第37話 灰霧谷
荷馬車は、昼を少し過ぎた頃にベルガンへ到着した。
ローデンよりも小さな町だった。
北へ延びる街道沿いに宿屋や商店が並び、その外側を低い石壁が囲んでいる。
町へ近づくにつれ、冒険者らしい者の姿が増えていった。
灰色に汚れた外套。
布で覆われた口元。
背負った荷物には、霧で濡れた跡が残っている。
「灰霧谷から戻った連中です」
御者台の隣に座る商人が言った。
「最近は、町へ来る冒険者の半分が谷を目当てにしています」
「死者は多いのか」
「少なくはありません。霧の中では、仲間とはぐれるそうです」
荷馬車が門の前で止まった。
商人が町の兵士へ事情を説明する。
街道で刃羽鴉に襲われ、俺たちに助けられたことも話した。
兵士は俺の冒険者カードを確認した。
《氏名:シュナイダー》
《冒険者等級:F》
「ローデンで登録したばかりか」
「ああ」
「灰霧谷へ行くつもりなら、深追いするな。霧が濃くなると、帰る方向すら分からなくなる」
「覚えておく」
カードを受け取る。
老人は俺の叔父として町へ入った。
追手がベルガンまで先回りしている様子はない。
それでも、安心はできなかった。
◇
商人は、町の南側に小さな倉庫を持っていた。
荷物を運び入れたあと、奥にある休憩室へ俺たちを案内する。
寝台が一つ。
机と椅子。
窓は小さく、裏路地に面している。
「助けていただいた礼です。二、三日なら、こちらを使ってください」
「宿代は払う」
「必要ありません。護衛を二人失わずに済んだだけで、十分な利益です」
商人はそう言って倉庫へ戻った。
俺は扉を閉め、室内を調べる。
出入口は一つ。
小さな窓から人が入るのは難しい。
壁が薄いため、声は漏れる。
「ここで待て」
老人へ食料と水を渡した。
「外へ出るな。俺のことも、ローデンのことも話すな」
「谷へ行くのか」
「ああ」
「到着した当日にか?」
「休む必要はない」
共同墓地地下納骨堂を出てから、荷馬車の上で十分に身体を休めた。
傷も戦闘を妨げるほどではない。
何より、クロイツ家が追いつく前に強くならなければならない。
「三日以内に戻る」
「戻らなかったら?」
「商人の荷馬車に乗って、この町を離れろ」
「どこへ行けばいい」
「クロイツ家の領地から離れる方向なら、どこでもいい」
老人は不満そうな顔をした。
「ずいぶん無責任だな」
「俺が死んだあとまで、お前を守ることはできない」
机の上へ投げナイフを一本置く。
「だが、戦おうとするな。逃げるためだけに使え」
老人は返事をしなかった。
俺は灰色の外套を羽織り、倉庫を出た。
◇
ベルガンの冒険者ギルドは、町の北門近くにあった。
中はローデンよりも混雑している。
受付へ向かわず、壁に貼られた掲示を確認した。
《灰霧谷に関する警告》
《霧が濃い日は、谷への立ち入りを推奨しない》
《単独行動は避けること》
《目印となる縄や杭を使用すること》
《谷の奥で大型魔物の目撃情報あり》
その隣には、買い取り対象となる素材が記されていた。
灰霧蛾の鱗粉袋。
霧爪猿の爪。
岩殻蛞蝓の殻。
それ以外にも複数の名前が並んでいる。
すべて覚える必要はない。
《解体》があれば、倒したあとに価値のある部位を見分けられる。
売却窓口へ移動する。
街道で倒した刃羽鴉の羽と、腐肉猟犬の牙だけを出した。
「ずいぶん状態がいいですね」
職員が刃羽を持ち上げる。
「あなたが倒したのですか?」
「商人の護衛中にな」
商人たちという目撃者がいる。
