37話 治癒の権能、戦いの終わり
私は言葉を失い、目の前の凄惨な光景にただ愕然とした。
トビーが私を庇って身を挺し、魔獣の凶牙をその身体で受け止めていた。
傷口からは、血が留まることなく流れ落ちていく。
「うぐ……うおおおおお!」
彼は表情を苦痛に歪めながらも、渾身の力を込めて剣を薙ぎ払った。
その一撃を魔獣は回避しきれず、そのまま地面を転がって動かなくなった。
敵の沈黙を見届けたトビーは、口から血を吐き出し、力なく地面に膝を突いた。
「トビーさん!?」
「聖女様……ご無事で、本当に良かった……」
彼は生気を失った表情でありながらも、安堵したように微かに口元を緩めた。
魔獣に抉られた傷口からは絶えず鮮血が溢れ出ており、誰の目にもそれが致命傷であることは明らかだった。
このままでは、彼の命の灯火はすぐにでも消え去ってしまう。
恐怖に支配されそうになる心を、私はどうにか奮い立たせた。
(私が……ここで私が、何とかしなければ……!)
私は先ほどまで指先に集中させていた力を、トビーの裂傷へと向ける。
そして一度呼吸を整え、心のなかで再び神へと祈りかけた。
「お願いです、私はどうなっても構いません……。どうか、私に治癒の力をお与えください!」
天へ、そして己の奥底に眠る力へと、あらん限りの祈りを捧げる。
指先から純白の光があふれ出し、周囲の薄暗い木々を白亜の輝きで染め上げていく。
それは聖域を展開したときの感覚に似ていた。
清らかな光の粒子が、トビーの傷口へと吸い込まれるように舞い落ちていく。
すると、引き裂かれていた彼の肉体が、まるで幻であったかのように美しくふさがっていった。
「でき……た……」
求めていた治癒の権能だ。
極限の窮地のなかで、私はついにその力を開花させることができた。
しかしそれと同時に、初めて聖域を展開したときを上回る、凄まじい倦怠感が全身を襲った。
「う……っ」
今にも意識が消し飛び、その場に倒れ伏してしまいそうになる。
けれど、今この場で私が限界を迎えるわけにはいかない。
霞みゆく意識のなかで、私はさらにその先へと祈りを紡いだ。
(聖域を展開し、この治癒の光を同時に乗せる……!)
心を、肉体を限界を突破した祈り。
発現させたばかりの二つの権能を同時に行使するなど、代償は計り知れないだろう。
けれど、今この瞬間も命を賭して戦っている聖騎士達のために、迷っている時間など一瞬たりとも存在しない。
「お願い……!」
己の身がどうなろうとも構わない。
持てる全ての力を注ぎ込み、天空に向けてその輝きを解き放った。
私の意思に呼応するように、純白の光波が四方へと一気に拡散していく。
それまで森によどんでいた禍々しい空気は、神聖な澄み渡る風へと変貌を遂げていく。
そして、聖域の光に触れた魔獣たちが、一斉に苦悶の声を上げてのたうち回り始めた。
「魔獣の動きが弱まったぞ!」
「傷が……傷口が治っていく……」
「今だ! 一気に攻勢に出るぞ!」
聖騎士団が猛攻に転じる力強い声を聞き届けながら、私はついに力尽き、膝から崩れ落ちた。
地面に衝突する寸前、傷の癒えたトビーが慌ててその体を受け止めてくれた。
「聖女様!? 大丈夫ですか!?」
「ごめんなさい……。でも、あと、少しだけだから……」
聖域と治癒の権能を維持するため、私は途切れ途切れの呼吸を繰り返しながらも、意識を辛うじて繋ぎ止める。
指先から徐々に感覚が失われ、己という存在の境界すら曖昧になっていく。
それでも、光を絶やさぬよう、一心に祈りを捧げ続けた。
やがて、遠くで響いていた戦闘の喧騒が、静かに収束していった。
「エリシア!」
悲痛な叫びが、私の鼓膜を打った。
焦点の合わない視線をさまよわせる。
そこには美しい白銀の髪を魔獣の返り血に染めたレイフが、こちらに向かって駆けてくる姿があった。
「レイフ……」
「戦いは終わった! もう力を収めても大丈夫だ、エリシア……!」
彼はトビーから私を奪い去るようにして、自身の腕の中へと抱きすくめた。
その温かな熱に触れた瞬間、張り詰めていた心の糸が静かに解けていく。
「聖騎士団の、皆さんは……無事……?」
「君の加護のおかげで、損耗は皆無に等しい。そんなことより、エリシア! 君の体が……!」
「……よかった……。誰も死ななくて……」
彼の胸に身を委ね、意識がゆっくりと闇へと沈んでいく。
静寂を取り戻した森の穏やかな気配を感じることもなく、私は意識を手放した。




