第27話 追手
老人を連れ、旧市街の裏道を進む。
空は白み始めていた。
あと少しすれば、人々が起き出す。
老人の姿を見られる前に、町の外へ出なければならない。
「もう少し速く歩け」
「これでも急いでいる……」
老人は傷めた足を引きずっていた。
足音を隠そうとしているが、革靴が石畳を擦る音までは消せていない。
《隠密》で抑えられるのは、俺自身の気配だけだ。
老人までは隠せない。
俺は何度も後方を確認した。
人影はない。
《危険察知》も反応していない。
それでも、安心はできなかった。
共同墓地へ向かった処理役。
老人の家を捜索していた二人。
三人とも、朝になっても戻らない。
家宰は、すぐに異変へ気づくだろう。
この老人が証拠を持ち出したと考えれば、町の門を見張らせる可能性もある。
「西門へ行くのか?」
老人が尋ねた。
「門は使わない」
「では、どうやって町の外へ出る」
「お前が知っている」
老人が足を止めかけた。
「旧市街の排水路だ」
共同墓地から脱出したものとは別に、旧市街の外へ続く古い水路が地図へ記されていた。
今は使われていない。
入口が塞がれている可能性はあるが、門を通るよりは安全だ。
「場所は分かるか」
「分かる。だが、あそこは崩れている」
「人が通れる隙間は?」
「一人ずつなら、何とか」
「案内しろ」
老人は頷き、進む方向を変えた。
◇
旧市街の端に、石造りの水路があった。
入口は雑草と崩れた板で塞がれている。
老人の言葉どおり、人が使っている様子はない。
板を外す。
奥には、腰を屈めて進めるほどの空間が残っていた。
浅い水が流れている。
「先へ行け」
「私を前にするのか」
「道を知っているのはお前だ」
老人が水路へ入る。
俺もあとに続いた。
入口の板を元へ戻す。
完全には隠せないが、外から見ただけでは人が入ったとは分からない。
狭い水路を進む。
足元の水が小さな音を立てる。
老人が何度も壁へ手をついた。
体力が限界に近い。
「外までどれくらいだ」
「四半刻ほどだ。途中で二つに分かれるが、右へ行けば城壁の外へ出る」
「左は?」
「古い貯水槽だ。行き止まりになっている」
逃げる場所としては使えるかもしれない。
だが、追い込まれれば出口がなくなる。
右へ進むしかない。
しばらく歩いたところで、《危険察知》が反応した。
背後。
俺は足を止める。
「どうした」
「黙れ」
水の流れる音へ意識を集中する。
別の音が混じっている。
水を踏む足音。
一人ではない。
俺たちを追っている。
「気づかれたのか」
老人の声が震えた。
「走れ」
「この足では――」
「走れなければ、ここで死ぬ」
老人が歯を食いしばり、歩みを速めた。
俺は背後を見ながら進む。
暗い水路の奥に、小さな明かりが見えた。
追手は灯りを隠していない。
こちらの居場所を把握しているのか。
それとも、逃げ道が一つしかないと知っているのか。
「止まれ!」
男の声が水路へ響いた。
「墓地の管理人を渡せ。お前には関係のない話だ!」
俺は答えなかった。
「聞こえないのか!」
今度は、別の男の声。
少なくとも二人。
足音はさらに多い。
老人が前方を指した。
「分かれ道だ」
右へ進めば町の外。
左は行き止まりの貯水槽。
追手との距離は縮まっている。
このまま右へ行けば、狭い水路で背後から攻撃される。
老人を守りながらでは逃げ切れない。
「左へ行け」
「行き止まりだぞ」
「分かっている」
老人を左の水路へ押し込む。
「奥で伏せていろ。声を出すな」
「お前はどうする」
