第7話 毒糸の巣
岩陰から、節のある長い脚が一本現れた。
続いて二本目。
三本目。
やがて、人間の胴体ほどもある蜘蛛が、暗闇の中からゆっくりと姿を見せる。
八つの目が、俺を捉えていた。
丸く膨らんだ腹。
脚の先端は刃物のように黒く尖り、口元から伸びた二本の牙には紫色の液体が滴っている。
どう見ても、ただの蜘蛛ではない。
俺は足元へ視線を落とした。
右足には、指ほどの太さがある白い糸が絡みついている。
剣で切ったはずだが、まだ靴の裏に粘りついていた。
力任せに足を引く。
靴がわずかに浮いただけで、完全には外れない。
蜘蛛が脚を縮めた。
来る。
俺は靴から足を抜き、その場から横へ跳んだ。
直後、蜘蛛が飛びかかってくる。
黒い脚が、先ほどまで俺の足があった場所へ突き刺さった。
硬い岩の床が削れる。
「まともに受ければ、鎧ごと貫かれるか」
右足だけ靴を失った状態で、剣を構える。
地面には白い糸が張られている。
無闇に下がれば、今度は両足を取られる。
蜘蛛は床を這うだけではなかった。
糸を足場にして壁を駆け上がり、そのまま天井へ移動する。
暗視が働いていても、すべての糸を見分けるのは難しい。
蜘蛛の腹がわずかに震えた。
俺は反射的に身体を捻る。
白い糸の塊が、耳元を通り過ぎた。
背後の壁へ貼りつき、瞬く間に固まっていく。
あれを身体へ受ければ、動きを封じられる。
蜘蛛が天井から落下してきた。
剣を振り上げる。
蜘蛛は空中で脚を広げ、刃を外側から挟み込んだ。
「なに……!」
剣を引こうとするが、複数の脚に押さえ込まれて動かない。
残る脚の一本が、俺の腕へ振り下ろされた。
咄嗟に身体を沈める。
黒い先端が防具の表面を滑り、左腕の内側を浅く切り裂いた。
鋭い痛み。
俺は剣を捨て、蜘蛛の腹へ蹴りを叩き込んだ。
蜘蛛が岩壁へ転がる。
剣も脚から外れ、床へ落ちた。
拾おうとした瞬間、左腕に違和感が走った。
傷口が熱い。
次いで、指先が痺れ始める。
「毒か」
深く刺されたわけではない。
それでも毒は身体へ入ったらしい。
左手が動かなくなる前に決着をつけなければならない。
俺は右手で剣を拾う。
蜘蛛が再び壁へ張りつき、こちらへ糸を吐いた。
避けた先にも糸が張られている。
足の裏が粘つき、動きが一瞬遅れた。
蜘蛛の脚が胸へ迫る。
俺は剣を横にして受け止めた。
金属同士を打ち合わせたような音が響く。
蜘蛛の脚は硬い。
斬るのは難しい。
ならば、狙うべき場所は別だ。
蜘蛛が牙を剥き、俺の首へ噛みつこうとする。
俺は退かなかった。
口を開いた蜘蛛へ向け、剣を真っすぐ突き出す。
切っ先が牙の間へ入った。
そのまま両手で柄を押し込む。
剣が口内を貫き、蜘蛛の頭部を突き抜けた。
八本の脚が激しく暴れる。
黒い先端が防具を何度も叩いた。
俺は剣から手を放さず、蜘蛛を地面へ押し倒す。
脚の動きが少しずつ弱まり、やがて完全に止まった。
その瞬間、これまでより強い熱が胸へ流れ込んだ。
蜘蛛の強さに加えて、初めて倒した種類だからだろう。
熱が左腕まで広がる。
痺れは消えなかったが、右腕や脚には新たな力が満ちていく。
《毒脚蜘蛛を初めて討伐しました》
《神の祝福を獲得しました》
《野良ダンジョン討伐記録:4/6》
《ガチャ券を一枚獲得しました》
《毒脚蜘蛛討伐数:1/10》
《所持ガチャ券:六枚》
「毒脚蜘蛛……」
そのままの名前だった。
