第8話 灰牙狼の包囲
正面の闇から、灰色の狼が二体現れた。
左側の通路に一体。
そして背後からも、爪が岩を擦る音が近づいてくる。
俺は剣を抜いたまま、ゆっくりと周囲を見回した。
普通の狼より一回り大きい。
灰色の毛皮に覆われた身体は細く、岩背猪ほどの重さはなさそうだ。だが、口から伸びた牙は短剣のように太い。
何より厄介なのは、互いの位置を確かめながら動いていることだった。
一斉には襲ってこない。
正面の二体が低く唸り、俺の注意を引く。
左の一体は壁際を回り、背後の獣は足音だけを聞かせている。
「囲むつもりか」
牙鼠のように、ただ群がってくる敵ではない。
洞蝙蝠よりも統率されている。
毒脚蜘蛛のように、巣から動かない敵でもない。
こいつらは、俺の動きを見ている。
正面の一体が踏み込んだ。
俺が剣を構えると、狼はすぐに止まる。
直後、左から別の一体が飛びかかってきた。
身体を捻って避ける。
剣を振ろうとした瞬間、正面にいた二体目が動いた。
牙が脇腹へ迫る。
俺は剣を引き戻せず、左腕で狼の首を受け止めた。
牙が防具へ食い込む。
「ぐっ……!」
噛み砕かれる前に、剣の柄を狼の頭へ叩きつけた。
一度では離れない。
二度目で狼の牙が外れた。
追撃しようとしたが、最初の一体が再び迫ってくる。
剣を横へ振る。
狼は地面へ身を伏せ、刃の下を潜った。
そのまま俺の足を狙う。
後ろへ跳んだ。
背中が岩壁へ当たる。
背後から近づいていた四体目の狼は、通路の入口で足を止めていた。
逃げ道を塞ぐ役目らしい。
四体が同時に襲ってくるわけではない。
一体が攻撃し、俺が反応すれば、別の一体が死角へ入る。
俺に剣を振らせ、疲れさせようとしている。
自分たちが傷つかないよう、少しずつ追い詰めるつもりだ。
正面の二体が左右へ分かれた。
背後の狼も、通路からゆっくり近づいてくる。
このままここにいれば、完全に囲まれる。
俺は剣を構えたまま、左側へ走った。
そこにいた狼が後退する。
追わない。
目的は狼を倒すことではなく、包囲から抜けることだ。
俺は狼が空けた隙間へ踏み込み、狭い通路へ飛び込んだ。
すぐに振り返る。
一体目が追ってきた。
通路が狭いため、二体並んでは入れない。
狼が跳ぶ。
俺は壁際へ身体を寄せた。
すれ違う瞬間、剣を下から振り上げる。
刃が灰色の腹を裂いた。
狼が地面へ落ちる。
まだ生きていた。
振り返り、俺の脚へ噛みつこうとする。
俺は剣を両手で握り、首へ振り下ろした。
骨を断つ感触。
狼の身体から力が抜けた。
胸の奥へ、強い熱が流れ込む。
毒脚蜘蛛ほどではない。
だが、牙鼠や洞蝙蝠よりも大きな祝福だった。
熱が脚と腕へ広がる。
狼たちの動きを追うために張り詰めていた感覚が、さらに鋭くなっていく。
《灰牙狼を初めて討伐しました》
《神の祝福を獲得しました》
《野良ダンジョン討伐記録:5/6》
《ガチャ券を一枚獲得しました》
《灰牙狼討伐数:1/10》
《所持ガチャ券:八枚》
「灰牙狼……」
残る魔物は、あと一種類。
だが、目の前の群れも終わっていない。
通路の入口に、三体の灰牙狼が並んでいた。
仲間が殺されたというのに、すぐには入ってこない。
先ほどの戦いを見て、狭い場所では不利だと理解したらしい。
一体が短く吠えた。
ほかの二体が左右へ姿を消す。
「呼んでいるのか?」
遠くから、別の遠吠えが返ってきた。
一つではない。
複数の声だ。
この四体だけで群れのすべてではなかった。
俺は倒した灰牙狼の腹を切り開く。
魔石を探しながらも、意識は通路の奥へ向けていた。
指先に硬い物が触れる。
肉の中から、毒脚蜘蛛のものと同じくらいの魔石を取り出した。
その間も、灰牙狼たちは襲ってこない。
俺を見張りながら、仲間の到着を待っている。
数が増えれば、狭い通路の前後を塞がれる。
その前に動く必要があった。
