14話 聖女の第一の権能、浄化の『聖域』
西側の線が密集していた地点。
そこは、最初に降りた場所とは比較にならないほど、大気が淀んでいた。
生命の存在そのものを拒絶するかのように、呼吸をすることすら困難な重苦しさが肌にまとわりつく。
「エリシア、大丈夫か?」
私の異変を誰よりも早く察知したレイフが歩み寄り、背後から身体を支えてくれた。
彼の手を借りながら、私は体にのしかかる鉛のような重さを振り払おうとする。
「ごめんなさい、呪毒の濃度が想像を超えていて……。少しめまいがしてしまったわ」
怖気立つ体をどうにか立て直しながら、私は周囲を見渡した。
これまで目にしてきたどの荒地よりも、ここの有様は凄惨だった。
草木はことごとく枯れ果て、もはや黒ずんだ塊と化している。
(これがもし、国全土へ拡大してしまったら……)
この国は生命の通わぬ死の荒野と化してしまうだろう。
そうなれば、無数の民が犠牲になるに違いない。
私は胸を締め付ける苦しさを跳ね退けるように、一歩ずつ呪われた大地を踏みしめた。
「クラヴィス。歴代の聖女たちの権能がどのようなものか、教えてもらえる?」
先代の聖女に仕えていた経験を持つ彼であれば、何かしらの手がかりを握っているに違いない。
私は一縷の希望を託すように、その淡い緑の瞳を見つめた。
「聖女が授かる御力は多岐にわたりますが……根幹を成すのは三つの権能です。その中の一つが『聖域』。祈りを捧げた場所を清らかな聖域へと変え、呪いを打ち消す力があると伝えられています」
「聖域による浄化……。ということは、その力さえあれば、この大地を蘇らせることができるわね……」
私が思考を巡らせていると、前方の乾いた土を踏む微かな音が耳に届いた。
「お姉ちゃんたち……聖教会の人なの?」
声のする方へと視線を向けると、そこにはひどく痩せ細った男の子が佇んでいた。
衣服は汚れ、衰弱しているその姿は、目にするだけで胸が締め付けられる。
「あなたは……この土地の住人なのかしら?」
「うん……。でも、もうここから離れなきゃいけないんだ。もうこの場所には住めないって言われて」
そこまで口にすると、男の子の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ここを離れたくないよ……。お父さんもお母さんも、おじいちゃんたちも、みんながずっと大切に暮らしてきた場所なんだ……! 知らない所に行きたくないっ」
男の子が声を上げて涙を流していると、遠方からこちらへ向かって走ってくる二つの人影が見えた。
私の前で泣き続ける我が子を確認するや否や、その男女は慌てて子供を抱きかかえ、地面に向けて平伏した。
「私達の息子が滅相もない真似を……! 聖教会の皆様、どうかお許しください……」
「いいえ、お気になさらないでください。それよりも、少しお話を伺わせていただいてもよろしいでしょうか?」
私が腰を低くして尋ねると、男の子の両親は困惑しながらも、同意するように首を縦に振った。
「ここが呪毒による大地の荒廃が始まった場所で間違いないでしょうか。何かしらの前兆などはございませんでしたか?」
「は、はい。私たちの田畑……まさにこの近辺から土壌の壊死が始まりました。前兆と呼べるようなものは特になかったかと……。……いや、待てよ……」
父親と思しき男性が、記憶を辿るように小首を傾げた。
「何かが引き裂かれるような、女性の金切り声を聞いた記憶が……。申し訳ありません、不確かな記憶でして……」
「女性の……声?」
私が頭を悩ませていると、クラヴィスが労るように肩に手を置いた。
「いずれにせよ、ここが呪毒の源流であることは相違ないようです。この場所で『聖域』の権能を行使できないか試みてみましょう」
「そうね……。皆様の大切な田畑、少し調査をさせていただいてもよろしいですか?」
「もちろんでございます! 何卒、よろしくお願い申し上げます……!」
夫婦は揃って地面へと膝を突き、額を泥へ擦りつけるようにして頭を垂れた。
その切実な願いを前にして、私の心はさらに引き締まる。
「私にできることであれば、いかなる対価も辞さない覚悟です。持てる限りの力を尽くします」
私は改めて息絶えつつある大地を見渡した。
影の先、最も汚染の色の濃い中心部へと歩みを進める。
一歩踏み出す度に、肺ごと押しつぶされるような苦しさが纏わりついた。
だが、ここで踏みとどまっている時間はない。
さらに足を前に出そうとした時、前進を阻むかのように腕を引かれた。
「顔色が優れない。エリシア、一度退こう。このまま留まれば、君の心身に悪影響を及ぼす」
乱れる呼吸をどうにか落ち着かせながら、私を引き留めたレイフを見上げる。
その顔には、明らかな懸念と、深い焦燥が刻まれていた。
私は彼をなだめるように、繋ぎ止める彼の手の上に自らの手を重ねた。
「ごめんなさい。けれど、退くわけにはいかないの。一刻も早く、この災厄を終わらせたいから……」
彼の手から、体温とともに、思いやってくれる心が伝わってくる。
微かに遠のきかける意識を、その温もりが繋ぎ止めてくれていた。
(そうよ、私は独りじゃない。それに……)
万策尽きて、絶望に沈んでいた領主。
先祖代々の土地を、理不尽に侵食された領民達。
彼らのためにも、怯んで立ち止まるわけには行かない。
「神よ……。この大地を救うためなら、私は、私の全てを捧げます。どうか私に、この地を護る『聖域』の権能をお授けください……!」
両手を合わせ、胸の奥底から願いを捧げる。
すると、合わされた指の隙間から、清らかな純白の光が漏れ出た。
「あ……」
手を解くと、そこにはいかなる穢れも寄せ付けない、無垢な光の塊が存在していた。
指先を通じて、未知なる力が全身を満たしていくのが分かる。
「お願い……!」
その輝きを天へと掲げた。
光は流星のような軌跡を描いて上空へと昇り、虚空で鮮やかに弾けた。
降り注ぐ光の粒子が、夜空の星のように瞬きながら、死せる大地へと舞い降りる。
刹那、視界のすべてが、純白の光で勢いよく満たされた。
「う……っ」
目を焼くような輝きが収まっていくと。
そこには水分を含んだ豊かな土壌と、芽吹き始めた緑の息吹が点々と広がっていた。
「でき……たわ……!」
聖女に課せられた権能の一つ『聖域』。
場を清める力を、無事に発現させることができた。
周囲からは聖騎士たち、そして領民たちの地響きのような歓声が沸き起こる。
「レイフ、クラヴィス……私、やり遂げまし……」
二人の姿を確認しようと身体を反転させた瞬間、私の膝からすべての力が抜け落ちた。
「エリシア!」
意識が闇の中へと落ちていく寸前。
残ったのは、これまでの冷静さを一切かなぐり捨てて私の名を呼ぶレイフの叫び。
彼の背後で、どこか悲哀をたたえて私を見つめる、クラヴィスの眼差しだった。




