第35話 特殊報酬
右肩に残っていた黒い筋が、胸へ向かって動き始めた。
「ぐっ……!」
皮膚の下を、冷たい虫が這っているような感覚。
肩から鎖骨へ。
鎖骨から胸へ。
墓守司祭や水底花嫁から受けた呪いが、一斉に身体の奥へ入り込もうとしている。
右腕から力が抜けた。
鋼鉄の剣が手を離れ、地面へ落ちる。
膝をつく。
黒い筋が、心臓へ近づいていた。
《呪い耐性》は働いている。
それでも抑えきれない。
ダンジョンをコンプリートしたことで、周囲に残っていた呪いまで俺へ集まっているのか。
違う。
目の前に文字が浮かぶ。
《特殊報酬の付与を開始します》
《既存スキルとの適合を確認しました》
《スキル《呪い耐性》を確認しました》
《同系統の力を統合します》
右肩が焼けるように熱くなった。
黒い筋の動きが止まる。
次の瞬間、胸へ向かっていた呪いが逆流した。
鎖骨。
肩。
右腕。
黒い筋が、一か所へ集まり始める。
「があっ……!」
拳を地面へ押しつける。
皮膚の内側から、何かが外へ出ようとしていた。
右肩の傷が開く。
黒い液体が流れ出した。
血ではない。
水底花嫁の池と同じ、冷たい黒い水。
液体は地面へ落ちる前に凍りつき、小さな黒い結晶へ変わった。
身体の中に残っていた冷たさが、少しずつ消えていく。
《特殊報酬を付与しました》
《スキル《呪い耐性》が強化されました》
《呪い耐性Ⅱ》
《呪いによる侵食と能力低下を大きく軽減します》
《身体に蓄積した弱い呪いを、時間をかけて排出します》
《強力な呪いを完全に無効化する効果はありません》
右腕を動かす。
指が動く。
肩にも力が戻っている。
黒い筋は消えていた。
傷口の周囲には、薄い灰色の痕だけが残っている。
完全な無効化ではない。
墓守司祭や水底花嫁と同じ攻撃を何度も受ければ、再び侵食される。
それでも、一度受けただけで腕が使えなくなる危険は減った。
黒い結晶へ意識を向ける。
《排出された呪いの結晶》
《強い呪いを帯びています》
《素手での接触は推奨されません》
油布で包み、《収納》へ入れる。
地上で治療法を探すとき、役に立つかもしれない。
◇
続いて、胸の奥へ熱が流れ込んだ。
《第二の報酬を付与します》
《全能力が上昇しました》
身体の芯から力が広がる。
腕。
脚。
背中。
視界がわずかに鮮明になり、遠くで落ちた小石の音まで聞き取れた。
魔力の量も増えている。
先ほどの戦いで使い切ったはずなのに、胸の奥に新しい魔力が生まれていた。
傷が治ったわけではない。
左腕には大蜥蜴の爪で受けた傷が残っている。
全身にも強い疲労がある。
それでも、戦う前より身体が強くなっていることは分かった。
《復讐達成率を再算定します》
《復讐達成率:19%》
十八から十九。
共同墓地地下納骨堂をすべて攻略して、上昇したのは一パーセント。
ローデン地下迷宮と同じだ。
全能力の上昇だけでは、ヴァルドとの差を大きく縮められない。
奴は今も、強い魔物を倒し続けている。
俺が一つのダンジョンを攻略している間に、ヴァルドも祝福を得ている。
「まだ足りない」
だが、今回は一つ目の報酬が残っている。
《第一の報酬を付与します》
《復讐対象に関する証拠を確認しました》
目の前に、地下空洞の光景が浮かんだ。
倒した墓喰い大蜥蜴。
その身体の下。
崩れた岩と骨に隠された、石造りの床。
映像はすぐに消えた。
俺は大蜥蜴の死体へ近づく。
巨体を一人で動かすことはできない。
まず解体する。
《解体》へ意識を向けた。
価値のある場所が、ぼんやりと線で示される。
大きな魔石。
牙。
爪。
背中を覆っている骨の鎧。
皮。
すべて持ち帰れば、かなりの金になる。
だが、今は証拠が先だ。
