第64話 幻魔:雲踏天音
「カハッ……ゴホッ……!」
遡ること数分前。
静音は高所から地上に叩きつけられ、折れた肋骨の痛みも重なってもがき苦しんでいた。
意識ははっきりしている。いや痛みで無理やり覚醒させられていると言うべきか。肋骨が悲鳴をあげて、彼女に目を閉じることを許さない。呼吸をするだけで痺れるような痛みが襲いかかってくる。それは、まさに生き地獄のようであった。
「フゥゥ……! フゥゥ……!」
だが、それでも止まれない。静音は文字通り歯を食いしばって地を這いながら、少しずつ、少しずつ確実に進んでいく。あまりに噛み締めすぎたせいで歯茎から血が流れるが、気にも留めない。その目は血走り、鬼気迫るものを感じられる。
それは執念。
彼女の妹への思い。それがズタボロで壊れかかっている彼女をかろうじて支えているものだった。
そして、彼女はようやく辿り着く。
幻想召喚。その儀式陣へ。
息を整えながら彼女は立ち上がり、中央の祭壇へ自身の妹の魂が宿る霊器、空硯を設置する。柄頭の先についた金剛鈴がシャンッと悲しげに鳴るが、痛みを押さえ込もうとするあまり彼女がそれに気づくことはなかった。
静音は儀式陣の下に眠る龍脈を操作する。この下の龍脈にはあらかじめ穴を空け、術的な栓をしておいたのだ。その封印を解くと、まるで間欠泉のように霊力が大量に噴き出してくる。一度天に向かって放たれ、その後地上の降り注ぐそれは、まるで恵みの雨のように神秘的であった。
『幻想召喚で召喚された存在は強制的な狂化が付与され、凶悪な幻魔へと成り果てるわ。その霊器の中の人の尊厳を守りたいのだったら、悪いことは言わないわ。やめておきなさい』
「信じない……! うちは信じない……! 陰陽師なんて信じてたまるか……!」
先刻、夜美が言った忠告が彼女の頭を一瞬よぎる。しかし彼女はそれを振り払い、龍脈の霊力を儀式陣に注いでいく。
それは、追い詰められたゆえのやぶれかぶれな判断だった。
もはや彼女に夜美を奪う力はない。いや、そもそも彼女は夜美を生贄にすることはできない。それをやったら彼女が憎む陰陽師と同じになってしまうと、無意識下でわかっていたからだ。
時間も有限。考える時間もない。あと少ししたら王牙たちがやってきてしまう。そうなれば何も成し遂げられないまま終わってしまう。妹を人間に戻せなくなってしまう。
だから、彼女は最後の手段として、通常の幻想召喚に賭けることにした。奇跡にすがったのである。
その判断は第三者から見れば愚かに思われたかもしれない。しかし人間は崖っぷちの状況の中では藁にも手を伸ばすものなのだ。
なまじ、成功例が目の前にあったというのも、彼女の判断をさらに鈍らせていた。夜美は幻想召喚で復活してなお、その人格を保っている。なら、億分の一でも妹もそうなってくれるかもしれない。
成功例があると、どれだけ確率が低かろうが人間は失敗を考えないようになってしまう。自分なら大丈夫。自分ならうまくいく。そんな何の根拠のない確信を無意識のうちに持つようになる。
そして、現実はそれほど甘くはない。静音はさんざん理解していたはずのことを、この後になって再び思い出すこととなる。
「――『流れゆく星の記録を遡り、掛けまくも畏き夢幻大神に畏み畏みも申さく。
――我、此処により理を破却し、双界を混ぜ合わせん。境目を喪失せん。されど罰せたまうな。祝福せよ。
――現し身を現世に。
――その御霊を礎に、霞を肉とし、呪いを心とし、器を形作る。されどそれは泡沫の夢。哀れな幻影。それでも汝歩みを止めず。我、その歩みを嘲笑い、闇の釣り針を垂らし座して待つ』」
そこまで唱えたところで、中央に設置されていた空硯がふわりと浮き上がった。そしてそこに膨大な霊力と静音の妹を形作るイメージが注がれていく。
静音は深く息を吸い込むと、夜美から聞き出した詠唱。その最終節を叫ぶように唱えた。
「『――寄る辺なくば手を取れ! 望みあらば願うがいい! 今こそ微睡の水面より浮き上がれ、幻想の守り人!』」
そうして彼女は魂のあらん限りの声と願いを込めて、詠唱を唱え切った。すると空中に浮かんだ空硯は光の繭を形成し、激しい閃光と稲妻を撒き散らす。それはどんどん膨張していき――。
「――『王牙会心撃』!」
――瞬間、背後から飛んできた青の衝撃破に砕かれ、大爆発を起こした。
「カハッ……!?」
避け切れるはずもなかった。
静音は爆発に呑み込まれ、火傷を負いながら何回転もし、最終的には尻もちをついたような体勢で倒れた。
一瞬の思考の空白。しかし何が起きたのかを理解して、すがるように儀式陣のあった場所へ手を伸ばす。
――その手を、何かが掴んだ。
「……」
「天、音……? 天音なの……?」
