第9話 六種コンプリートと十一連ガチャ
暗闇の奥から響いた咆哮が、洞窟全体を震わせた。
天井から小石が落ち、足元を転がっていく。
近い。
残る一種類の魔物が、この先にいる。
そいつを倒せば、野良ダンジョンの討伐記録は六種すべて埋まる。
ガチャ券も十枚になる。
だが、俺はすぐには音のする方向へ進まなかった。
灰牙狼との戦いで、右脚には深い噛み傷を負っている。
蜘蛛の巣を利用して十体を倒したが、身体には戦闘の疲労が残り、剣を握る右腕も重い。
片方の靴は、毒脚蜘蛛の糸に捕まったときに失った。
布を巻いているだけの右足で、巨大な魔物と戦うのは無謀だ。
焦って死ねば、復讐は永遠に果たせない。
俺は咆哮とは反対の方向へ戻った。
毒脚蜘蛛の巣を抜け、巨大な魔物が入り込めない細い通路まで移動する。
周囲に魔物の気配がないことを確かめ、《魔法のテント》を設置した。
淡い光が広がり、冷たい洞窟の中に布張りの空間が現れる。
中へ入ると、結界が閉じた。
それでも油断はできない。
この結界が防げるのは、主に弱い魔物だ。
先ほどの咆哮の主ほど強い魔物なら、結界を破ってくる可能性がある。
俺は剣を手の届く位置へ置き、右脚へ巻いていた布を外した。
牙の痕から、まだ血が滲んでいる。
魔法のケトルで湯を作り、傷口を洗う。
残っていた薬を薄く塗り、新しい布をきつく巻いた。
傷そのものは、すぐには治らない。
だが、出血は止まった。
俺は《収納》から疲労回復薬を取り出した。
小瓶の中で、薄い青色の液体が揺れている。
初回の十一連で手に入れてから、危険なときのために残していた。
今が、そのときだ。
栓を外し、一息に飲む。
冷たい液体が喉を通る。
鉛のように重かった身体から、少しずつ疲れが引いていく。
傷が消えたわけではない。
それでも、震えていた腕が落ち着き、乱れていた呼吸も整った。
保存食を口へ入れ、水で流し込む。
腹が満たされると、寝具へ身体を横たえた。
目を閉じても、咆哮が耳の奥に残っている。
眠っているあいだに近づいてくるかもしれない。
何度か目を覚ましながら、それでも数時間は身体を休めた。
起き上がったとき、右脚にはまだ痛みがあった。
だが、戦える。
俺は防具を整え、剣を腰へ差した。
テントを収納する。
再び洞窟の暗闇へ戻ると、《暗視》が自動的に働いた。
俺は岩壁に残された巨大な爪痕を追った。
奥へ進むほど、周囲の様子が変わっていく。
壁には何本もの傷が刻まれている。
床には砕かれた骨が散乱し、その中には灰牙狼や岩背猪と思われる頭蓋も混じっていた。
ほかの魔物を食っている。
このダンジョンの中では、明らかに上位の存在だ。
ただし、特別な部屋への扉も、ボスを示す表示もない。
ただ、この場所を縄張りにしている強い魔物。
それだけだ。
通路の先に、大きな空洞が見えた。
俺は入口の岩陰へ身を隠し、内部を観察する。
空洞の奥で、巨大な獣が何かの骨を噛み砕いていた。
熊だ。
四つ足の状態でも、背中は俺の胸ほどの高さがある。
立ち上がれば、俺の倍近くになるだろう。
黒褐色の毛皮に覆われた前脚から、五本の太い爪が伸びている。
一本一本が、俺の持つ剣より短い程度。
あの爪で岩壁を抉ったのだ。
正面から斬り合えば勝てない。
俺は空洞内へ視線を巡らせた。
中央付近には、天井と床をつなぐ太い岩柱がある。
根元には亀裂が入り、周囲に小さな破片が落ちていた。
何度も巨大な魔物がぶつかったのかもしれない。
空洞の右側には、俺なら通れるが、熊の身体では入れない細い岩の隙間もある。
使える。
俺は足元に落ちていた小石を拾った。
熊へ向けて投げる。
石は巨大な背中へ当たり、毛の中へ消えた。
熊が骨を噛むのを止める。
ゆっくりと顔がこちらへ向いた。
暗闇の中で、二つの目が光る。
「来い」
俺の声に反応したのか、熊が立ち上がった。
予想どおり、頭は俺の倍近い高さにある。
熊は前脚を地面へ下ろすと、腹の底まで響く咆哮を上げた。
空洞の空気が震える。
次の瞬間、巨大な身体が突進してきた。
速い。
あの巨体からは想像できない速さだった。
俺は岩陰から飛び出し、横へ転がった。
熊がすぐ横を通過する。
