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【Amazonで発売中!】妻殺しの冤罪で七年間独房に閉じ込められた俺、脱獄後にダンジョンガチャで復讐を果たす  作者: 月瀬 リュカ


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第33話 水底の花嫁



 黒い池の下から、無数の白い腕が伸びてきた。


 俺は剣を振り、最初の腕を斬り落とす。


 白い手首が水面へ落ちた。


 血は出ない。


 切断面から黒い水が噴き出した。


 別の腕が足首へ迫る。


 後ろへ跳ぶ。


 白い指が革靴の先を掠め、そのまま地面へ爪を立てた。


 石が削れる。


 細い腕からは想像できない力だ。


「どうして逃げるの?」


 池に浮かぶ女が尋ねた。


 白く濁った目が、俺だけを見ている。


「助けてほしいだけなのに」


 女の身体が、ゆっくりと水面から持ち上がる。


 肩。


 胸。


 細い腰。


 黒い服が、濡れた肌へ張りついていた。


 人間に見える。


 だが、水面の下にあるはずの脚は出てこない。


 代わりに、さらに多くの腕が浮かび上がった。


 女の腰から下には、数十人分の腕が絡みついている。


 腕の塊が、池の底まで続いていた。


《水底花嫁との遭遇を確認しました》


《未討伐の魔物種です》


 水底花嫁。


 女の姿は、獲物を近づけるための餌にすぎない。


「帰りましょう」


 女が笑った。


 声が変わる。


 聞き間違えるはずのない声だった。


「あなた」


 胸の奥が止まった。


 マリエル。


 七年間、何度も思い出した声。


 店の奥から俺を呼んだ声。


 朝、眠っている俺を起こした声。


「マリエル……」


 口から名前がこぼれた。


 女の顔が揺れる。


 長い黒髪が薄い茶色へ変わっていく。


 白い顔へ、かつて知っていた輪郭が浮かび上がった。


 優しく垂れた目。


 少しだけ細い眉。


 微笑む唇。


 マリエルが、黒い池の中にいた。


「遅かったのね」


 彼女が両腕を広げる。


「ずっと待っていたのよ」


 一歩、足が前へ出た。


 池の周囲にある白い腕が、動きを止める。


 こちらを待っている。


「もう、復讐なんてしなくていいの」


 マリエルの姿をしたものが微笑んだ。


「一緒に眠りましょう」


 もう一歩。


 池まで、あとわずか。


 懐に入れている髪飾りが、胸へ触れた。


 冷たい感触。


 俺は足を止める。


「違う」


「何が?」


「マリエルは、そんなことを言わない」


 彼女は、俺が苦しむことを望まなかっただろう。


 復讐を望んだかも分からない。


 それでも、自分と一緒に死ねとは言わない。


 何より。


「お前は俺を待っていない」


 マリエルは、もういない。


 その事実だけは、七年間かけて身体へ刻み込まれている。


 どれほど同じ顔をしていても。


 どれほど同じ声で呼ばれても。


 死んだ者が戻らないことを、俺は知っている。


 女の笑みが消えた。


「あなたが殺した」


 声が低く変わる。


「私も、お腹の子も」


 白い腕が一斉に動いた。


 俺は剣を構える。


「その言葉を使うな」


 怒りは湧いた。


 だが、足は動く。


 頭も冷えている。


 今の俺は、あの独房に閉じ込められていた男ではない。


     ◇


 左右から腕が迫る。


 一本を斬る。


 二本目を避ける。


 三本目が剣を持つ右腕へ巻きついた。


 強く引かれる。


 俺は踏ん張らず、自分から池へ近づいた。


 腕がたるむ。


 剣を返し、肘に当たる部分を断つ。


 切れた腕を捨てる。


 水底花嫁が口を大きく開いた。


 黒い水が噴き出す。


 墓守司祭の霧や餓鬼亡者の唾液と同じ気配。


 呪いを含んでいる。


 剣の前へ魔力を集中させる。


「《氷膜》」


 厚い氷が刃の前に生まれた。


 黒い水を受け止める。


 氷の表面が一瞬で黒く染まった。


 魔力操作で、汚染された部分だけを剥がす。


 黒い氷片が地面へ落ちた。


 その隙に、白い腕が地面を這ってくる。


 足元。


 後ろ。


 左右。


 数が多すぎる。


 すべて斬っていては、魔力も体力も尽きる。


 本体を倒すしかない。


 水底花嫁の胸を見る。


 核らしきものは見えない。


 《危険察知》も、女の身体全体へ反応している。


 池の中へ本体を隠している可能性が高い。


 俺は《収納》から鉄杭を取り出した。


 近づいてきた腕の掌へ突き刺す。


 そのまま地面へ打ち込んだ。


 一本の腕が固定される。


 別の腕が鉄杭を引き抜こうとする。


 俺は固定された腕を踏み、池へ向かって走った。


 女が両腕を広げる。


「おかえりなさい」


 再び、マリエルの声。