剣を引き抜く。
休みたいところだが、左腕の痺れは肘まで広がり始めている。
俺は《収納》から小瓶を取り出した。
《下級解毒薬》
《弱い毒を除去します》
初回の十一連で手に入れた薬だ。
栓を外し、中身を一息に飲む。
強い苦味が口いっぱいに広がった。
喉を通った薬が腹へ落ちると、左腕の熱が少しずつ引いていく。
指を動かす。
まだ重さは残るが、痺れは治まり始めていた。
この薬がなければ、探索を中断するしかなかった。
あるいは、テントへ戻る途中で別の魔物に襲われていたかもしれない。
ガチャから出た物に、無駄な品は一つもなかった。
だが、解毒薬はこれで使った。
次に毒を受ければ、同じようにはいかない。
俺は周囲へ注意を払いながら、毒脚蜘蛛の腹を切り開いた。
肉の中から、洞蝙蝠の物より一回り大きな魔石を取り出す。
それを《収納》へ入れた直後だった。
通路の奥から、硬い脚音が聞こえた。
一つではない。
岩を細かく叩く音が、幾重にも重なっている。
蜘蛛を倒したことで、巣の仲間に気づかれたらしい。
引き返すべきか。
俺は背後を見た。
いつの間にか、通ってきた道の上にも白い糸が垂れている。
さらに、その向こうから別の毒脚蜘蛛が近づいていた。
前にもいる。
後ろにもいる。
狭い通路で挟まれれば、逃げ場はない。
俺は剣で白い糸を切りながら、奥へ進んだ。
数歩先で通路が開ける。
そこには、白い巣が広がっていた。
床。
壁。
天井。
空洞全体を覆うように、無数の糸が張り巡らされている。
その上を、毒脚蜘蛛たちが動いていた。
一体。
二体。
暗視で見える範囲だけでも、八体以上。
背後から追ってきた一体を合わせれば、十体近くいる。
「巣へ入ったか」
正面から一体ずつ戦える数ではない。
糸の上では、奴らの方が速い。
それに、毒を受ければ終わる。
蜘蛛たちが一斉にこちらへ向きを変えた。
複数の腹が震える。
糸が飛んでくる。
俺は床へ伏せた。
頭上を白い塊が通り過ぎ、背後の通路を塞ぐ。
逃げ道まで封じられた。
俺は立ち上がりながら、巣を支えている糸へ目を向ける。
すべてが同じ太さではない。
細い糸の中に、腕ほどもある太い糸が数本混じっている。
それらが天井と床を結び、巣全体を支えていた。
蜘蛛たちは太い糸を足場にして、壁や天井を移動している。
ならば、足場を奪えばいい。
俺は最も近い太い糸へ剣を振り下ろした。
一度では切れない。
二度。
三度。
粘りのある糸が裂けた。
張り詰めていた力が一気に解放され、巣の一部が大きく傾く。
天井にいた毒脚蜘蛛が体勢を崩した。
二体が糸から落下し、下に張られていた網へ絡まる。
自分たちが作った巣だ。
完全に動けなくなるわけではない。
だが、起き上がるまでの時間は稼げる。
俺は一体へ駆け寄り、頭部へ剣を突き立てた。
胸へ熱が流れ込む。
すぐに隣の一体へ移る。
蜘蛛が脚を振り回す。
俺は身体を低くして避け、口元へ剣を差し込んだ。
二体目を仕留める。
背後から糸が飛んできた。
右腕へ巻きつき、強く引かれる。
剣を握ったまま、身体が後ろへ引きずられた。
糸を吐いた毒脚蜘蛛が、壁際から俺を引き寄せている。
剣を奪うつもりか。
俺は右腕を引き返さず、左手で糸を掴んだ。
両足を踏ん張り、一気に手前へ引く。
蜘蛛の身体が壁から剥がれた。
勢いよくこちらへ飛んでくる。
俺は身体を横へずらし、蜘蛛の腹へ蹴りを叩き込んだ。
