38話 失われるもの、変化の兆し
意識の底。
私はそこで夢を見ていた。
そこには色とりどりの花々が美しく咲き乱れている。
目がくらむような、どこまでも広がる青空。
しかし、私はそこから何一つの情感を受け取ることはできなかった。
どこを歩もうとも、心が弾むような高鳴りは訪れない。
その事実が、私の心へ音もなく不安の影を落としていく。
私は冷たい花畑を、ただ無我夢中で駆け出した。
心に愛する人の面影を、強く描きながら。
「……っ!」
不安が衝動へと変わり、私は弾かれたように目を開けた。
全身に冷たい汗がにじみ、心臓が早鐘を打つように激しく脈打っている。
「はぁ……う……」
凄まじい倦怠感が全身を支配し、まるで自分の体ではないような、不快な浮遊感に囚われる。
喉は渇ききっており、横たわっているにもかかわらず、未だにめまいのような揺らぎを感じていた。
何気なく手元に温もりを感じて、視線を脇へと滑らせる。
そこには、見慣れた美しい白銀の髪があった。
レイフが私の手を両手で握り締めたまま、ベッドの傍らで眠りに落ちている。
その肌から伝わってくる温かさが、今の私にはすがりたいほど恋しかった。
「レイフ……」
かすれた声で名を呼び、私は繋がれた手に力を込める。
その瞬間、レイフは弾かれたように跳ね起き、こちらへと視線を向けた。
「エリシア……!」
彼はこらえきれない様子で、私に覆いかぶさるように強く抱きしめてきた。
私の冷え切った体に、彼の熱が浸透していき、胸を支配していた不安が霧散していく。
「……このまま、目覚めないのではないかと思った。君の眠りがあまりに深すぎて、本当に君を失ってしまうのではないかと……」
「……私、また気を失ってしまっていたのね……」
抱きしめ返すだけの力すら残っていなかった。
けれど、彼を少しでも安心させたくて、私は彼の背中へと静かに手を添えた。
「また、長く眠ってしまったのかしら……?」
「……七日だ」
「え?」
彼は体を離し、目元を赤く腫らした青い瞳を、苦しげに歪ませて私を見つめた。
乱れた白銀の髪に、酷く青ざめた顔色。
彼の心労の度合いが、私にも一目で理解できるほど憔悴しきっていた。
「どれだけ呼びかけても、君は永遠の眠りに囚われたかのように目覚めなかった。まるで人形のように微動だにせず……。君の声が再び聞けて、どれほど救われたか……」
「……力を、使いすぎてしまったのね。またあなたに心配をかけてしまって、ごめんなさい」
私は、わずかに痩せてしまった彼の頬へと手を伸ばし、優しく包み込んだ。
「目覚めて一番に、レイフの顔を見ることができて安心したわ。ずっとそばにいてくれて、ありがとう」
「当然だ。君の傍らを、他者に譲るつもりなどない。……エリシア、体調はどうだ?」
私は自身の感覚を確かめるように、内なる倦怠感へと意識を向けた。
目覚めてしばらくの時間が経過したためか、先ほどの不快感も徐々に収まりつつある。
「ええ、平気そうよ。……ただ、少し喉が渇いてしまったから、お水をいただいてもいいかしら?」
「もちろんだ。今、用意しよう」
レイフが素早く立ち上がり、枕元の円卓に置かれた水差しを手に取る。
彼がコップに水を注いでいる間、私は窓の外へと視線を向けた。
雲一つない快晴で、まばゆい青空が広がっている。
ただ、それだけだ。
なぜだろう、胸の奥にわずかな違和感が芽生え始めていた。
「エリシア、体を起こせるか?」
「あ、うん……」
彼に背中を支えられながら、私は起き上がり、差し出された杯を受け取った。
そして渇いた喉を潤すために、ゆっくりと水を口に含む。
(あれ……?)
七日ぶりに口にした水であり、喉は確かに潤いを求めていたはずだ。
何の味わいも感じられなかった。
私が怪訝に首を傾げると、レイフが心配そうに顔を覗き込んできた。
「どうした、エリシア?」
「あ、ううん。まだ頭がぼーっとしているみたい。お水、ありがとうね」
彼に空になった杯を返しながら、私は再び窓の外の景色を見据えた。
体を起こしたことで、湖の美しい煌めきが視界に届く。
初めてこの地に足を踏み入れた際、まるで宝石のようだと感動した、あの澄み切った湖面。
変わらずにその美しさはそこに存在している。
しかし、今の私の心には、その美しさに揺り動かされるような感動が全く湧き上がってこなかった。
「え……」
私はそっと自分の胸へと手を当てる。
変わらずに心臓は生を刻む鼓動を続けている。
しかし、何かが決定的に狂っている。
侵食していく冷ややかな違和感が、私の胸へと押し寄せていた。
「エリシア、やはりまだ気分が優れないのか? 顔色がまだ悪い……」
レイフが、冷や汗で額に張り付いた髪を優しく払ってくれた。
その指先から伝わってくる愛おしい体温に触れ、私の胸に安堵が広がる。
「レイフ……」
彼の胸へと、すがるように頭を預けた。
私の空虚になりかけた心を満たすように、彼の温もりが全身へと広がっていく。
「好きよ……」
言葉を紡ぎ出すと、甘やかな幸福感が確かに胸を満たした。
「私も、エリシアのことが好きだ。今はただ、体調の回復に努めて休んでくれ」
彼の愛の言葉を耳にすれば、心をくすぐられるような心地よい感覚が私の胸に宿る。
(気のせい。きっと、ただの気のせいよ……)