この素材なら、Fランクが持っていても不自然ではない。
銀貨を受け取り、そのまま売店へ向かった。
谷の簡易地図。
口と鼻を覆うための厚い布。
霧の中で位置を確認するための方位針。
目印用の白い縄。
食料と油布。
必要な物だけを購入した。
詳しい話を聞くために時間を使うつもりはなかった。
谷へ入れば、魔物も危険も自分で分かる。
◇
北門から灰霧谷までは、歩いて一刻もかからなかった。
街道を外れ、低い丘を越える。
その先に、灰色の霧で満たされた谷があった。
入口には、何組もの冒険者がいる。
縄を身体へ結ぶ者。
武器を確認する者。
谷から戻り、傷の手当てを受けている者。
俺は人の少ない斜面へ回った。
白い縄の片端を、入口近くの太い木へ結ぶ。
すべての道を縄でつなぐことはできない。
だが、最初の退路だけでも分かればいい。
口元を厚い布で覆う。
方位針を確認し、霧の中へ入った。
《野良ダンジョンへの侵入を確認しました》
《灰霧谷》
《魔物種討伐記録:0/?》
視界は五歩ほどしかない。
少し離れた岩も、灰色の影にしか見えなかった。
音も妙だった。
自分の足音が、霧へ吸い込まれていく。
遠くから聞こえた声は、別の方向から反響して戻ってくる。
方位針を見る。
針は北を示している。
今のところ、道具は使える。
俺は白い縄を手で確かめながら進んだ。
◇
羽音が聞こえた。
正面。
剣を抜く。
だが、《危険察知》が反応したのは背後だった。
振り向く。
灰色の霧から、大きな蛾が現れる。
両翼を広げれば、人間の腕ほどの幅があった。
羽の模様は周囲の霧と同じ色。
動きを止めれば、見分けるのは難しい。
長い口器が、顔へ向かって伸びてくる。
身体を横へずらし、剣を振った。
刃が左の翼を切る。
灰色の粉が噴き出した。
口元は布で覆っている。
それでも、目へ粉が入った。
「くっ……」
視界が滲む。
瞼が重い。
毒ではない。
意識ははっきりしている。
だが、目の周囲が痺れていた。
灰霧蛾が残った翼を動かし、再び飛び上がろうとする。
俺は目を細め、《危険察知》へ意識を集中した。
右前方。
剣を突き出す。
柔らかい感触。
刃が胴を貫いた。
灰霧蛾が地面へ落ちる。
《灰霧蛾を初めて討伐しました》
《ガチャ券を一枚獲得しました》
《灰霧谷討伐記録:1/?》
《所持ガチャ券:九枚》
死体へ近づこうとする。
すぐに足を止めた。
羽音。
一つではない。
霧の中で、周囲の灰色が揺れている。
正面。
左右。
頭上。
灰霧蛾の群れに囲まれていた。
◇
最初の一体が羽ばたく。
灰色の鱗粉が霧へ混ざった。
風向きが分からない。
俺は外套の端を持ち上げ、目元まで覆った。
完全に視界を塞ぐわけにはいかない。
細い隙間から周囲を見る。
灰霧蛾が飛び込んでくる。
剣で翼を斬れば、また鱗粉が飛ぶ。
同じ方法では戦えない。
左手を向ける。
魔力を広げず、一体の翼へ集中させた。
「《冷気》」
灰色の翼へ霜がつく。
羽ばたきが鈍った。
灰霧蛾が地面へ落ちる。
翼ではなく、胴へ剣を突き刺す。
二体目。
凍った翼からは、鱗粉がほとんど飛ばなかった。
使える。
二体が左右から来る。
片方の翼へ《冷気》を流す。
もう一体は剣の腹で地面へ叩き落とした。
先に凍らせた個体の胴を斬る。
三体目。
地面で暴れている個体へ剣を突き下ろす。
四体目。
背後から羽音。
振り向く前に、長い口器が右肩へ刺さった。
革鎧の表面を貫く。
皮膚までは届いていない。
灰霧蛾が口器を引き抜こうとする。
