第5話 七年ぶりの朝
目を覚ました瞬間、俺は両腕で頭を庇っていた。
蹴られる。
そう思った。
看守が鉄格子を開け、眠っている俺の腹を蹴り上げる。反応が遅ければ、何度でも革靴が飛んでくる。
だが、いつまで待っても衝撃は来なかった。
「……?」
恐る恐る腕を下ろす。
頭上にあるのは、湿った石の天井ではない。
淡い光に照らされた、布張りの天井だった。
背中に触れているのも、冷たい石床ではない。柔らかな寝具が、痩せた身体を受け止めている。
俺はしばらく動けなかった。
鎖の擦れる音がしない。
看守の足音も聞こえない。
囚人の呻き声も、鞭が肉を叩く音もない。
聞こえるのは、自分の呼吸だけだった。
「そうか……」
ここは独房ではない。
野良ダンジョンの中に設置した、《魔法のテント》だ。
俺は誰かに起こされたのではない。
殴られるまで眠らされていたわけでもない。
自分の意思で眠り、自分の意思で目を覚ました。
そんな当たり前のことを理解するまで、随分と時間がかかった。
身体を起こす。
全身が重い。
昨日、猪に似た魔物と戦った疲労が残っている。長いあいだ使っていなかった筋肉が悲鳴を上げ、剣を振った右腕には鈍い痛みがあった。
それでも、独房を逃げ出した直後より身体が軽い。
拳を握る。
骨と皮ばかりだった指に、昨日よりも力が入った。
魔物を倒した瞬間、胸の奥へ流れ込んだ熱。
あれは神の祝福だ。
魔物を倒した者へ与えられる、この世界の恩恵。
七年間の独房生活で、俺の身体は衰え切っていた。
だが、戦い方まで忘れたわけではない。
失った力さえ取り戻せれば、まだ戦える。
俺は目を閉じ、《ダンジョンガチャ》へ意識を向けた。
視界の中に、淡い文字が浮かぶ。
《固有能力・ダンジョンガチャ》
《所持ガチャ券:一枚》
《野良ダンジョン討伐記録:1/6》
《岩背猪討伐数:1/10》
《復讐達成率:0%》
「岩背猪……」
昨日倒した魔物の名前らしい。
硬い突起に覆われた背中と、長い牙。
確かに猪に似ていた。
だが、俺の目は最後の表示へ引き寄せられた。
復讐達成率。
零パーセント。
脱獄し、追手から逃れ、魔物を一体倒した。
それでも、復讐には何一つ近づいていない。
当然だった。
俺はまだ、あの男がどこにいるのかさえ知らない。
七年前、牢の外から俺を見下ろし、笑いながら妻の最期を語った男。
――女を殺したとき、腹の子も一緒に死んだ。
腹の奥で、冷たいものが動いた。
怒りに任せて動けば死ぬ。
俺が死ねば、あの男は何も失わない。
俺の妻を殺し、生まれてくるはずだった子供まで奪い、俺を罪人に仕立てたまま生き続ける。
それだけは許せない。
「零からでいい」
独房の中では、何も始められなかった。
今は違う。
零からでも、前へ進める。
表示へ意識を向けると、別の文字が現れた。
《単発ガチャを実行しますか?》
俺はすぐに拒否した。
ガチャ券を十枚集めれば、十一回引ける。
しかも、そのうち一つは必ずR以上になる。
今すぐ何かが必要な状況ではない。
命が危険なら、一枚でも使う。
だが、余裕があるうちは貯めるべきだ。
一時の安心ではなく、復讐を果たすための確実な力が必要だった。
表示を消し、寝具から降りる。
顔の火傷はまだひりついていた。
昨夜塗った軟膏のおかげで炎症はかなり引き、傷そのものも塞がり始めていた。
だが、鏡がなくても分かる。
痕は残る。
それでいい。
七年前の顔は、森の川辺で捨てた。
保存食を一つ取り出し、清潔な水と一緒に口へ運ぶ。
柔らかなパンでも、温かな料理でもない。
それでも、独房で与えられていた薄い粥とは比べものにならなかった。
一口ずつ噛み締める。
もっと食べたかったが、残りがどれほど必要になるか分からない。
外では兵士たちが待ち構えている可能性がある。
数日で出られるとは限らない。
腹が満たされる前に手を止め、水も最低限だけ飲んだ。
続いて、《魔法のテント》の状態を確認する。
《結界魔力残量:わずか》
《追加設備解放まで、魔石が必要です》
昨日投入した小さな魔石だけでは、長く持たないらしい。
このテントは、今の俺にとって唯一の安全地帯だ。
結界が消えれば、眠っているあいだに魔物へ襲われる。
魔石を集めなければならない。
剣を腰へ差し、初心者用防具の留め具を確かめる。
昨日よりは身体に馴染んでいる。
テントへ意識を向けた。
布張りの室内が淡く光る。
次の瞬間、寝具も照明も壁も、一つの光へ吸い込まれるように小さくなった。
気がつけば、俺は再び洞窟の中に立っていた。
《魔法のテントを収納しました》
《収納中は魔石を消費しません》
便利なものだ。
安全な場所を見つけて設置し、探索中は畳んでおけばいい。
独房では、眠る場所を選ぶことすら許されなかった。
今は、どこで休むかを自分で決められる。
たったそれだけのことが、妙に嬉しかった。
剣を抜き、洞窟の奥へ進む。
昨日歩いた場所を離れると、光はすぐに届かなくなった。