「ここで止める」
◇
俺は分かれ道の中央へ立った。
水路の幅は、二人が並ぶには狭い。
一度に戦う相手を減らせる。
鋼鉄の剣を抜く。
「《氷膜》」
白い霜が刃を覆った。
追手の明かりが近づく。
最初に姿を現したのは、短剣を持った男だった。
その後ろに剣士が二人。
さらに、弓ではなく小型の弩を持った男がいる。
全部で五人。
最後尾には、革鎧の上から暗い外套を着た男が立っていた。
ほかの四人より装備がいい。
指揮役だろう。
「一人か」
先頭の男が笑った。
「管理人を渡せ。見逃してやる」
「昨日、同じことを言った男たちは死んだ」
男の笑みが消える。
指揮役が一歩前へ出た。
「やはり、お前か」
「何がだ」
「墓地の処理役と、管理人の家へ向かった二人。全員、お前が殺した」
「だったらどうする」
「ここで死んでもらう」
指揮役が片手を上げた。
弩を持った男が構える。
狭い水路。
左右へ避ける場所はない。
俺は左手を足元へ向けた。
生活魔法で水を広げる。
「撃て!」
弦が鳴った。
矢が胸へ飛んでくる。
俺は剣の腹で受けた。
硬い衝撃。
矢が弾かれ、石壁へ当たる。
直後、先頭の男が走り込んできた。
「《冷気》」
足元の水が凍る。
男の革靴が氷を踏んだ。
足が滑る。
男の身体がこちらへ倒れ込んできた。
俺は半歩横へずれた。
首へ氷の剣を振り下ろす。
血が水路の壁へ飛んだ。
一人目。
後ろの剣士が、倒れた仲間を踏み越えてくる。
氷があることに気づき、歩幅を小さくしていた。
同じ方法は通じない。
剣が上から振り下ろされる。
鋼鉄の剣で受ける。
刃同士がぶつかった。
押し返す。
力では、俺が上だった。
男の剣が外へ流れる。
空いた胸へ剣を突き出した。
男は身体を捻った。
刃が革鎧を裂く。
深くは入らない。
その背後から、三人目が剣を突き出してきた。
仲間ごと貫くつもりか。
俺は目の前の男の肩を掴み、盾にした。
後ろから伸びた剣が、男の背中へ刺さる。
「何を――!」
驚いた男の身体を押し出す。
二人がもつれた。
横を抜け、三人目の喉へ剣を振る。
刃が皮膚を切り裂いた。
二人目は、背中を刺されたまま倒れる。
まだ息はある。
だが、すぐには動けない。
二人倒した。
残り三人。
弩の男が、二本目の矢を装填している。
指揮役が腰の剣を抜いた。
「前へ出ろ!」
残っていた一人が、盾を構えて進んでくる。
小さな円盾。
背後の弩を守るつもりだ。
盾の男が氷を避け、壁へ身体を寄せながら近づく。
俺は前へ出た。
相手の盾が胸へ突き出される。
剣で受ければ、弩に狙われる。
俺は自分から盾へ肩をぶつけた。
《耐久の革鎧》が衝撃を受け止める。
盾の男が押し返そうとする。
その足元へ、氷塊を放った。
「《氷塊》」
拳ほどの氷が右足首へ当たる。
男の体勢が崩れた。
円盾が下がる。
剣を腹へ突き刺す。
革鎧の隙間を貫いた。
男の手から盾が落ちる。
その瞬間、弩が鳴った。
避けきれない。
矢が右脇腹へ当たった。
《耐久の革鎧》を突き破り、先端が身体へ入る。
「ぐっ……!」
熱い痛み。
呼吸が止まる。
剣を握る手が一瞬緩んだ。
指揮役が、その隙を逃さなかった。
倒れた部下を飛び越え、一気に距離を詰める。
横薙ぎの剣。
俺は後退した。
刃が胸の革鎧を切り裂く。
浅い。
だが、続けて二撃目が来る。
速い。
外套の男より、さらに正面戦闘に慣れている。
剣を受ける。
押し込まれた。
脇腹へ刺さった矢が動き、痛みが強くなる。
「その程度で、三人を殺したのか」