大蜥蜴の腹の下へ剣を入れ、肉を切る。
腐った臭いが強くなる。
皮膚と肉を少しずつ剥がし、身体を軽くする。
右前脚。
尾の一部。
頭部。
切り離せる場所から《収納》へ入れていく。
生き物は入らないが、解体した素材なら収納できる。
最後に残った胴へ、近くの岩を支点に鉄杭を差し込む。
全能力上昇で得た力を込める。
巨体が、わずかに持ち上がった。
もう一本の鉄杭を奥へ差し込む。
少しずつ身体を横へ動かした。
大蜥蜴の下から、石造りの床が現れる。
ほかの場所とは色が違う。
中央に、四角い継ぎ目。
俺は隙間へ鉄杭を差し込んだ。
持ち上げる。
石板の下に、小さな空間があった。
中には、油布で包まれた筒が三本。
金属製。
水や腐敗から中身を守るための容器だ。
一つ目を開く。
丸められた紙が入っていた。
日付は、七年前より新しい。
わずか二年前。
紙の上部には、クロイツ家の紋章が押されている。
内容を読む。
身元不明の死体。
事故死として処理された鉱夫。
牢へ入れられる前に死亡した罪人。
それらを共同墓地の地下へ運び込んだ記録。
一人ごとに、運搬日と金額が記されている。
最初は、埋葬場所が不足したための秘密処理にも見えた。
だが、途中から記述が変わる。
名前の横に、短い言葉が添えられていた。
告発を試みた。
支払いを拒否した。
命令に従わなかった。
事故死ではない。
クロイツ家にとって邪魔になった人間を殺し、その遺体を地下へ捨てていた。
二本目の筒には、運搬を命じた書類が入っている。
署名は家宰。
だが、その横に別の印があった。
炎をまとった剣。
ヴァルド本人が使っている印だ。
「お前は、今も続けているのか」
マリエルを殺したあとも。
俺へ罪を着せたあとも。
ヴァルドは人を殺し続けていた。
表では英雄として魔物を倒す。
裏では、自分へ逆らう人間を消す。
その死体を、この地下へ捨てていた。
三本目の筒には、小さな帳簿が入っていた。
運搬を担当した者への支払い。
共同墓地を巡回する兵士への口止め料。
地下で発生した魔物を利用し、死体を消すための費用。
クロイツ家は、この場所がダンジョンになっていることを知っていた。
知りながら閉鎖し、秘密の処分場として使っていた。
地下の魔物が増えた理由も、ここへ運び込まれた死体のせいかもしれない。
《復讐対象に関する証拠を獲得しました》
《証拠:共同墓地への死体搬入記録》
《証拠:クロイツ家の秘密処分命令書》
《証拠価値を確認しました》
《復讐対象が関与した現在の犯罪を確認しました》
《復讐達成率を再算定します》
《復讐達成率:23%》
十九から二十三。
四パーセント上昇した。
七年前の事件だけではない。
現在も続いている犯罪。
しかも、ヴァルド本人の印が残されている。
マリエル殺害の直接的な証拠ではない。
だが、英雄としてのヴァルドの名声を崩すには十分な力を持つ。
この記録に名前が残された被害者の家族を捜せば、さらに証言が得られる可能性もある。
だが、今すぐ調べるつもりはない。
証拠は手に入った。
次に必要なのは、これを握り潰されない力だ。
今のまま公表しても、クロイツ家は偽物だと言い張る。
証拠を持つ俺や老人を殺し、終わらせるだろう。
先に強くなる。
ヴァルドが兵士を何人送ってきても、証拠を守れるほどに。
◇
墓喰い大蜥蜴の素材を回収する。
大きな魔石。
状態のいい牙を四本。
爪を六本。
骨の鎧の一部。
皮は腐臭が強く、すべて持ち帰る価値はない。
《解体》が示した状態のいい部分だけを切り取った。
魔石は売らない。
《魔法のテント》へ使う。
これほど大きな魔石なら、設備の成長にも期待できる。
素材を《収納》へ入れ、空洞の奥にある石門へ向かった。