完全な闇が周囲を覆う。
だが、足を止める前に視界が切り替わった。
黒一色だった岩壁の輪郭が、ぼんやりと浮かび上がる。
地面の凹凸。
天井から伸びる岩。
奥へ続く細い通路。
昼間と同じように見えるわけではない。
色もほとんど分からない。
それでも、歩くには十分だった。
「これが《暗視》か」
意識して発動した覚えはない。
暗い場所へ入ったことで、自動的に働いたらしい。
目の疲れも感じない。
初回の十一連で、これを引けたのは大きい。
松明が不要なら、火と煙で居場所を知らせずに済む。
しばらく進むと、足元に白いものが見えた。
しゃがんで確かめる。
小動物の骨だった。
その近くには、何かにかじられた革の切れ端が落ちている。
人間が使っていた物かもしれない。
さらに先から、硬いものを引っ掻くような音が聞こえた。
俺は剣を構える。
音は一つではない。
右。
左。
前方の岩陰。
複数いる。
後退しながら、背後の通路を確認する。
逃げ道はある。
だが、ここで逃げ続けても、身体は戻らない。
魔石も集まらない。
岩陰から、二つの赤い目が現れた。
鼠だった。
ただし、俺の知る鼠とは大きさが違う。
膝ほどの高さがあり、口元から鋭い牙が突き出している。
一匹。
二匹。
反対側からも二匹。
合計四匹。
大鼠たちは俺を囲もうと、ゆっくりと広がった。
岩背猪より小さい。
だが、小さいから弱いとは限らない。
四方から同時に飛びかかられれば、今の身体では対応できない。
俺は狭い通路へ下がった。
左右を岩壁で塞げば、一度に来られる数は減る。
大鼠たちは甲高い声を上げ、こちらへ走り出した。
最初の一匹が跳ぶ。
剣を横へ振った。
刃が首を捉える。
大鼠は地面へ叩きつけられ、二度痙攣して動かなくなった。
その瞬間、胸の奥が熱くなった。
「ぐっ……」
昨日よりは小さい。
それでも、はっきりと分かる。
熱が胸から腕や脚へ広がり、衰えていた身体へ力を与えていく。
初めて倒した種類だからか、見た目の弱さに比べて得られた祝福は多かった。
だが、余韻に浸っている暇はない。
二匹目が足首へ噛みつこうとする。
俺は脚を引き、剣先を下へ向けた。
背中を貫く。
三匹目が横から飛びかかってきた。
身体を捻って避ける。
爪が防具の表面を引っ掻いた。
七年前なら、もっと早く動けた。
頭では避け方が分かっている。
だが、身体が一瞬遅れる。
歯を食いしばり、剣の柄で大鼠の頭を殴った。
怯んだところへ刃を振り下ろす。
骨を断つ感触が手へ伝わった。
残る一匹が逃げようとする。
逃がせば、仲間を呼ぶかもしれない。
俺は地面を蹴った。
昨日より速く前へ出られた。
大鼠の背後へ追いつき、剣を突き立てる。
短い悲鳴が響き、洞窟に静けさが戻った。
「はあ……はあ……」
壁へ手をつく。
たった四匹。
それでも息が切れ、右腕が震えている。
だが、勝てた。
正面から囲まれず、地形を使えば、今の身体でも戦える。
視界に文字が浮かんだ。
《牙鼠を初めて討伐しました》
《神の祝福を獲得しました》
《野良ダンジョン討伐記録:2/6》
《ガチャ券を一枚獲得しました》
《牙鼠討伐数:4/10》
《所持ガチャ券:二枚》
《復讐達成率:0%》
「牙鼠か」
見たままの名前だった。
ガチャ券は二枚。
まだ引かない。
復讐達成率も変わっていない。
魔物を倒し、身体を鍛えただけでは、あの男へは近づけない。
それでも、無駄ではない。
復讐を果たすには、生き残らなければならない。
俺は牙鼠の腹へ剣を入れた。
魔石がどこにあるかは分からない。
昨日の岩背猪を切り開いた経験を頼りに、血と内臓を避けながら探す。
小さな硬い感触が刃先へ当たった。
肉の中から、小指の先ほどの魔石を取り出す。
一つ目を回収し、二匹目へ移る。
そのとき、最初に倒した牙鼠の身体が床へ沈み始めていることに気づいた。
「……吸収されているのか」
肉も毛皮も、少しずつ洞窟の地面へ溶けていく。
急がなければ、魔石まで失うかもしれない。
俺は残る三匹の腹を切り開き、魔石だけを回収した。
毛皮や牙にも価値があるのかもしれない。
だが、俺には解体の知識がない。
今は魔石だけで十分だ。
四つの小魔石を《収納》へ入れる。
これだけあれば、テントの結界をしばらく維持できるだろう。
剣についた血を布で拭い、立ち上がる。
神の祝福のおかげか、先ほどより呼吸が整うのが早い。
一歩ずつ。
七年間で奪われたものを取り戻す。
その先で、必ずあの男を見つける。
俺は洞窟のさらに奥へ進んだ。
やがて、細い通路が終わり、大きな地下空洞へ出る。
足を踏み入れた瞬間、頭上から微かな音がした。
革を何度も叩くような音。
暗視の働く目で、天井を見上げる。
黒い塊が、無数にぶら下がっていた。
そのうちの一つが羽を広げる。
続いて、いくつもの赤い目が一斉に開いた。
羽音が重なる。
闇の天井そのものが、動き始めていた。