指揮役が力を込める。
「運がよかっただけらしいな」
俺は答えず、剣を押し返そうとした。
だが、足元の氷で踏ん張れない。
指揮役は氷のない場所に立っている。
戦う位置を選ばれた。
背後では、弩の男が次の矢を用意している。
ここで距離を取れば撃たれる。
前の男だけを見ていれば、老人が狙われる。
指揮役の剣が、少しずつ俺の首へ近づく。
「管理人はどこだ」
「教えると思うか」
「なら、お前を殺して捜す」
俺は左手を開いた。
男の顔ではない。
互いに押し合っている剣へ向ける。
「《冷気》」
氷膜をまとった俺の剣から、白い霜が相手の刃へ広がる。
指揮役の手元まで冷気が走った。
男の指が硬直する。
力が弱まった。
俺は剣を横へ払い、相手の刃を弾く。
そのまま踏み込んだ。
指揮役はすぐに後退する。
致命傷は避けられた。
俺の剣が、外套と左肩を切る。
「氷魔法か……!」
指揮役の顔に、初めて警戒が浮かんだ。
背後で弩の弦が鳴る。
《危険察知》が反応する。
俺は指揮役の外套を掴み、自分の前へ引いた。
矢が男の背中へ突き刺さる。
「がっ!」
弩の男が息を呑む。
「隊長!」
俺は指揮役を横へ投げた。
弩の男までの間に、倒れた男たちがいる。
足場が悪い。
それでも走る。
弩の男は次の矢を装填できない。
腰の短剣を抜いた。
俺が近づくより先に、男は背を向けた。
逃げる。
「待て!」
追おうとした瞬間、右脇腹へ激痛が走った。
足が止まる。
老人を一人で残している。
指揮役も、まだ死んでいない。
弩の男を追えば、老人が殺される可能性がある。
男は水を跳ね上げながら、暗い通路の奥へ消えた。
逃がした。
◇
指揮役は、背中に矢を受けながらも生きていた。
俺が近づくと、血のついた剣を持ち上げようとする。
その手を踏む。
「家宰の命令か」
指揮役は俺を睨んだ。
「誰がお前などに……」
剣を喉へ当てる。
「逃げた男が報告する。黙っても意味はない」
「なら、聞く必要もないだろう」
「家宰は、老人が何を知っていると思っている」
指揮役は笑った。
口から血が流れる。
「七年前の亡霊が、今さら何をしようと無駄だ」
「亡霊?」
「証拠を集めている者がいる。家宰はそう言っていた」
俺の正体までは知られていない。
だが、七年前の事件を調べる人間がいることには気づかれた。
「家宰は、次に何をする」
「自分で確かめろ」
男が口を強く閉じた。
何かを噛んだ。
嫌な予感がした。
顎を掴もうとする。
間に合わない。
男の口から、黒い血が流れた。
毒。
捕まったときのために、歯の中へ仕込んでいたのか。
身体が痙攣する。
数秒後には、動かなくなった。
俺は舌打ちし、立ち上がった。
生き残った剣士も、背中を深く刺されてすでに息をしていない。
五人のうち四人を倒した。
一人を逃がした。
人間を殺しても、祝福は得られない。
ガチャ券も増えない。
残るのは、脇腹の傷だけだ。
右脇腹へ刺さった矢を見る。
深くはない。
だが、この場で抜けば出血が増える。
老人を安全な場所へ移すまで耐える。
「出てこい」
左の通路へ声をかけた。
しばらくして、老人が姿を現す。
四人の死体を見て、足を止めた。
「一人、逃げたのか」
「ああ」
「では、家宰に知られる」
「いずれ知られることだった」
俺は倒れた追手の身体を調べた。
クロイツ家を示す品はない。
指揮役の懐から、折り畳まれた小さな地図が出てきた。
共同墓地。
老人の家。
俺とマリエルの店。
三か所に印が付けられている。
奴らは、店まで調べるつもりだった。