俺は通路の奥へ進んだ。
灰牙狼たちは距離を保ちながら追ってくる。
走ってはこない。
俺が疲れるまで、逃がさずについてくるつもりらしい。
しばらく進むと、通路の先に白い糸が見えた。
毒脚蜘蛛の巣へ戻ってきた。
切り落とした巣の一部は床に垂れ、壁や天井にはまだ太い糸が残っている。
俺は足を止めず、その中へ入った。
背後から灰牙狼の唸り声が聞こえる。
狼たちは巣の前で立ち止まった。
毒脚蜘蛛はすでに倒している。
だが、狼たちにそれは分からない。
白い糸の匂いと、蜘蛛の残した毒を警戒しているのだろう。
俺は巣の奥へ進み、剣で一本の糸を切った。
太い糸を地面へ垂らし、岩の突起へ引っかける。
次に、足元へ残った糸を剣で持ち上げた。
素手では触れない。
糸はまだ強い粘りを残している。
狼の遠吠えが近づく。
仲間が到着したらしい。
巣の入口に、灰牙狼が次々と姿を現した。
先ほどの三体。
さらに六体。
全部で九体。
すでに一体倒している。
残る九体を仕留めれば、十体討伐に届く。
だが、一度に相手をする数ではない。
灰牙狼たちは巣の入口で足を止め、こちらの様子を窺っている。
先頭の一体が、地面の糸を避けながら入ってきた。
後ろの狼も、同じ場所へ足を置く。
先頭の動きを見て、安全な道を覚えている。
「賢いな」
だが、賢いからこそ誘導できる。
俺は狼たちへ背を向け、巣の奥へ走った。
逃げたと判断したのだろう。
先頭の灰牙狼が速度を上げる。
ほかの狼も一列になって続いた。
俺は床を這う太い糸を飛び越えた。
先頭の狼も跳ぶ。
着地した瞬間、俺は岩へ引っかけていた糸を剣で切った。
張り詰めていた蜘蛛の巣が、一気に垂れ下がる。
白い網が、二体の灰牙狼へ覆いかぶさった。
狼たちが吠え、身体を暴れさせる。
だが、動くほど粘つく糸が毛へ絡んでいく。
後ろの狼たちは急停止した。
俺は網へ捕まった一体へ駆け寄る。
首を狙って剣を突き刺した。
二体目。
隣の狼が牙を剥き、糸へ絡まったまま噛みつこうとする。
俺は横へ回り込み、頭部へ剣を振り下ろした。
三体目。
胸へ祝福が流れ込む。
後ろにいた狼たちが、巣の左右へ散った。
同じ罠には近づかない。
三体が俺を囲もうと動き、残りは距離を取っている。
最初と同じだ。
ただし、今度は俺も相手の戦い方を知っている。
一体が正面から迫る。
別の二体が左右へ回る。
俺は正面の狼へ向けて走った。
予想外だったのか、狼の動きが一瞬止まる。
剣を振る。
狼は横へ跳んで避けた。
避ける方向は見えていた。
俺は剣を途中で止め、そのまま身体ごと狼へぶつかった。
灰牙狼が体勢を崩す。
首を斬る時間はない。
脇腹へ剣を突き刺し、すぐに抜いた。
致命傷には届いていない。
それでも、深い傷から血が流れた。
右から一体が飛びかかる。
俺は傷つけた狼の身体を蹴り飛ばした。
二体が空中でぶつかり、地面へ転がる。
左から来た三体目の牙を、剣の腹で受けた。
衝撃で腕が痺れる。
だが、押し負けなかった。
毒脚蜘蛛を倒したときよりも、身体に力が入る。
灰牙狼を三体倒し、さらに祝福を得た。
わずかな違いだ。
それでも、生きるか死ぬかの場面では大きい。
俺は剣を押し返し、狼の口元を弾いた。
喉が見える。
刃を横へ滑らせた。
血が噴き出す。
四体目。
地面へ倒れた二体のうち、一体が起き上がる。
もう一体は、先ほど脇腹を刺した狼だ。
傷を負いながらも、牙を剥いている。
俺は無傷の一体へ向けて剣を構えた。
その瞬間、傷ついた狼が先に飛びかかってきた。
仲間を守るつもりか。
俺は半歩下がり、剣を下から突き出した。
刃が胸へ入る。
狼の重みが剣を通して腕へかかった。
そのまま身体を横へ捻り、地面へ投げ落とす。
五体目。
だが、剣を抜くより早く、無傷の狼が俺の脚へ噛みついた。
「ぐっ!」
防具に覆われていない場所へ牙が食い込む。
