45話 霊峰への旅路、罠となった味
邪神の眠る霊峰までの道のりは、どれほど馬車を急がせたとしても三日は要する距離にあった。
私はやがて失われるであろう外の光景を記憶の奥底に刻みつけるように、窓の向こうを流れていく移りゆく様をただじっと見つめ続けた。
太陽を覆い尽くす曇天が空を支配し、車窓から見える木々の彩りは僅かにすすけて映る。
けれど、たとえそれがまばゆい晴天であったとしても、今の私の心が美しさを感知することは決してないのだろう。
「……エリシア。どうしたんだ?」
あまりにも生気を欠いた眼差しで窓外を凝視していたせいだろうか。
隣に座るレイフが、私の様子をうかがうようにして静かに声をかけてきた。
「見たことのない土地の景色だから、今のうちにしっかり見ておこうと思ったの。天気が良い日の光景も、いつか見てみたかったわ」
「そうか……」
レイフは短く応じると、曇天の下であっても鮮やかな光を宿す青い瞳を、どこか陰らせて伏せた。
その佇まいはいつもと明確に異なっており、私の胸に微かな不安の影が落とされる。
「レイフ、疲れているの? もうすぐ宿場街に到着するから、今夜は無理をせずゆっくり体を休めてね」
「いや、体調は大丈夫だ。……エリシア、宿に到着した後、夜に少し時間をくれないか。君と、二人だけで話がしたいんだ」
「ええ、もちろんよ」
例えどれほど感覚が薄れようとも、彼と共に過ごせる時間が訪れるのは純粋に嬉しかった。
私が表情を和らげてみせても、彼はいつものように愛おしげな笑みを返してはくれない。
どこか張り詰めたその面持ちを見つめているうちに、やはり彼こそ疲労を溜め込んでいるのではないかと、私の方こそ心配になってしまう。
(何もないといいのだけど……)
完全に夜の闇が降りる直前、馬車は夕暮れの薄明のなかで静かに停車した。
その宿場町は、静かでありながらも交通の要衝として栄えており、レンガ造りの街並みがどこまでも広がっている。
私達はその一等地にある、一際壮麗な宿へと足を踏み入れた。
「聖女エリシア様、長旅でお疲れになられたでしょう。お体に障りはございませんか?」
私達の様子を探るように、クラヴィスが声をかけてくる。
全ての真実を共有してしまった彼とは、どうにも以前のように対話することが難しく、私は彼の淡い緑の瞳から逃れるようにして視線を逸らした。
「問題ありません。……部屋に入る前に、レイフと少し中庭を散策してきてもよろしいでしょうか?」
「……ええ、もちろんです。お気を付けて」
レイフを見上げると、彼もまたじっと私を見つめており、二人の視線が交差した。
彼はわずかに目元を緩めたものの、その表情はどこか不自然に強張っているように見えた。
「行こう、エリシア」
彼がそっと差し出してくれた手を、私は自らの手で包み込む。
彼の手のひらから伝わってくる熱は、空虚に侵食されかけた私の心へと深く染み渡っていった。
レイフに案内された中庭は、多種多様な植物で彩られ、見事な植栽が施されていた。
美しく敷き詰められた石畳の散策路を歩きながら、私は隣を歩むレイフへと視線を走らせる。
「レイフ、本当に平気なの?」
元より饒舌な人ではないけれど、ここまで無言を貫くことは滅多にない。
彼の沈黙が私の内に暗い予感を呼び寄せ、どう振る舞うべきか分からなくなっていく。
「エリシア、少しの間だけ、目を閉じてくれないか?」
「え……ええ、分かったわ……」
突然の奇妙な願いに困惑しながらも、私は静かにまぶたを閉じた。
彼がこちらへと距離を詰めてくる微かな足音が、静まり返った中庭に響く。
彼の気配が目の前で止まると同時に、私の唇に小さな塊が優しく押し込まれた。
「ん……!?」
軽快な歯触りとともに、それが何らかの焼き菓子であることだけは理解できた。
「以前、湖畔の街で気に入っていたクッキーだ。……甘くて、美味しいだろう?」
私は彼の不意打ちのような心遣いに驚きつつも、その優しさが愛おしくなって笑みをこぼした。
「ええ、とっても美味しいわ! レイフ、素敵な贈り物をありがとう……」
そう答えた、まさにその時だった。
彼の端正な顔が、まるで絶望に引き裂かれたかのように、悲痛に歪められた。
あまりに急激な彼の変化を前に、私の行動に何か過ちがあったのかと動揺に襲われる。
「エリシア。君が今、食べだものは……君が苦手とする、塩気の強いソルトクッキーだ」