大きな身体が岩壁へ激突する。
糸が緩んだ隙に右腕を抜き、蜘蛛の頭へ剣を振り下ろした。
三体目。
祝福が身体へ入る。
先ほどまでより、足へ力が入る。
蜘蛛の動きも、初めて戦ったときほど速くは感じなかった。
だが、巣にはまだ多く残っている。
別の毒脚蜘蛛が天井から落ちてきた。
剣を横へ振る。
刃は脚へ当たったが、硬い表面に弾かれた。
そのまま蜘蛛の身体が俺へぶつかる。
地面へ押し倒された。
牙が顔へ迫る。
俺は剣を手放し、両腕で蜘蛛の頭を押さえた。
紫色の液体が牙の先から滴り、頬の横へ落ちる。
「くっ……!」
力が強い。
七年前の身体なら、簡単に押し負けていただろう。
だが、今は違う。
岩背猪。
牙鼠。
洞蝙蝠。
そして、毒脚蜘蛛。
得てきた祝福が、衰えた身体へ力を戻している。
俺は片脚を蜘蛛の腹へ入れ、全力で蹴り上げた。
蜘蛛の身体が浮く。
横へ転がり、落とした剣を拾う。
起き上がろうとした蜘蛛の腹へ刃を突き刺した。
四体目。
熱が胸へ入る。
呼吸は荒い。
身体も重い。
それでも、剣を握る手は止まらない。
残った蜘蛛たちは、同時に糸を吐こうとしていた。
俺は倒したばかりの蜘蛛の脚を掴む。
重い死体を持ち上げ、身体の前へ構えた。
三方向から飛んできた糸が、蜘蛛の死体へ絡みつく。
瞬く間に、白い糸で覆われた。
俺は死体を放した。
糸を吐いた蜘蛛たちが、つながったままの糸に引かれて体勢を崩す。
その隙に二本目の太い糸へ走った。
剣を叩き込む。
一本。
二本。
糸が切れる。
巣の中央部分が垂れ下がり、三体の毒脚蜘蛛が一か所へ滑り落ちた。
蜘蛛同士の脚が絡まり、身動きが取れなくなる。
一体目の頭を斬る。
五体目。
二体目が脚を伸ばす。
防具の胸元を掠めたが、深くは刺さらない。
口へ剣を突き入れる。
六体目。
三体目が絡まった仲間を押しのけ、俺へ飛びかかる。
俺は横へ避けた。
蜘蛛の脚が床へ突き刺さる。
抜こうとする前に、脚の付け根へ剣を叩き込んだ。
外側は硬くても、関節部分は違う。
脚が一本切り落とされる。
体勢を崩した蜘蛛の頭へ、もう一度剣を振り下ろす。
七体目。
胸へ流れ込む熱が重なる。
身体の内側が熱い。
一度に多くの祝福を得たせいで、筋肉が軋み始めていた。
だが、まだ倒れられない。
背後から脚音。
振り返る。
最初に通路から追ってきた毒脚蜘蛛が、巣へ入ってきた。
俺の右足には靴がない。
糸と岩で、足の裏はすでに傷だらけだった。
それでも踏み込む。
蜘蛛が糸を吐く。
俺は避けず、倒した蜘蛛の死体を蹴り上げた。
糸が死体へ絡みつく。
視界を塞がれた蜘蛛へ近づき、身体の下へ潜り込む。
腹へ剣を突き刺し、そのまま横へ引き裂いた。
八体目。
残る蜘蛛が、巣の奥へ後退する。
こちらを餌ではなく、危険な相手として見始めたらしい。
俺は追った。
ここで逃がせば、休息中に襲われるかもしれない。
一体が壁を駆け上がる。
俺は床に垂れていた糸を掴み、強く引いた。
つながっていた巣が揺れる。
蜘蛛が足を滑らせ、地面へ落ちた。
立ち上がる前に頭を貫く。
九体目。
最後の一体が、空洞の奥へ逃げようとする。
脚は速い。
今から走っても追いつけない。
俺は足元に落ちていた切れた糸を拾った。
輪を作る余裕はない。
糸の先を持ち、逃げる蜘蛛の脚へ投げる。
粘ついた糸が後脚へ貼りついた。
両手で引く。
蜘蛛の身体が傾き、床へ転がった。