俺は左手で掴んだ。
細いが硬い。
そのまま引き寄せる。
灰霧蛾の身体が近づいた。
胴を剣で貫く。
五体目。
頭上から鱗粉が降る。
外套で顔を覆い、前へ走った。
霧の中では、どこへ逃げても同じだ。
なら、岩壁を背にする。
足元の傾斜を確かめながら進む。
右手が岩へ触れた。
背後を取られる方向が減る。
灰霧蛾たちが、目の前の霧を揺らしている。
一体が来る。
冷気。
翼が凍る。
胴を斬る。
六体目。
次は二体。
片方へ尖らせた《氷塊》を放つ。
氷が胴へ突き刺さり、飛ぶ軌道が崩れた。
もう一体の口器を剣で払う。
身体を回し、胴へ横薙ぎの一撃。
七体目。
氷塊を受けた個体が、地面を這って逃げようとする。
首の近くへ剣を落とす。
八体目。
残りが一斉に羽ばたいた。
霧と鱗粉が渦を巻く。
視界が灰色に染まった。
何も見えない。
羽音だけが、あらゆる方向から聞こえる。
《危険察知》が連続して反応した。
正面。
剣を振る。
硬い口器を弾いた。
左。
身体を沈める。
灰霧蛾が頭上を通過する。
右肩。
避けきれない。
口器が革鎧の隙間へ入った。
肩へ鋭い痛みが走る。
何かを吸われる感覚。
血だけではない。
身体の力が、口器を通じて奪われている。
俺は灰霧蛾の胴を掴んだ。
逃げようと羽ばたく。
指先へ冷気を集中させる。
翼の根元が凍りついた。
地面へ叩きつける。
胴を踏み、剣を突き刺す。
九体目。
肩から口器を抜く。
血が流れた。
吸われたのはわずかな時間だ。
まだ身体は動く。
だが、群れに何度も捕まれば危険だ。
霧の中で羽音が近づく。
二体。
どちらが先か分からない。
俺は足元へ生活魔法の水を撒いた。
そこへ冷気を流す。
床を凍らせるためではない。
冷えた空気を、岩壁に沿って上へ流す。
霧がわずかに動いた。
灰霧蛾の周囲だけ、気流が乱れている。
輪郭が見えた。
「そこか」
左手へ魔力を集める。
尖らせた氷塊を放つ。
一体の胸を貫いた。
落ちてきた身体へ剣を振る。
十体目。
《灰霧蛾を十体討伐しました》
《ガチャ券を一枚獲得しました》
《所持ガチャ券:十枚》
残る灰霧蛾が、霧の向こうへ逃げようとする。
追う。
ここで逃せば、回復したあと再び襲ってくる。
一体の翼へ冷気を流す。
落ちた胴を斬る。
十一体目。
最後の一体が高く飛ぶ。
羽ばたくたび、鱗粉が降ってきた。
俺は剣の先端へ氷を集める。
魔力操作で細長く整える。
「《氷塊》」
放った氷が灰色の霧を裂く。
灰霧蛾の腹へ突き刺さった。
魔物が落ちる。
地面へ当たる前に踏み込み、首を断った。
十二体目。
◇
羽音が消えた。
俺は岩壁へ背をつけ、呼吸を整えた。
肩の傷を水で洗う。
血を吸われたせいか、身体が少し重い。
下級回復薬を少量だけ傷へかけ、包帯を巻いた。
目の痺れも、少しずつ弱まっている。
灰霧蛾の死体を調べる。
《解体》へ意識を向けると、腹部にある袋が示された。
鱗粉を蓄える器官。
そのまま切れば、粉が飛び散る。
翼と袋の周囲だけを冷気で凍らせる。
状態のいい三体から鱗粉袋を取り出し、油布へ包んだ。
魔石は十二個。
すべて《収納》へ入れる。
霧の中で別の魔物と戦う前に、ガチャを引くべきだ。
周囲を調べる。
岩壁に浅い窪みがあった。
入口へ細い紐と鈴を張る。
その奥へ座った。
《所持ガチャ券:十枚》
意識を集中する。
《ガチャ券を十枚消費します》
《十一連ガチャを開始します》
灰色の霧の中に、十一の光が浮かび上がった。