「……」
煙が晴れ、光が撒き散らされる。その中から現れたのは、静音の記憶そのままの妹、雲踏天音の姿だった。
彼女は長き眠りから解き放たれたかのように目を開き、そして静音の姿を確認すると、穏やかな笑みを浮かべる。
それを見た途端、静音は腹の痛みを忘れて彼女に抱きついた。
「天音……! よかった……! よかったぁっ……! う、うち、一人だけ何も知らなくて……! それで助けられなくて、生き残っちゃったことを謝りたくて……!」
「……いいの。いいんだよ、お姉ちゃん」
静音は今まで溜まってきた全ての罪悪感を懺悔する。
家族が皆殺しにされ、さらわれた時、静音は何もすることができなかった。焼け落ちた家に呆然とし、ただ涙することしかできなかった。警察に通報して、闇雲に行方を探すも、何も進展はなく、途方に暮れたものだ。あの時ディストピアスのメンバーと知り合わなければ、空硯を取り戻すことさえできなかっただろう。
肝心な時に何もしてあげられなかった。その罪の告解に、天音は聖母のように優しげな笑みを浮かべる。少なくとも静音にはそう見えた。
「許して、くれるの……?」
「うん。許してあげるよ。だってお姉ちゃんは天音のお姉ちゃんなんだもの」
二人は姉妹の絆を確かめ合うように、固く抱き合う。
静音は二度と感じられないかもしれないと思っていた妹の肌の暖かさを感じ、涙を流す。
これで、全てが幸せに終わる。……その、はずだった。
「――ただし、死をもって、ね」
――次の瞬間、静音の背中から日本刀の刃が突き出た。
「……えっ?」
呆然とする静音。彼女は目を白黒させながら、自らの手のひらを見つめる。
そこには、赤黒い液体がべっとりと付着していた。
「血……なんで……? 天音……?」
「なぁに、お姉ちゃん?」
実の姉の体を刃が貫通したというのに、天音はまったくいつもと変わらぬ明るい声で応答した。そのいつも通りの声が逆に不気味さを助長させる。
彼女は、にっこりと華やかな笑みを浮かべていた。遠目から見たらそれは天使の微笑みのように見えただろう。
ただし、その目。その一点だけは、泥のように濁り切っている。それが間近で見ている静音には、悪魔の笑みのように感じられた。
彼女の手には見覚えのある打刀が握られている。先ほど静音が幻想召喚の媒体としたはずの空硯である。その刀身が、静音の体を貫いていたのだ。
「……どう、して……?」
「どうして? じゃあ逆に聞くね、お姉ちゃん。どうしてあの時助けてくれなかったの?」
「へっ……?」
なんのこと? 身に覚えのない質問に、そう尋ねようとする静音。しかしその前に天音は彼女の頭を鷲掴みし、自らの目と目が重なり合いそうになる程密着させる。
そこまでよく天音の目を見たことで、気づいた。
……その目が人間の目ではないことを。
記憶にある妹の目では決してないことを。
「ねえお姉ちゃん。なんであの時天音を助けてくれなかったの? なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで?」
「あっ……」
「私、何度も叫んだの。刀で足と腕を切り刻まれて、体に素手で穴を開けられて。痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて。それで何度もお姉ちゃんを呼んだの。でも来てくれなかった。……ねえ、なんで?」
「あ、ああ……っ」
その時は外にいて、家で何が起きているのかなんて知らなかった。それが彼女が助けに来れなかった理由だ。
しかし静音はその憎悪にまみれた瞳を見て、弁明する気を完全に失っていた。彼女の気迫に呑まれ、全ては自分のせいだという思考が彼女の頭を罪悪感で埋め尽くし、心を締め付ける。
「ねえ。霊器ってどうやって作られるか知ってる? あれはね、人の魂を抜き取って、それを直接金槌で叩くんだよ。何回も何回も何回も、何十回も何百回も……! その後に地獄みたいな炎で涙も枯れるほどに熱せられて、それでまた叩かれるの。それの繰り返し。あれは痛かったなぁ……。あの時ほど生きることに後悔したことはなかった。痛かったよ、ほんと……!」
「ご、ごめんなさい……! ごめんなさい……!」
「今さら謝られても――」
天音は話をしながら、乱暴に刀を静音の体から引き抜いた。そして血で真っ赤に染まった刀身を上に振り上げ――。
「――遅いんだよ!」
憎しみのこもった振り下ろし。それは静音の頭を真っ二つに割るはずだった。
「『駆動心音』、ダブルアクセル!」
しかしそうなる前に王牙が割り込んできた。能力で強化した腕を交差させ、刃を受け止める。
彼は腕から伝わってくる怪力に顔を歪めた。
――こいつ、人間の力をしてねえ……!