風圧だけで身体が揺れた。
熊は前脚を床へ突き立て、急停止する。
すぐに方向を変えた。
俺は剣を抜き、再び迫る熊の前脚へ斬りつけた。
刃が毛皮へ食い込む。
だが、浅い。
厚い毛と筋肉に阻まれ、骨までは届かない。
熊が前脚を振る。
俺は後ろへ跳んだ。
避け切れなかった。
爪の先が防具の胸元を掠める。
金属板が裂け、衝撃で身体が宙へ浮いた。
背中から地面へ叩きつけられる。
「がっ……!」
息が詰まる。
視界が一瞬暗くなった。
まともに受けたわけではない。
それでも、この威力だ。
熊が立ち上がり、両方の前脚を振り上げる。
俺は痛む身体を無理やり起こし、近くの岩陰へ飛び込んだ。
直後、巨大な爪が岩へ振り下ろされる。
岩が砕け、破片が雨のように降り注いだ。
一撃受ければ終わる。
剣で斬って倒せる相手でもない。
俺は岩柱の位置を確認した。
正面から数歩先。
あそこへ誘い込む。
熊が岩陰を回り込んでくる。
俺は空洞の中央へ走った。
右脚の傷が痛む。
布を巻いただけの足裏へ、尖った小石が食い込む。
それでも止まらない。
熊が追ってくる。
地面が一歩ごとに揺れる。
俺は亀裂の入った岩柱の前へ立った。
熊が頭を低くする。
突進の構え。
ぎりぎりまで引きつける。
逃げるのが早ければ、熊は方向を変える。
遅ければ、俺の身体が岩柱より先に砕かれる。
熊が走り出した。
一歩。
二歩。
巨大な口が近づく。
俺は最後の瞬間に横へ跳んだ。
熊の頭と肩が、岩柱へ激突する。
空洞に重い音が響いた。
岩柱の亀裂が広がり、細かな破片が落ちる。
だが、崩れない。
熊は頭を振り、俺を捜す。
怒りで目が血走っていた。
俺は床の石を拾い、熊の顔へ投げつける。
「もう一度だ」
熊が吠えた。
再び突進してくる。
俺は岩柱の反対側まで回る。
熊は柱を避けようとせず、そのまま肩をぶつけた。
二度目の衝撃。
亀裂がさらに大きくなる。
岩柱の上部から、拳ほどの岩が落ちた。
あと一度。
だが、熊も同じ罠を警戒し始めた。
俺が岩柱の前へ立っても、すぐには突進してこない。
唸りながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。
熊が前脚を振る。
剣で受ければ折られる。
俺は身を沈めて避けた。
爪が頭上を通過する。
熊の脇を抜けようとした瞬間、反対側の前脚が横から飛んできた。
防具の肩へ直撃する。
身体が地面へ叩きつけられた。
肩に激痛が走る。
骨が折れたかと思った。
指を動かす。
動く。
まだ剣を握れる。
熊がこちらへ近づく。
逃げなければならない。
だが、右脚へ力を入れた瞬間、噛み傷が開いた。
布に血が滲む。
熊が立ち上がった。
前脚が頭上へ上がる。
俺は地面を転がった。
爪がすぐ横へ突き刺さり、岩床を抉る。
俺はそのまま立ち上がり、亀裂の入った岩柱へ走った。
熊が追ってくる。
今度は、柱へぶつかる直前に止まるつもりかもしれない。
ならば、止まれない距離まで引きつける。
俺は岩柱へ背中をつけた。
逃げ道を自分で消す。
熊が頭を低くした。
咆哮。
そして、走り出す。
巨大な身体が迫る。
右へ避けるか。
左へ避けるか。
熊は俺の動きを見ている。
俺は動かなかった。
牙の一本一本が見える距離まで、熊が近づく。
あと一歩。
俺は傷ついた右脚で地面を蹴った。
身体を左へ投げ出す。
熊の肩が、岩柱の根元へ激突した。
亀裂が一気に広がる。
岩柱が揺れた。
熊が身体を離そうとしたとき、天井付近から轟音が響く。
折れた岩柱が、熊の背中へ崩れ落ちた。
巨大な岩が床を叩き、空洞が大きく震える。
砂埃が視界を覆った。
俺は咳き込みながら起き上がる。
暗視でも、舞い上がった埃の向こうまでは見えない。
低い唸り声が聞こえた。
まだ生きている。
砂埃が薄れる。
大爪熊は、崩れた岩に下半身を挟まれていた。
前脚だけで身体を引きずり、抜け出そうとしている。
完全には動けない。
だが、前脚の爪は生きている。
近づけば殺される。
熊が前脚を振り回す。
届かない距離にいる俺へ、何度も爪を振る。
俺は剣を構え、熊の周囲を回った。
後ろから近づくことはできない。