 俺は答えない。


 池の直前で左手を向けた。


「《冷気》」


 水面全体ではない。


 踏み込む場所だけへ、細く魔力を流す。


 黒い池の表面に、白い氷が生まれた。


 一歩分。


 そこへ足を置く。


 次の場所を凍らせる。


 二歩目。


 即席の氷の道を作り、池の中央へ進む。


 水底から腕が伸びる。


 氷を突き破り、足首へ巻きついた。


 身体が引かれる。


 足元の氷に亀裂が入った。


「一緒に来て」


 水の下から、何人もの声が重なって聞こえる。


 男。


 女。


 子供。


 この池へ引き込まれた者たちの声なのか。


 俺は足を掴む腕へ剣を振る。


 一本。


 二本。


 斬っても、次の腕が伸びてくる。


 氷の道が崩れ始めた。


 水底花嫁が目の前へ迫る。


 マリエルの顔で、両腕を伸ばしていた。


「もう苦しまなくていいのよ」


「黙れ」


 首へ剣を振った。


 女の頭が飛ぶ。


 水面へ落ちた顔は、マリエルのままだった。


 だが、胸から下の身体は倒れない。


 頭部のない首から、黒い水が噴き上がる。


 やはり、そこが核ではない。


 女の両腕が俺の身体へ巻きついた。


 力が強い。


 胸を締めつけられる。


 脇腹の傷が痛んだ。


 水底から伸びた腕も加わり、身体が少しずつ池へ沈んでいく。


 黒い水が革靴を覆う。


 皮膚の奥へ、冷たいものが入り込もうとする。


《呪い耐性》が侵食を抑える。


 それでも、完全には防げない。


 長く浸かれば危険だ。


 俺は剣を女の腹へ突き刺した。


 手応えがない。


 内部まで水で満たされているようだった。


 刃を引き抜くと、傷口がすぐに閉じる。


 女の身体は本体ではない。


 人の形をした、水と死体の塊。


 本当の核は池の底にある。


 俺は抵抗するのをやめた。


 腕の力に従い、自分から黒い水へ沈む。


     ◇


 冷たい。


 水面の下は、光がほとんど届かなかった。


 《暗視》を使う。


 黒い池の底が見える。


 無数の死体。


 白い腕は、すべて沈んだ死体から伸びていた。


 男。


 女。


 古いものは骨だけになっている。


 新しいものには、まだ腐った肉が残っている。


 その中央。


 何十体もの死体に囲まれた、黒い棺があった。


 棺の蓋から、太い肉の管が伸びている。


 管は水面に浮かぶ女の身体へつながっていた。


 あれが本体だ。


 白い腕が俺の首や脚へ巻きつく。


 口から空気が漏れた。


 長くは保たない。


 剣へ魔力を流す。


 水中で広く冷気を放てば、自分まで凍る。


 魔力操作で、刃の周囲だけへ力を集める。


「《氷膜》」


 声は泡になった。


 剣身へ薄い氷が張りつく。


 腕を斬る。


 水中では、地上ほど速く振れない。


 それでも、凍った刃は腐った肉を断った。


 一本。


 二本。


 首が自由になる。


 足を動かし、黒い棺へ向かう。


 死体の群れが一斉にこちらを向いた。


 目を閉じていた死者たちが、口を開く。


 黒い水の中で、声が直接頭へ響いた。


「殺人者」


「妻殺し」


「お前が殺した」


 七年間、聞かされ続けた言葉。


 看守。


 兵士。


 裁判官。


 町の人間。


 誰も俺の言葉を信じなかった。


 白い腕が再び伸びる。


 俺は黒い棺だけを見る。


 今さら、その言葉で止まるものか。


 棺まで、あと二歩。


 足首を掴まれる。


 身体が後ろへ引かれた。


 鉄杭を《収納》から取り出す。


 掴んでいる腕へ突き刺す。


 さらに、池の底へ深く打ち込んだ。


 腕を固定し、鉄杭を支えにして身体を前へ引く。


 黒い棺へたどり着いた。


 蓋には、顔のない女の彫刻。


 胸の位置に、青黒い石が埋め込まれている。


 《危険察知》が強く反応した。


 核だ。


 剣を突き立てる。


 硬い。


 刃が表面を滑った。


 息が続かない。


 胸が苦しい。


 視界の端が暗くなり始める。


 俺は左手を青黒い石へ当てた。


 最後の空気が、口から漏れる。


 魔力を一点へ集める。


「《冷気》」


 声にはならない。


 石の表面だけが凍りついた。


 もう一度、剣を振る。


 亀裂が入る。


 背後から腕が首へ巻きついた。


 身体が引かれる。


 剣の柄を両手で握る。


 二撃目。


 亀裂が広がる。


 三撃目。


 青黒い石が砕けた。


 黒い棺が大きく揺れる。


 すべての白い腕が止まった。


 水面へ伸びていた肉の管が、途中から崩れていく。


 池の底に沈んだ死体も、ただの骨と腐肉へ戻った。


《水底花嫁を初めて討伐しました》


《ガチャ券を一枚獲得しました》


《共同墓地地下納骨堂討伐記録:7/?》


《所持ガチャ券:五枚》


 祝福が胸へ流れ込む。