刃と腕が凄まじい力で擦れ合い、火花を起こす。
王牙の感想は正しい。今の彼女は幻魔。本当に人間ではないのだ。その証拠に彼女の体からは妖怪の証拠である禍々しくも赤い霊力が噴き出していた。そしてその肉体も、幻魔となったことでただの中学生が強化時の王牙と張り合えるほどにまで強化されている。
天音は力任せに王牙を振り払う。そしてさらに赤い霊力を噴出させ、怒り狂う。
「なんで私だけこんなに苦しまなきゃいけないの? 不公平だよそんなの……! だから私は私の苦しみを平等にみんなに与えてあげるの! 陰陽師だろうが、人間だろうが等しく! 全身を切り刻んで、炎で熱して、鈍器で魂が砕けるまで何度も何度も叩いてあげる! 全人類が同じ目に遭うことで、私はようやく不幸じゃなくなるの……!」
「く、狂ってやがる……!」
「銀座の怪人との戦いであなたも理解したでしょ? あれが本来の幻魔よ。小さな負の感情を何百倍にも増幅させて、思考を狂わせるの。今のあれは不幸な能力者なんかじゃない。ただ己の欲を満たすために人間を殺そうとする化け物よ」
背後にいた夜美が険しい目線を天音に向ける。
彼女は元とはいえ、陰陽師だ。いくら被害者とはいえ、今の発言は決して許せるものではなかったのだろう。
だが、殺戒錠をつけられた今の彼女にできることはたかが知れている。そのため彼女は無言で王牙にアイコンタクトを送った。王牙もその意味を一瞬で理解して、前傾姿勢をとって戦闘態勢に入る。
――要するに鍵を受け取るまで、引き付けておけってことだろ。
「おい静音の妹。はっきり断言してやるよ。こいつは悪くねえ。俺と違ってな。なのに、妹のために歯ぁ食いしばって、普通の人生を捨ててまで、お前のために頑張ってきてたんだ。立派な姉じゃねえか。そいつを八つ当たりで殺そうとする今のテメェには、こいつの妹を名乗る資格はねえぞ……!」
「なぁに、お兄さん? 人の家庭に勝手に口を突っ込まないでほしいなぁ!」
「あいにくと、俺はデリカシーに欠けててな。突っ込んでやるよ、その口にこの拳をな!」
その挑発が戦闘開始のゴングとなった。
王牙は一気に飛び込み、その右拳を振り下ろす。素人では決して避けられない、速く、それでいて破壊力のある一撃。
しかし天音は幻魔の身体能力を活かしスウェーでそれを避けると、体を捻って反撃の刃を振るってきた。
しかしその体勢からでは腰の入った一撃とはならない。王牙は簡単に左腕でそれを弾くと、再び右拳を振り下ろした。
天音は腕が弾かれた勢いを利用して体をのけ反らせた状態から、体を回転させながら横っ飛びをした。そして拳を回避した後、再びカウンターの突きを繰り出そうとする。
それすら王牙は首だけ捻って避け、返しの左ショートアッパー。
天音もまたそれを腰を落としてしゃがみ込むことで無傷で回避し、カウンターの切り上げを繰り出す。
しかし王牙はその刃に拳を当て、攻撃を相殺するとともに彼女の体を吹き飛ばした。
「ちっ……幻魔の本能ってやつか? 太刀筋は腕力任せだが、動きがまるで獣じみてやがる」
幸い、筋力は王牙の方がずっと上だ。今の相殺で彼女だけが吹き飛ばされたことからそれはわかった。
――だったら、その差をさらに引き伸ばす!