岩が邪魔をしている。
狙えるのは、頭か喉。
どちらも爪の間合いにある。
床には、食い散らかされた灰牙狼の骨が落ちていた。
俺は太い骨を拾う。
熊の顔へ投げた。
熊が前脚で骨を払い落とす。
その瞬間、反対側から懐へ飛び込んだ。
熊の首元へ剣を突き出す。
刃が厚い毛皮を貫いた。
喉へ食い込む。
「入れ……!」
両手で柄を押す。
だが、剣は途中で止まった。
熊が吠え、前脚を振った。
避ける余裕はない。
防具の脇腹へ、爪のない部分が叩きつけられた。
身体が横へ吹き飛ぶ。
地面を何度も転がり、岩へ背中をぶつけた。
肺から空気が押し出される。
剣は熊の喉へ刺さったまま残っている。
熊の傷口から大量の血が流れていた。
それでも死なない。
前脚で剣を抜こうとしている。
俺は立ち上がろうとした。
腕に力が入らない。
右脚も動かない。
ここまでか。
その言葉が頭を過った。
脳裏に、七年前の妻の顔が浮かぶ。
店を開ける前、温かな飲み物を渡しながら笑っていた。
あの腹には、俺の子供がいた。
俺は何も知らなかった。
守ることもできなかった。
そして、殺した男は今も生きている。
「まだだ……」
指を岩床へ立てる。
身体を引きずる。
ここで死ねば、あの男は何も失わない。
俺から妻を奪い、子供を奪い、七年間を奪ったまま笑い続ける。
「それだけは……許さない」
岩を支えにして立ち上がった。
熊がこちらを見た。
喉から血を流しながら、残る力で前脚を持ち上げる。
俺は走った。
まともには走れていない。
右脚を引きずり、倒れそうになりながら、それでも前へ進む。
熊の爪が頭上へ上がる。
俺は喉へ刺さった剣の柄を掴んだ。
両手で押し込む。
刃が肉を裂き、さらに深く入った。
熊の爪が振り下ろされる。
その直前、巨大な前脚から力が抜けた。
爪が俺の肩を掠め、地面へ落ちる。
熊の口から、大量の血が溢れた。
巨体が一度震える。
そして、完全に動きを止めた。
静寂が戻る。
俺は剣の柄を握ったまま、熊の身体へ寄りかかった。
その瞬間、胸の奥へ激しい熱が流れ込んだ。
「ぐっ……!」
これまでの祝福とは違う。
熱ではない。
炎が身体の中を駆け巡っている。
筋肉が引き絞られ、骨が軋む。
激しい痛みに耐え切れず、俺は膝をついた。
《大爪熊を初めて討伐しました》
《神の祝福を獲得しました》
《ガチャ券を一枚獲得しました》
《所持ガチャ券:十枚》
《野良ダンジョン討伐記録:6/6》
《魔物種コンプリートを確認しました》
《コンプリートボーナスを付与します》
《全能力が上昇しました》
《生活魔法を獲得しました》
《復讐の手がかりを獲得しました》
痛みに歯を食いしばりながら、最後の表示を見る。
《七年前の事件に関する未回収の証拠が存在します》
《所在地:旧店舗地下保管庫》
「店の……地下?」
妻と二人で営んでいた店。
七年前、俺が捕らえられるまで、毎日通っていた場所。
その地下保管庫に、事件の証拠が残っている。
何があるのかは表示されない。
今も残っている保証もない。
店が誰かに使われている可能性もある。
兵士が見張っているかもしれない。
それでも、初めて復讐へ続く道が見えた。
「残っていてくれ……」
証拠を手に入れれば、七年前の事件を調べられる。
あの男へ近づける。
全身を巡っていた熱が、少しずつ治まっていく。
俺は自分の腕を見た。
痩せ細っていた腕へ、筋肉が戻っている。
胸や背中にも力が満ち、呼吸が先ほどまでより深くなっていた。
右脚の傷は残っている。
肩や脇腹も痛む。
七年間の拷問で刻まれた傷痕も、焼いた顔も消えていない。
それでも分かる。
身体が戻った。
七年前、牢へ入れられる前の身体へ。
「戻った……」
拳を握る。
力が入る。
だが、これは始まりにすぎない。
七年前の俺は、妻と小さな店を営んでいた普通の男だ。
あの男へ復讐するには、昔の俺へ戻るだけでは足りない。
ここから先は、七年前より強くならなければならない。
取得した《生活魔法》へ意識を向ける。
《生活魔法》
《小さな火を起こせます》
《飲用可能な水を生成できます》
《身体・衣服・装備の汚れを落とせます》
《使用量に応じて魔力を消費します》