 だが、息は戻らない。


 水の中だ。


 俺は鉄杭を引き抜き、池の底を蹴った。


 革鎧が水を吸い、身体が重い。


 上へ進まない。


 残った空気はない。


 喉が勝手に開こうとする。


 水を吸えば終わる。


 俺は剣を《収納》へ入れた。


 両手で水を掻く。


 暗い水面へ向かう。


 遠い。


 黒い池は、外から見たよりも深かった。


 視界が狭くなる。


 力が抜ける。


 そのとき、胸元の革袋が浮かんだ。


 中にある髪飾り。


 薄青い石が、暗闇の中でわずかに光って見えた。


 マリエルが助けたわけではない。


 ただ魔法の光を反射しただけだ。


 それでも、沈むわけにはいかなかった。


 脚を動かす。


 腕を伸ばす。


 最後の力で水を掻いた。


 指先が水面を破る。


 顔を出す。


「がっ……!」


 空気を吸おうとして、水を飲んだ。


 咳き込む。


 それでも池の縁へ手をかけた。


 身体を引き上げる。


 黒い水を吐きながら、骨の山へ転がった。


 何度も息を吸う。


 胸が痛い。


 喉が焼ける。


 全身が震えていた。


 戦いには勝った。


 それでも、あと少し遅ければ溺れていた。


     ◇


 しばらく動けなかった。


 身体を横たえたまま、呼吸が戻るのを待つ。


 濡れた革鎧が重い。


 右肩と脇腹の傷へ、黒い水が染み込んでいた。


 皮膚の下に冷たい痛みが広がる。


 《呪い耐性》は働いている。


 だが、これまでより侵食が強い。


 俺は下級回復薬を取り出し、半分を飲んだ。


 残りを肩と脇腹へかける。


 傷口から黒い水が押し出される。


 黒い筋は消えない。


 今すぐ命に関わる状態ではないが、これ以上呪いを受けるのは危険だ。


 身体を起こす。


 黒い池を見る。


 水底花嫁が消えたことで、水位が下がり始めていた。


 池の底にあった黒い棺も、崩れている。


 青黒い核の破片だけが残っていた。


 水が腰ほどの深さまで減ったところで、再び池へ入る。


 今度は底まで見える。


 核の破片を拾う。


 《解体》へ意識を向けた。


《呪水晶の破片》


《強い呪いを帯びています》


《素手での長時間接触は危険です》


 油布で何重にも包み、《収納》へ入れる。


 売れるかどうかは分からない。


 だが、呪いを解除する方法を調べる材料になる可能性がある。


 水底花嫁が持っていた力の一部。


 使い方を誤れば危険だが、捨てる理由もない。


 黒い棺の奥に、通路が見えた。


 水が抜けたことで現れたらしい。


 人間が作ったものではない。


 岩を掘った狭い穴が、さらに下へ続いている。


 入口の周囲には、大きな爪痕。


 屍喰い蟲のものより太い。


 俺は討伐記録を確認した。


《共同墓地地下納骨堂討伐記録:7/?》


 七種類。


 まだコンプリートではない。


 この先に、少なくとも一種類いる。


 身体は傷ついている。


 呪いも蓄積している。


 魔力回復薬は残っているが、回復薬には限りがある。


 一度テントで休むべきだ。


 だが、地下の奥から空気が流れている。


 冷たい風ではない。


 生温かい。


 巨大な何かが呼吸するたび、空気が押し出されているようだった。


 息を吐く音。


 吸い込む音。


 ゆっくりと、洞窟全体が震えている。


 水底花嫁すら、この先へ近づく者を捕らえる番人だったのかもしれない。


 俺は濡れた剣を拭い、鞘へ戻した。


「今は休む」


 勝てない状態で進むのは、勇気ではない。


 ただの自殺だ。


 近くの岩陰を調べる。


 入口が一つしかない小さな空洞を見つけた。


 紐と鈴を張り、その奥へ《魔法のテント》を出す。


 中へ入り、濡れた革鎧と服を脱いだ。


 魔法のケトルで湯を作る。


 温かい布を肩へ当てた。


 黒い筋は、右腕の途中まで伸びている。


 《呪い耐性》によって進行は止まりつつある。


 だが、完全には抑えきれていない。


 次の戦いで同じ攻撃を受ければ、腕が動かなくなる可能性もある。


 俺は残っている薬を並べた。


 下級回復薬。


 解毒薬。


 魔力回復薬。


 どれも呪いを解除できない。


 それでも、今できる準備をするしかない。


 温かい食事を作り、身体へ入れる。


 乾いた服へ着替える。


 革鎧を補修する。


 剣を研ぐ。


 そして眠る。


 地下の奥から届く呼吸音は、テントの中にいても消えなかった。


 一定の間隔で、地面がわずかに震える。


 次に待っているものは、これまでの魔物より大きい。


 俺は目を閉じた。


 恐怖はある。


 だが、逃げるつもりはなかった。


 この地下をコンプリートする。


 そして、ヴァルドが一歩進む間に、俺は二歩進む。


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