門の向こうから、外気が流れている。
老人から預かった鍵束を試す。
どの鍵も入らない。
扉の横を見る。
太い金属の棒が、壁の中へ埋め込まれていた。
こちら側からだけ開けられる仕組みだ。
棒を下げる。
石門の内側で、重い音が響いた。
扉を押す。
長い間動いていなかった石が、地面を擦りながら開いていく。
外の光が差し込んだ。
夜だった。
出口は、共同墓地から離れた岩山の斜面につながっている。
旧市街の灯りが、遠くに見えた。
クロイツ家は、この道から死体を運び込んでいたのだろう。
人目につかず、町の門も通らずに共同墓地の地下へ入れる。
俺は外へ出た。
振り返る。
地下納骨堂の奥から、もう魔物の音は聞こえない。
《共同墓地地下納骨堂討伐記録:8/8》
《魔物種コンプリート済み》
《所持ガチャ券:六枚》
ダンジョンは消えていない。
魔物も、いずれ再び生まれる可能性がある。
だが、初回討伐とコンプリート報酬は得た。
ここへ残る理由はない。
◇
森を進み、老人を隠した岩山の裂け目へ戻る。
周囲に張った鈴は鳴っていない。
人間の新しい足跡もなかった。
テントの入口を、三回叩く。
間を空ける。
さらに二回。
「私だ」
中から老人の声がした。
入口を開ける。
老人は投げナイフを握ったまま、寝台の端に座っていた。
俺の姿を見ると、力を抜く。
「戻ったか」
「ああ」
「地下は?」
「すべて終わった」
テントへ入る。
《収納》から大蜥蜴の魔石を取り出した。
魔法のテントへ加える。
《高濃度の魔石を確認しました》
《魔石エネルギーを蓄積します》
《設備拡張条件の一部を満たしました》
すぐに新しい設備は現れない。
それでも、成長へ近づいている。
俺は汚れた外套を脱ぎ、椅子へ座った。
老人が、俺の左腕に巻かれた血のにじむ包帯を見る。
「何と戦ってきた」
「地下にいたもの全部だ」
「一人でか」
「ほかに誰がいる」
老人は呆れたように息を吐いた。
「普通は死ぬ」
「死ななかった」
魔法のケトルで湯を作る。
傷を洗い、新しい包帯を巻く。
簡易調理台へ鍋を置いた。
豆。
干し肉。
少量の塩。
老人の分も作る。
「証拠はあったのか」
「あった」
死体搬入記録や命令書を見せるつもりはない。
老人がクロイツ家へ戻る可能性を、まだ完全には捨てていないからだ。
「お前が墓地を管理していた間、地下へ死体が運ばれたことは?」
「閉鎖してからは、夜のことまで把握していない」
「裏手の岩山に、地下へ続く搬入口があった」
老人の顔が変わる。
「知らなかった」
「本当にか」
「少なくとも、私が管理人になった頃には使われていなかった」
嘘をついている様子はない。
クロイツ家は、管理人にすら知らせず地下を使っていた。
「数日休んだら、ここを離れる」
「ローデンを出るのか」
「ああ」
クロイツ家はこちらを捜している。
同じ場所に留まり続けるのは危険だ。
何より、ローデン周辺の二つのダンジョンはすでにコンプリートした。
次の成長場所を探さなければならない。
「どこへ行く」
「まだ決めていない」
鍋の中身を木皿へ分ける。
老人へ渡す。
「クロイツ家の手が届きにくく、ダンジョンがある場所だ」
俺も温かい豆を口へ入れた。
身体が食べ物を求めている。
戦いが終わった途端、強い空腹が押し寄せてきた。
何度も噛み、飲み込む。
《復讐達成率:23%》
七年前の手紙を見つけたときは、七パーセントだった。
今は二十三。
まだ四分の一にも届いていない。
だが、ヴァルドの足元には確実に亀裂が入っている。
次は、その亀裂を広げられるだけの力を手に入れる。
捜査は、しばらく終わりだ。
これからは再び、魔物を倒す。