俺は糸を放し、全力で駆ける。
蜘蛛が起き上がる。
だが、その動きより早く剣を振り下ろした。
刃が頭部へ食い込む。
もう一度。
硬い殻を割り、奥まで断ち切る。
毒脚蜘蛛の脚が地面を掻き、やがて止まった。
《毒脚蜘蛛を十体討伐しました》
《十体討伐報酬としてガチャ券を一枚獲得しました》
《毒脚蜘蛛討伐数:10/20》
《所持ガチャ券:七枚》
「あと……三枚か」
十一連まで、残り三枚。
俺は剣を地面へ突き立てた。
全身が熱い。
呼吸が乱れ、足元もふらついている。
強い魔物を短時間で十体倒した。
得た祝福も、洞蝙蝠のときより大きい。
だが、身体が急激な変化についていけていない。
関節が痛む。
筋肉が内側から引き裂かれるように軋んでいた。
それでも、戦い始める前とは明らかに違う。
剣を振る速度。
踏み込む力。
周囲の気配を感じ取る感覚。
七年間で失ったものが、急速に戻っている。
俺は呼吸を整え、蜘蛛の死体へ向かった。
床へ吸収される前に、魔石を取り出さなければならない。
毒脚蜘蛛の魔石は、洞蝙蝠のものより大きかった。
一体ずつ腹を切り開き、十個すべてを《収納》へ入れる。
素材にも価値があるのかもしれない。
毒の残った牙。
硬い脚。
丈夫な糸。
だが、扱い方を知らない。
下手に触れて、もう一度毒を受ける危険もある。
今は魔石だけでいい。
俺は白い巣を抜け、安全な通路まで戻った。
そこで《魔法のテント》を設置する。
中へ入り、結界が働いていることを確かめてから、ようやく剣を置いた。
右足の裏は裂け、血が滲んでいる。
腕や胸にも、蜘蛛の脚でつけられた傷が残っていた。
魔法のケトルへ触れる。
魔石の魔力が消費され、中に水が生まれる。
今回は沸騰させず、少し温かい程度で止めた。
生成された湯で傷口の血と汚れを洗う。
痛みに歯を食いしばりながら、残っていた回復薬を必要な分だけ使った。
傷がゆっくりと塞がっていく。
解毒薬はもうない。
次に毒を受ければ、同じようには治せない。
今後は、毒を持つ魔物へ近づく前に対策を用意する必要がある。
俺は寝具へ腰を下ろし、《ダンジョンガチャ》へ意識を向けた。
《所持ガチャ券:七枚》
《野良ダンジョン討伐記録:4/6》
《岩背猪討伐数:1/10》
《牙鼠討伐数:4/10》
《洞蝙蝠討伐数:20/30》
《毒脚蜘蛛討伐数:10/20》
《復讐達成率:0%》
復讐達成率は変わらない。
魔物を何体倒しても、あの男の居場所は分からない。
それでも、焦りは昨日までより小さくなっていた。
力が戻っている。
ガチャ券も集まっている。
この野良ダンジョンには、残り二種類の魔物がいる。
すべて倒せば、さらに力を得られる。
俺は数時間だけ身体を休めた。
筋肉の熱と痛みが治まるのを待ち、再びテントを収納する。
探索を再開してしばらく歩くと、通路の床に足跡を見つけた。
牙鼠よりも大きい。
大爪熊と思われるほど巨大ではない。
犬に似た獣の足跡。
それも、一つではなかった。
いくつもの足跡が、同じ方向へ続いている。
群れで行動する魔物らしい。
俺は剣へ手をかけた。
その瞬間、暗闇の奥から低い唸り声が聞こえた。
一つ。
続いて、左右から別の声が重なる。
正面の闇から、灰色の獣が姿を現した。
大きな牙を剥き出しにした狼。
正面に二体。
左に一体。
そして、背後からも足音が近づいていた。




