできても、探索やら調査やらはできないのだ。そしてその殴る方も体がボロボロの現在では役に立ちそうもない。だから大まかな指針は夜美に任せるしかなかった。王牙が今すべきなのは、一刻も早く体を治して、戦線に復帰することだ。
「とりあえず、今後は私の霊力が回復次第、式神を放って町の様子や不審者を探るつもりよ。今のところ考えられるのはそれぐらいかしらね」
「あの忠則ってのはどうするつもりだ?」
「あれだけの怪我、忠則の祈祷術の腕じゃ動けるようになるまで一週間はかかるはず。彼が単独でいる以上、それまでは安全に動けるはずよ」
「……俺にできることは?」
「ないわね。隠形術で霊力も遮断できない以上、外に出すわけにもいかないし。とりあえずネットとやらでオカルト話でも調べておきなさい」
「雑だな!?」
「それだけあなたが役立たずってことよ。あなたは戦うことしかできない脳筋なのだから、大人しく怪我を治すことね」
「くっそう。言い返せねえ……」
とまあそんなこんなで、王牙たちは今後の方針について話し合い、それぞれの作業に取り組むことにしたのであった。
♦︎
「……ほう。当てもなくさまよって、この地に辿り着くとは……やはりこれに引き寄せられたのか」
同時刻。浮世に限りなく近く、遠い場所にて。
男は先日激闘を繰り広げたばかりの女の気配を感じて、口の端を釣り上げる。
そこは不思議な空間だった。時刻は間違いなく朝のはずなのに、太陽の光が一つとしてない。むしろ空にあるのは漆黒の果てなき空と、それを照らすか細い星々。そして血のように不気味に輝く紅い満月のみ。
そこに立っていたのは「白」という言葉が第一印象で浮かび上がるほど目立つ男。黒いシャツの上に白いレザージャケットをマントのように纏っている。髪はまるで歌舞伎役者の振り毛のように白く、大蛇のように長い。そしてその素顔は中性的な美をたたえており、まるで天使を思わせるような神秘的な美を感じさせる。
だがその体から天地を覆うほど溢れ出る霊力は、まさに邪悪と言ってもいいほどの悪意に染まっていた。
男は左手の中にあるピンク色の肉塊を見つめた。それは持ち主の左胸から抜き取られて時間が経っているにも関わらず、まだ生暖かく、ドクドクと脈打っている。
「死してなお、棺桶の中から這い出してでも私を追ってくるか。哀れで、滑稽だな。だがそれもまた人間というもの」
今でも思い出せる。あの時の戦いを。心臓を抉り取ったあの生暖かい感触を。そして彼女が浮かべた甘美な絶望を。
『ハァッ……ハァッ……!』
『……驚いたな。出雲の巫女とはいえ、まさか人間が三日三晩戦い続け、あまつさえこの私に傷を負わせるとは。だが無駄だ。援軍は来ない。そういうふうにこの世界を作った。お前はこのまま誰にも最期を看取られることなく、消え去る』
『まだ……よ……っ……! 私は、出雲の巫女として……あなたを……!』
『いいや、終わりだ』
『っ!? がはっ……!!』
『さらばだ。幻想の番人よ』
彼女の魂は美しかった。最後の最後まで諦めずに、敵わぬ敵に立ち向かうそこには、高潔な輝きがあった。
だからこそ、それが絶望の暗闇に染まる瞬間もまた、美しかった。
くつくつと笑い声を漏らしながら、男はその表情を隠そうとするように手で顔を押さえる。しかしその口は歪な三日月を描いていた。
「崩壊前の余興だ。最後の思い出として、せいぜい私を楽しませてくれよ?」
夜美が正気な理由はちゃんと存在しているのですが、シナリオの都合上、開示されるのは当分先になりそう……。




