42話 二人だけの逢瀬、最後まで願う幸福
彼は風のごとき速さで地を駆け抜けていく。
華やかな屋台街を抜け、入り組んだ路地裏を通り、ついには街の外に位置する高台へと辿り着いた。
「……ここなら問題ないだろう」
レイフが風を揺らしながら、私を優しく地面に下ろす。
そこは、湖畔の街を静かに一望できる高台だった。
眼下には、祝祭の灯りに彩られた美しい湖面が広がっている。
「ここは……」
「街からほど近い場所だ。今頃護衛たちは血相を変えて探し回っているだろうが、今の私達には関係のないことだ」
煙のように姿を消してしまった私たちを、護衛の聖騎士団員たちは懸命に捜索しているに違いない。
彼らに対して申し訳なさを覚えつつも、レイフと二人きりの時間を得られて、私はその仄かな幸せに胸を踊らせた。
「……湖が、とても綺麗ね」
私はかつての記憶を手繰り寄せるようにして、心にもない言葉を口にした。
けれど、世界から色彩が失われつつあっても、彼のそばに佇むこの時間の心地よさだけは、偽りのない真実だった。
「エリシアが気に入ってくれて良かった。一時は、どうなることかと思ったが……」
レイフは、湖面を見つめたまま、私の手をそっと握ってくれた。
とても温かい。
感受性を失って、この温もりだけに、泣いてすがりつきたくなってしまうほどに。
「団員の皆さんが、全員無事で本当に良かったわ。この街に来ることができて……心から良かったと思っているの」
彼の手を優しく握り返しながら、私は視線を湖へと向け続ける。
「そうだな。私達がこの街を訪れなければ……取り返しのつかない惨事になっていただろう。全てはエリシアの功績だ。だが……」
彼は私の手を引き寄せ、その美しい青い瞳を揺らした。
「それでも、君の被った負担は余りにも甚大だったはずだ。この先も、君が聖女としてその身を削りながら権能を行使し続けるなど……私には到底、看過することはできない」
レイフは、胸を痛めるように切なげな表情で私を見つめ続けていた。
彼の懸念は、悲しいけれど、的を射ている。
自らの内に広がりつつある喪失を悟られないよう、私はこれ以上ないほど穏やかな笑みを浮かべてみせた。
「……でも、私がどのような姿になっても、あなたは私のそばにいてくれるでしょう? それなら、私はどのような困難が待っていても……乗り越えられるわ……」
「君から離れることなど、この先永遠にあり得ない。だが、もしも聖教会やこの国が、君の犠牲を強いるというのなら……私は神すら敵に回して戦う」
彼の決意が宿る瞳の熱に当てられ、私は思わず視線を逸らしそうになる。
けれど、これから訪れる運命を乗り越えるためにも、決してこの瞳を背けてはならなかった。
「私のことは心配しないで。あなたと共に居られるだけで幸福なのだから……」
彼の胸へと体を預けながら、私は仮定を思い描く。
もしもこのまま、彼に全ての真実を告げて逃げ出してしまったなら。
聖女の役割を放棄し、一人の女性として幸福を享受しようとしたなら。
それはきっと、この上なく幸せで、尊い人生になるのだろう。
その選択の背後で、無残にも失われていく命から、目を背けることができたなら。
「レイフ、大好きよ。あなたさえいてくれれば、私はどこまででも歩んでいける……」
たとえ見知らぬ人々の命であっても、私は切り捨てられない。
他者の犠牲の上に築かれた幸福を享受しても、私が救われることはない。
「エリシア、君の行く末にどのような試練が待ち受けていようとも……この命に代えても守り抜く。最後まで、君と共に歩もう」
「……ありがとう。最後まで、私のそばにいて……」
きっと、レイフと私が見据えている未来は、異なる場所へ繋がっているのかもしれない。
それでも、私は願い続けずにはいられなかった。
全ての感覚が消え去るその瞬間まで、彼と分かち合う幸福な時が、少しでも長く続いてくれることを。