移動した判断は正しかった。
「行くぞ」
「傷は大丈夫なのか」
「大丈夫でなくても歩く」
追手の死体を《収納》へ入れる余裕はない。
水路の奥へ寄せ、古い板や石で隠す。
見つかるまで、少しは時間を稼げる。
俺たちは右の通路へ入った。
◇
城壁の外へ出たときには、朝日が昇っていた。
水路の出口は、雑木林の中に隠れている。
町の門からは見えない。
さらに森の奥へ進む。
老人の歩みは遅い。
俺の脇腹からも、少しずつ血が流れている。
それでも、止まらなかった。
岩に囲まれた窪地を見つける。
周囲から見えにくく、人や獣の新しい足跡もない。
細い紐と鈴を周囲へ張る。
その奥へ《魔法のテント》を出した。
「中へ入れ」
老人が目を見開く。
「これは……」
「質問するな」
老人をテントへ入れる。
俺も続き、すぐに入口を閉じた。
魔石を補充する。
《魔法のテントへ魔石を補充しました》
《障壁出力が回復しました》
結界は弱い魔物を防ぐ。
人間は止められない。
だが、森の中で偶然見つかる危険は減らせる。
俺は革鎧を脱ぎ、脇腹の矢を確認した。
先端が浅く刺さっている。
折らずに引き抜く。
血が流れた。
生活魔法の水で傷を洗い、下級回復薬を飲む。
熱が傷へ集まる。
出血が弱まり、痛みも少しだけ引いた。
老人が黙ってこちらを見ている。
「俺を連れているせいで、追われている」
「違う」
包帯を脇腹へ巻く。
「追われているのは、お前が証人だからだ」
「同じことだ」
「なら、生き延びろ」
老人は俯いた。
「次も、あのような追手が来る」
「来るだろうな」
「どうするつもりだ」
俺は血のついた手袋を洗った。
「先に動く」
「家宰を殺すのか」
「今の俺では、クロイツ家の屋敷へ正面から入れない」
隠密があっても、屋敷には多数の兵士がいる。
ヴァルド本人が戻れば、逃げることすら難しい。
焦って家宰を狙えば、集めた証拠も老人の命も失う。
「もっと強くなる」
新しいダンジョンへ潜る。
ガチャ券を集める。
氷魔法を育てる。
今度は、ヴァルドの成長を上回る速さで。
「それまで、お前はここで待て」
「一人でか?」
「食料と水は置いていく。周囲には鈴も張った」
「人が来たらどうする」
俺はガチャで得た投げナイフを一本、老人へ渡した。
「戦おうとするな。俺が戻るまで隠れていろ」
「戻らなかったら?」
答えず、剣を手に取った。
戻らなければ、俺は死んでいる。
そのとき老人がどうなるかまで、保証はできない。
◇
同じ頃。
ローデンの町にあるクロイツ家の屋敷へ、一人の男が駆け込んだ。
濡れた服。
荒い呼吸。
水路で逃げた弩の男だった。
広い執務室で、年老いた家宰が報告を聞いている。
「五人で向かい、お前だけが戻ったのか」
「申し訳ありません」
「管理人は?」
「包帯を巻いた男に守られていました」
家宰の指が止まる。
「包帯?」
「顔の半分に火傷があります。剣を使い、氷魔法も……」
「名前は」
「分かりません。ただ、あの古い店から管理人を連れ出した形跡がありました」
家宰はしばらく黙っていた。
机の上には、七年前の事件記録が置かれている。
妻を殺した男。
独房へ送られ、脱獄後に森で死んだと報告された罪人。
「あり得ない」
家宰は小さく呟いた。
それでも、その手は七年前の記録へ伸びる。
「顔を焼いた男……」
紙の上に記された名前を、家宰は指先でなぞった。
「本当に死んだのか、もう一度確かめろ」
復讐者の存在が、初めてヴァルドの足元へ届き始めていた。