王牙は左手で右手首を掴み、三度捻る。そして桃紫色の霊力とともにアクセル音を解き放った。
「『駆動心音』……トリプルアクセル!」
エンジン全開となった王牙。
しかし本気になったのは相手も同じらしい。天音は片手でデコピンの形を作ると、それを空硯についた金剛鈴に近づける。
「また無意識にする催眠か? だが残念だったな。お前の動きに合わせてこっちはいつでも合わせられるぜ」
柏手を打つ体勢を整えながら、王牙は不敵に笑う。
あの催眠能力は鈴の音さえ聞かなければ効果を発揮しない。新必殺技の『王牙裂帛音』ならそれをかき消すことができる。
ゆえにこの時の王牙にはまだ余裕があった。
だがそれもすぐに消え失せることとなる。
次の瞬間、王牙は目を見開いて呆然とした。
鈴を弾くことなく、天音の姿が視界からかき消えたからだ。
「……ぐっ!?」
そしてその直後、左胸を狙った突きが肌に突き刺さった。しかしあらかじめ彼は左胸近くに腕を置いていたため、なんとか防ぐことに成功する。空硯の刃は腕を貫通することなく、火花を散らしてその勢いを止めた。
「うん、心臓のガードはさすがに硬いか。姿が見えなくなった途端、左腕を折りたたんで霊臓と心臓の二つをガードしている。さすがにあれだけお姉ちゃんに切られてれば慣れちゃうか」
「お前……なんで……?」
「あれ、知らなかったの? 能力者の能力は霊器になると少し弱体化するんだよ。つまり今のこれが私本来の能力ってわけ」
振り払うように王牙は左腕を薙ぎ払う。
天音はそれをバク宙し、後ろに大きく跳ぶことで回避してみせた。
「私の能力『路傍石』の基本的な効果は空硯の時と変わっていない。変わったのはその発動条件。空硯は催眠にかけるのに鈴の音を聞かせる必要があるけど、私は見るだけで対象を催眠に捕らえることができる。こんなふうに、ね」
「なんだと……!?」
言うが否や彼女の姿が再び目の前からかき消えた。
王牙はすぐさま左腕をたたんで急所をガードしつつ、精神を集中させる。
何も感じない。
体臭も、足音も、衣擦れ音も、呼吸の音さえも。
いや、王牙の脳はそれを捉えた上で知る意味のない情報としてそれらの情報を自動で削除してしまっているのだ。
ゆえにどれだけ精神を研ぎ澄ませても意味はなく、その行動は無駄となった。
「……がっ!?」
「まずは一撃。どんどんいくよ!」
「っ!」
痛みが走った瞬間、王牙はその方向めがけて腕を薙ぎ払った。しかし何かに当たったというような感触はない。
そしてその直後、再び体から血が噴き出す。
傷つけられるたびに腕を振るうも、かすりすらしなかった。かと言って、何か他に案があるわけでもない。
他にも王牙を焦らせる要因がある。それが一撃一撃の重さだ。天音の攻撃力ははっきり言って静音よりずっと上だった。ゆえに一撃をくらうたびに、肉により深く刃がめり込んでしまうのだ。それは先ほどの戦いで限界ギリギリまで体力を削られていた彼の命を奪い取るには十分なものだった。
(まずい……本格的にまずいぜこりゃ……! どうにかして一発当てねえと……!)
――だが、どうやって?
体を切り刻まれるたびに、王牙はその方向へ向かって右拳を振るう。まるで大砲でも発射されたかのような風切り音が響き渡る。
だが、それだけだ。その一撃が天音に当たることは一度としてなかった。
(認めてやるよ……俺一人じゃお前には勝てねぇ……。だったら、相方の手を借りるまでだ……!)
王牙はなぶり殺しに遭う中、なんとか視線を別の方向に向けた。
とある木の影。そこでは夜美が倒れた静音を引っ張って、隠れ潜んでいた。




