36話 湖畔の森の戦い
本来であれば、木漏れ日の向こうに湖畔の煌めきを望める美しい森のはずだった。
しかし今、この場所を支配しているのは、肌を刺すような禍々しい気配だけだ。
鬱蒼と生い茂る樹木の隙間から、こちらを観察するかのようなおぞましい殺気が漂ってくる。
(あの呪毒を想起させるわ。空気が酷くよどんでいる……)
レイフは私の傍らを片時も離れず、部隊へ指示を送りながらも、周囲への警戒を解かずにいた。
私は少しでも彼の負担を減らすため、その歩調から遅れまいと、その背に付いていくようにして距離を保った。
少し開けた場所へ差し掛かった時、レイフが足を止めた。
「来るぞ。全員構えろ」
レイフが抜刀すると同時に、激しい突風が吹き荒れる。
彼から放たれた風の刃は、森の闇の奥へと吸い込まれるように突き刺さった。
おぞましい咆哮が、静寂を切り裂いて木霊する。
この世のものとは思えない断末魔の響きに、団員たちは即座にそれぞれの得物を構え直した。
「右からの気配が濃い。全員そちらを迎え撃て。私は左を受け持つ」
その指示を受け、決意を宿した表情の聖騎士団員たちが次々と突撃していく。
レイフは私を背後に庇いながら、一人で左から迫る魔獣へと向けて剣を一閃させた。
ただ彼がそこに佇んでいるだけで、不可視の刃によって魔獣たちが次々と屠られていくのが分かった。
「……数が多いな」
レイフが呟いた、その直後だった。
右の防衛線から、団員たちの悲痛な叫び声が上がった。
視線を向ければ、無数の黒い異形——醜悪な魔獣たちが、団員たちへと容赦なく襲いかかっている。
彼らが劣勢に立たされ、圧倒されているのは一目瞭然だった。
しかし、レイフは私から離れようとせず、彼らを援護する動きを見せない。
「レイフ! 聖騎士団の皆さんを助けてあげて! 私は大丈夫だから……!」
私は彼の腕を掴み叫んだ。
このままでは、誰かが命を落としてしまう。
それでも、彼は私のそばから動こうとはしなかった。
「君の安全が最優先だ。たとえ、どのような犠牲を払うことになろうとも……っ」
冷酷とも取れるレイフの言葉に、私は首を横に振った。
他者を信用しない彼かもしれないが、ここ数日、彼は厳しくも熱心に団員たちを指導していたのだ。
そんな彼が、部下の命を軽んじているはずがない。
「私は聖女として、覚悟を持ってここにいるの。今、最善の選択は、あなたが前線に立つことよ。お互いの果たすべき役目を全うしましょう! お願い、レイフ……!」
レイフは一瞬の逡巡を見せたが、私の決心を受け止めてくれたのか、剣の柄を強く握り直す。
そして、死闘を繰り広げる団員たちに向けて、響き渡る声を張り上げた。
「トビー! お前は下がって聖女の護衛をしろ。私が前に出る!」
「は、はい!」
呼ばれたトビーは、防衛線を退きながら私の元へと駆け寄ってきた。
それと同時に、レイフは風のごとき速さで前線へと躍り出た。
彼が地を駆けて剣を振るうたびに、群がる魔獣たちが一網打尽にされていく。
劣勢だった戦況が、一瞬にして押し戻されていった。
(私も、自分のやるべきことをやらなきゃ……。聖女として、皆さんを守るために!)
私は胸の前で両手を合わせ、深呼吸をして肺いっぱいに空気を満たした。
「……聖域を展開します!」
戦いが長引けば、それだけ負傷者も増えてしまう。
少しでも援護するため、私は心の中で神へと祈りを捧げた。
(お願い神様、皆さんの力になるために、少しでも広範囲へ……聖域を届かせて!)
清らかな魔力が身体を満たしていくのを感じる。
かつて聖域を展開した時よりも、滞りなく指先へと力が集まっていく。
そして、聖域の権能を発動させようと前線を見据えた、まさにその瞬間だった。
「聖女様、危ない——!」
トビーの絶叫が耳を打つ。
振り返ると、死角から躍り出た魔獣が、剥き出しの牙を持って私に迫っていた。
——ドスッ!
肉を貫く鈍い音が響き、赤い血飛沫が周囲の草木へと飛び散った。