俺は剣から手を放した。
狼の耳を掴み、拳を頭へ叩き込む。
一度。
二度。
狼が牙を外した。
逃げる前に首を両腕で抱え込み、体重をかけて地面へ押し倒す。
すぐ近くに落ちていた石を拾う。
頭へ叩きつけた。
狼が暴れる。
もう一度。
三度目で頭蓋が割れ、動きが止まった。
六体目。
残る灰牙狼は四体。
奴らはすぐには来なかった。
俺の周囲をゆっくり回りながら、傷ついた脚を見ている。
血の匂いを嗅ぎ、弱るのを待っている。
俺は剣を拾った。
脚へ力を入れる。
痛みはある。
だが、骨までは届いていない。
まだ動ける。
灰牙狼の一体が、短く吠えた。
二体が同時に飛びかかってくる。
一体を剣で牽制する。
もう一体が低い姿勢で足元へ入った。
俺は避けず、前へ踏み込んだ。
狼の肩を蹴り、身体を踏み台にして跳ぶ。
頭上を越え、その背後へ着地した。
振り向くより先に剣を突き刺す。
七体目。
もう一体が背中へ迫る。
俺は剣を抜かず、身体だけを沈めた。
狼が頭上を飛び越える。
着地した場所には、毒脚蜘蛛の糸が残っていた。
灰色の脚が糸へ貼りつく。
狼が必死に引き剥がそうとする。
俺は剣を抜き、動けない狼の首を斬った。
八体目。
残る二体が後退した。
逃げるつもりらしい。
一体は出口へ向かう。
もう一体は、俺の注意を引くように唸り続けている。
逃げる仲間を守るための囮か。
俺は唸っている狼へ向かった。
予想通り、狼は俺を引きつけながらゆっくり下がる。
俺が追えば、もう一体は逃げ切る。
だが、追うつもりはなかった。
俺は足元の蜘蛛糸を剣先ですくい上げる。
粘ついた糸を、逃げている狼へ投げた。
背中には届かない。
だが、後脚へ絡みついた。
狼が転倒する。
囮になっていた狼が振り返り、俺へ突進してきた。
俺はその場で待った。
牙が届く直前、身体をずらす。
すれ違いざまに、剣を腹へ滑らせた。
狼が血を撒き散らしながら転がる。
追いかけ、首へ刃を突き立てる。
九体目。
最後の一体は、糸から脚を引き抜こうともがいている。
俺はゆっくり近づいた。
灰牙狼が牙を剥き、立ち上がろうとする。
後脚が糸へ絡みつき、思うように動けない。
それでも逃げるのではなく、俺へ飛びかかろうとしていた。
「お前たちも、生きたいだけか」
魔物に俺の言葉は通じない。
妻を殺した男のように、楽しんで誰かを苦しめているわけでもない。
腹を満たすため。
群れを守るため。
それでも、ここで殺さなければ、殺されるのは俺だ。
「悪く思うな」
灰牙狼が跳んだ。
動きを制限された跳躍は、俺へ届かなかった。
俺は一歩踏み込み、剣を振り下ろした。
首へ刃が食い込む。
もう一度振る。
頭部が地面へ落ち、身体がゆっくり倒れた。
《灰牙狼を十体討伐しました》
《十体討伐報酬としてガチャ券を一枚獲得しました》
《灰牙狼討伐数:10/20》
《所持ガチャ券:九枚》
「あと一枚……」
十一連まで、残り一枚。
そして、このダンジョンでまだ倒していない魔物も一種類だけだ。
そいつを倒せば、ガチャ券は十枚になる。
同時に、六種類のコンプリートも達成する。
俺は灰牙狼の死体から魔石を取り出した。
すべてを回収する前に、何体かはダンジョンへ吸収されてしまった。
それでも七個の魔石を確保できた。
負傷した脚へ布を巻き、出血を抑える。
テントへ戻ろうとしたとき、巣の奥から低い音が聞こえた。
灰牙狼の唸り声ではない。
岩背猪の足音とも違う。
地面そのものが、わずかに震えている。
一歩。
また一歩。
何か巨大なものが、洞窟の奥を歩いている。
俺は暗視の働く目で、音のする方向を見た。
岩壁に、五本の傷が残されている。
一本一本が、俺の指より太い。
まるで巨大な爪で、硬い岩を抉ったような痕だった。
暗闇の奥から、腹の底まで震わせる咆哮が響いた。
残る一種類が、近くにいる。




