46話 気がつかれた異変、逃避行への誘い
「え……っ」
私は今しがた飲み込んだクッキーの余韻を、慌てて舌の上で探った。
言われてみれば、口に甘味は残っていないようだった。
近頃は食べ物の機微を識別することができず、ただ機械的に喉へと流し込むだけの日々が続いていた。
その風味に意識を向けることもなく、ただ咀嚼して飲み込んでしまっていたのだ。
彼がなぜ、このような残酷な方法で私を試す行動に出たのか。
その理由は、考えるまでもなかった。
私は彼の瞳から逃れるように視線を落とし、今にも途切れそうな声で問いかける。
「いつから……気づいていたの……?」
隠し通さなければいけない秘密だった。
レイフの眼差しはあまりに優しく、だからこそ、すべてを見抜かれていた事実に心臓が痛いほど跳ねる。
頭のなかは真っ白になり、紡いだ声はかすかに震えていた。
「君と共にあの焼き菓子を口にした、あの時からだ。あれは王都でも甘味が強いことで知られている品だ。にもかかわらず、君はそれを素朴な味わいだと評しただろう。あの瞬間から、私は奇妙な違和感を覚えていた」
予想よりもはるか前。
それどころか私が自覚するよりも早く、彼は私の異変に気づいていたことに驚愕する。
「祝祭の日も君は何も口にしようとせず、装飾品を選ぶことすら拒んだ。何より……君が目覚めてからというもの、その顔から笑みが消え失せていた」
「笑顔……」
冷え切った指先を、私は自らの唇へとそっとあてがう。
その仕草を、レイフは切なさを帯びた目で見つめていた。
「君自身は無意識だったかもしれないが、君は青空や煌めく湖、瑞々しく咲く草花……そういった世界の美しいものを目にするたび、愛おしそうに柔らかな微笑みをこぼしていたんだ。それが一切なくなったどころか、景色から目を背けるようになっていた。それが、何よりの決定打だった」
もう、どのような言い訳も通用しない。
彼と視線を交わすことすらできず、私は胸が圧迫されるように呼吸が浅くなっていくのを感じていた。
「エリシア、君は聖女としての権能を得る代償として……人間としての感覚を失いつつあるのだろう」
「…………っ!」
私が拒絶することも、隠すことも許さないように、彼は積み重ねてきた果てに辿り着いた真実を、私へと突きつけた。
できることなら、最後まで何も知らずにいて欲しかった。
真実を打ち明けられなかった罪悪感で、私は彼に背を向けてその場から逃れようとしてしまう。
だが、それを阻むように背後からレイフの腕が回され、私の体を優しく包み込むように抱き寄せらる。
耳元に届く彼の声音はどこまでも優しく、しかし胸が締めつけられるほど、切ない熱を孕んで響いていた。
「優しい君のことだ。私を案じるあまり、あえて沈黙を守っていたのだろう。その思いを責めるつもりはない」
彼の腕の中で、言葉が途切れる。
「だが、私を頼って欲しかった。君のその口から、恐ろしいと、助けて欲しいと、そう私にすがって欲しかった……!」
「……あなたからは、もう数え切れないほどの温もりを貰っているわ。私はただ、このままあなたのそばにいられるだけで、それだけで十分だったの」
それは決して虚勢などではなく、紛れもない私の本心だった。
例え全てを失ったとしても、最後に残るのが彼への愛なのだとしたら、その感情だけが私の唯一の道標であり、支えだったのだから。
「君がそう言うのは想像がついていた。だからこそ、私もずっと、君をこの呪縛から救い出す手段を模索していたんだ」
彼は私の耳元へとさらに唇を寄せた。
鼓膜を焦がさんばかりの、熱く狂おしいほどの吐息が肌を打つ。
「エリシア、全てを投げ打ってここから逃げ出そう。聖女としての不条理な使命から……いや、この国そのものから」




