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大遅刻した悪役令嬢、聖女に選ばれる  作者: しのギドラ


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39話 聖女の真実、次に失われるもの

 私は彼の温もりからそっと身体を引き離し、動揺を悟られないように気丈な笑みを口元に浮かべた。


「レイフ、あなたもこの一週間、まともに眠っていないのでしょう? 私はもう平気だから、あなたも身体を休めて」


「しかし……」


 レイフは依然として離れがたい様子で、引き寄せた私の肩を抱く手に力を込める。

 その時、私の頭にある記憶が呼び起こされた。


「そういえば、街の祝祭はもう終わってしまったのかしら?」


「いや、祝祭は二日後に行われる予定だが……」


「それなら、お互いにそれまでに体調を整えましょう。私、あなたと祝祭を巡るのを、ずっと楽しみにしていたのよ」


 彼はなおもためらう素振りを見せていたが、やがて困ったように穏やかな笑みを返した。


「……分かった。ただし、エリシアの体調が少しでも優れなければ、休養を最優先とする。それで納得してくれるだろうか?」


「ええ……。私も頑張って体を元に戻すわね」


「クラヴィスたちにも、君の目覚めを伝えてくる。食事もこちらへ運ばせるから、待っていてくれ」


 レイフは立ち上がり、私の額へと優しく愛惜の口づけを落とした。

 その肌から伝わる情愛の熱に触れ、私は胸の痛みを少しだけ和らげることができた。



 彼を扉の外へと見送った後、私は静まり返った室内を見渡した。


 意匠の凝らされた調度品、窓の向こうの湖面、そして果てしない青空。


 かつては目にするだけで胸を打たれたそれら全ての美しい光景が、今はただ、私の心の表面を虚しく滑り落ちていく。


(どうして……)


 私は自身の異変について、懸命に思考を巡らせる。

 最初の違和感は、一体いつから始まっていたのだろう。


 思い返せば、あの聖域の権能を獲得した頃から、ごくわずかな予兆は存在していた。


 口にする食べ物の味わいが、どこか曖昧にぼやけるような、あの奇妙な感覚。


 それが今、急激に進行して私を蝕んでいる。


「まさか、聖女としての力が関係している……?」


 その時、静寂を破るように扉が控えめにノックされた。


「聖女エリシア様、クラヴィスです。入室してもよろしいでしょうか?」


「は、はい……どうぞ……」


 扉が静かに押し開かれ、クラヴィスが緑髪を揺らしながら入室してきた。

 いつもと変わらぬ穏やかな笑みをたたえ、慈愛に満ちた表情で私を見つめている。


「……ご気分はいかがですか?」


「それは……その……」


 私はすぐに答えることができず、言葉を濁して視線をさまよわせた。

 それを見たクラヴィスの淡い緑の瞳が、悲しげに伏せられる。


「もしや、お身体に違和感を抱いていらっしゃるのではありませんか? 感受性が……世界の彩りが失われていくような、そんな空虚な感覚を」


「——!」


 私は息を呑み、驚愕して彼を見上げた。

 彼は切なげに目元を和らげ、静かに私を見つめ返してくる。


「どうして、それを……」


「私は先代の聖女様にもお仕えしておりました。聖女としての階段を上るにつれて生じる変化は、把握しております。これから、あなたに起こることも含めて全て」


 私はシーツを指先で強く握り締め、クラヴィスの姿を見つめ続けた。


 彼は最初から、私にこの残酷な変化が訪れることを知っていたのだ。


「私の体に、何が起きているの……?」


「聖女とは、神の御下に最も近づくことを許された、至高にして崇高な存在です。そして神とは、この世界の万物を等しく慈しむ存在。聖女が神に近づけば近づくほど、その御心と同化していくのです」


 クラヴィスは、窓の向こうに広がる景色へと視線を転じた。

 遥か遠い追憶に思いを馳せるように、その細められた瞳が光を反射する。


「つまり……あらゆる存在に対して、絶対的な平等を抱くようになります。それは個に対する特別な執着……すなわち、人間としての情緒の欠如に他なりません」


 あまりに非情な事実に、頭を強く揺さぶられるような、強いめまいを覚える。

 クラヴィスが淡々と説く残酷な真理に、私は思わず取り乱して声を荒げてしまった。


「どうして……どうして、もっと早く教えてくれなかったの……!」


「聖女になれば、人間らしさを失う。もしもこの真実が公になれば、聖女の選定を受けようとする女性は途絶えてしまうでしょう。ですからこれは、聖教会の内部でも、ごく限られた一部の者しか知らされていない秘匿事項なのです」


「そんな、まさか……」


 これまで築き上げてきた平穏と信頼が、足元から崩れ去っていくような絶望が全身を襲う。

 クラヴィスへの信頼すら揺らぎかねない現実に、私の体は小刻みに震え始めた。

 そして私は、さらにその先にある、最も恐ろしい事実に思い至ってしまう。


「……三つ目の権能である『封印』を会得してしまったら、私はどうなってしまうのですか……?」


 クラヴィスは一瞬だけ言葉を失ったように口をつぐみ、静けさが室内を支配した。

 やがて彼は絞り出すように、沈痛な面持ちでその答えを告げた。


「……聖女の感覚として、最後まで残り続けるのは『愛情』です。三つ目の権能を手にしたとき、あなたはあらゆる者への、そして特別な情愛をも失うことになります」

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