手のひらを上へ向け、水を思い浮かべる。
透明な水が、掌の上に少量だけ現れた。
それで顔についた血を洗う。
続いて、衣服と防具の汚れが消えるよう意識した。
身体の奥から、何かが抜けていく感覚。
衣服についた血や泥が薄れ、そのまま消えていく。
便利だ。
だが、二度使っただけで軽い疲労を感じた。
使いすぎれば魔力を失い、気を失う。
今は必要な分だけにする。
俺は大爪熊の腹を切り開いた。
奥から取り出した魔石は、これまで手に入れたものとは比べものにならないほど大きい。
拳ほどの大きさがあり、内部に濃い光が揺れている。
テントへ投入すれば、長く結界を維持できるだろう。
町で売れば、大きな金にもなるかもしれない。
俺は魔石を《収納》へ入れた。
そして、所持しているガチャ券へ意識を向ける。
《所持ガチャ券:十枚》
《ガチャ券十枚を消費し、十一連ガチャを実行できます》
《十一連ガチャでは、R以上の報酬が一枠以上確定します》
待ち続けた十一連だ。
迷う理由はない。
「実行する」
《ガチャ券十枚を消費します》
《十一連ガチャを開始します》
目の前に、十一個の光が現れた。
白い光が九つ。
銀色の光が一つ。
そして、最後に青白く輝く光が一つ。
一つ目が弾ける。
《N 保存食セットを獲得しました》
二つ目。
《N 清潔な水を獲得しました》
三つ目。
《N 下級回復薬二本を獲得しました》
失いかけていた薬が補充された。
四つ目。
《N 下級解毒薬を獲得しました》
「助かる」
毒脚蜘蛛との戦いで使った解毒薬も戻ってきた。
五つ目。
《N 丈夫な包帯を獲得しました》
六つ目。
《N 予備の長靴を獲得しました》
俺は布を巻いただけの右足を見る。
偶然とは思えないほど、今の俺に必要な物が続いている。
ガチャは生存に必要な物を、多少は優先しているらしい。
七つ目。
《N 携帯調理器具を獲得しました》
八つ目。
《N 銀貨の小袋を獲得しました》
九つ目。
《N 中級砥石を獲得しました》
白い光がすべて消える。
次に、銀色の光が弾けた。
《R 鋼鉄の剣を獲得しました》
目の前に、鞘へ収められた一本の剣が現れる。
柄を握り、ゆっくり抜く。
盗賊から奪った剣よりも刃が厚く、重心も安定している。
刃には傷一つない。
説明へ意識を向ける。
《鋼鉄の剣》
《一般的な鉄剣より高い切れ味と耐久性を持ちます》
《装備条件はありません》
最後の青白い光が、ゆっくりと広がる。
これまでの光よりも強い。
《SR 技能を獲得しました》
《技能・危険察知を獲得しました》
新たな感覚が頭の奥へ流れ込んだ。
技能の説明が表示される。
《危険察知》
《自身へ迫る敵意、攻撃、罠などの危険を感覚的に察知します》
《危険の正体や正確な位置を特定することはできません》
万能ではない。
だが、死角からの奇襲や、見えない罠へ気づけるだけでも十分だった。
俺は鋼鉄の剣を腰へ差し、これまで使っていた剣を《収納》へ入れた。
予備の長靴も取り出す。
傷口へ包帯を巻き直し、その上から長靴を履いた。
右足が守られるだけで、随分と歩きやすい。
最後に状態を確認する。
《所持ガチャ券:零枚》
《野良ダンジョン討伐記録:6/6》
《生活魔法を獲得済み》
《復讐の手がかりを獲得済み》
《復讐達成率:0%》
手がかりを得ても、復讐達成率はまだ動いていない。
おそらく、証拠を実際に手に入れなければならないのだろう。
まずは外の状況を確認する。
兵士たちが入口を見張っているなら、無理に出る必要はない。
俺は大爪熊の空洞を離れ、来た道を戻り始めた。
身体は七年前の力を取り戻している。
腰には新しい剣。
暗視と危険察知。
魔法のテントと生活魔法。
そして、復讐へつながる最初の手がかり。
独房から逃げ出したとき、俺には何もなかった。
今は違う。
旧店舗の地下保管庫。
そこにある証拠を、必ず手に入れる。
ダンジョンの入口へ近づく。
外から差し込む、わずかな光が見え始めた。
その瞬間だった。
背筋に、冷たいものが走った。
《危険察知》が反応している。
俺は足を止め、音を立てずに剣へ手をかけた。
入口の外に、まだ何かいる。




