44話 自分の築き上げた信頼、戻れない歩み
邪神が眠る霊峰へと旅立つ準備が整ったのは、それから二日後のことだった。
各地で引き起こされている魔獣の被害状況を鑑みて、極めて迅速な遠征計画が立てられたらしい。
あまりの慌ただしさに戸惑いを覚えつつも、私は旅立ちの支度を進めていった。
「聖女様!」
回廊をレイフと共に歩いていると、背後から呼び止められて振り返った。
そこには、かつて執務室の書類整理で私を支えてくれた、懐かしい面々が息を切らせて駆け寄ってきているところだった。
「皆さん……どうされたのですか?」
「聖女様が霊峰へと旅立たれると伺い……。居ても立っても居られず、こうしてお見送りに参りました」
私を見つめる神官たちの表情には、隠しきれない憂慮の色が浮かんでいる。
危険な邪神の封印地へと赴く私の身を、心から案じてくれているのが痛いほどに伝わってきた。
執務室の責任者である、あの年配の神官が一歩前に歩み出る。
「聖女様。私たちは、あなたが『聖女』という高貴な地位にあるから敬意を抱いているのではありません。身分を問わず、誰に対しても等しく救いの手を差し伸べる、あなたのその尊いお姿に心動かされたのです。どうか、ご無事であられることを祈るばかりです……」
年配の神官は、その場に片膝を突き、至上の敬意を込めた祈りを捧げてくれた。
わずかな期間ではあったけれど、私と彼らが確かに築き上げてきた心の繋がりを感じられて、それだけで胸が熱くなる。
「……ありがとうございます。皆さんもどうか、息災でいてくださいね」
彼らの温かな祈りを背に受けながら、私は再び出発への歩みを進めた。
長い静かな回廊を渡っていると、今度は前方から鎧のこすれ合う音が響いてきた。
「まだご出発されていなかったのですね! よかった……」
駆け寄ってきたのは、トビーをはじめとする、あの湖畔の街で共に戦った聖騎士達だった。
「トビーさん……。それに、皆さんも。王都の聖教会に戻られていたのですね」
「湖の街の戦後処理が落ち着きましたので……。聖女様、これから霊峰へと向かわれると聞き及びました。あそこは瘴気が極めて濃く、並の騎士では近づくことすら叶わない地であると伺っております」
トビーは、その場にひざまずき、憂うように私を見上げた。
「今回、私たちは遠征の精鋭部隊に選ばれることは叶いませんでした。だから……この王都の地より、聖女様のご無事をお祈りしております」
彼の言葉に呼応するように、他の聖騎士達も一斉にその場に片膝を突いた。
「聖女様がいらっしゃらなければ、私たちはあの森で命を落としていたはずです!」
「祈りを捧げることしかできませんが……どうか、ご無事で帰還なさってください!」
彼らの切なる願いに、胸の奥から熱いものが込み上げ、視界が潤みそうになる。
この短い月日のなかで、私はどれほどの人々の命を救い、その未来を繋ぎ止めることができたのだろう。
その重みを噛み締め、胸が温かな思いで満たされていく。
「私は、当然の務めを果たしたに過ぎません。皆さん、どうかお元気で……」
背後に送られる数多の祈りを道標にするように、私は神殿の正門へと向かって歩み続けた。
すれ違う神官たちも、皆一様に足を止め、静かに祈りを捧げてくれる。
それを見届けていたレイフが、ぽつりと静かに言葉をこぼした。
「君は、どうしても人を惹きつけてしまうのだな。この短期間で、君に心を奪われた者は数知れない。……この私を含めてな」
先導していた彼は不意に足を止め、一度だけ振り返った。
「エリシア、本当に無理をしてはいないか? 近頃の君は……いつも張り詰めた空気を纏っているように思える」
すべてを見透かされたようなその言葉に、私の胸の奥がにわかに騒がしく脈打ち始める。
けれど、私は懸命にその動揺を打ち消し、困ったように小首を傾げて穏やかに微笑んでみせた。
「そうかしら。さあ、遠征隊の皆さんが待っているわ。早く行きましょう」
彼を追い越すようにして、私は足早に進路を取る。
彼にだけは、この予兆を悟られたくない。
胸元をそっと押さえながら、私は自らの内に生じた不穏な違和感を、ひたすらに心の奥底へと仕舞い込み続けるのだった。




