第2話 捨てた顔
俺は男の亡骸を藪の奥へ運び、枝と枯れ葉をかぶせた。
完全に隠す必要はない。
見張りが戻らないと仲間が気づくまで、少しでも時間を稼げればいい。
奪った短剣を握り、焚き火へ近づく。
炎は小さくなっていた。
残る四人は、酒に酔って眠っている。
一人の男が、獣の唸り声のようないびきをかいていた。
俺はその音に足音を重ね、眠る男たちの武器を集めた。
短剣。
剣。
手斧。
弓。
すべてを手の届かない藪へ投げ込む。
これで、目を覚ましてもすぐには反撃できない。
最も静かに眠る男のそばへ膝をついた。
左手で口を塞ぎ、短剣を喉へ走らせる。
「――っ」
身体が跳ねた。
声になる前に、流れ出した血が喉を塞ぐ。
男の指が俺の腕をつかんだが、その力はすぐに失われた。
俺は動かなくなるまで口を押さえ続けた。
次の男は、目を覚ますことすらなかった。
口を塞ぎ、短剣を深く突き入れる。
あと二人。
三人目へ刃を振り下ろした瞬間、男の足が酒瓶へ当たった。
乾いた音が、夜の森へ響く。
「……何だ?」
最後の一人が目を開けた。
眠気の残る顔で周囲を見回し、倒れた仲間に気づく。
「お、おい……?」
反射的に腰へ手を伸ばす。
だが、そこに武器はない。
枕元を見る。
仲間のそばを見る。
武器を探している。
俺は倒れた男から短剣を引き抜き、最後の一人へ突きつけた。
「動くな」
男の身体が固まる。
血に濡れた刃。
動かない仲間たち。
そして、逃げ道を塞ぐ俺。
男の顔から眠気が消えた。
「だ、誰だ、お前……」
「質問するのは俺だ」
一歩、距離を詰める。
男は後ずさったが、すぐに太い木へ背中をぶつけた。
「食料、金、傷薬、身分証。お前たちが奪ったものはどこだ」
「ば、馬車だ」
男が震える指で、焚き火の向こうを示した。
「全部、馬車に積んである」
「本当に全部か?」
「あ、ああ」
俺は短剣の先を、男の喉へ押し当てた。
皮膚が薄く切れ、血が流れる。
「次に嘘をつけば、両目をえぐる」
「待ってくれ!」
男の顔色が変わった。
「少しだけ、別の場所にもある!」
「案内しろ」
「案内する。だから、殺さないでくれ」
「命令に従えば殺さない」
男は何度も頷いた。
俺は背後から刃を向けたまま、森の奥へ歩かせる。
しばらく進むと、岩の隙間に小さな洞穴が見えた。
「ここだ」
男が入口を指さした。
「奥に箱がある。金も宝石も、全部そこだ」
「ほかには?」
「ない。本当だ。もう何も隠していない」
洞穴の奥には、小さな木箱が置かれていた。
「これで助けてくれるんだよな?」
男が振り返ろうとする。
俺は背後から、その首へ刃を突き立てた。
「――ッ!」
男の身体が硬直する。
振り返るより早く、刃を深く押し込んだ。
両膝が崩れ、地面へ倒れる。
「命令に……従えば、殺さないって……」
「ああ」
俺は男の耳元で答えた。
「だが、約束を守るとは言っていない」
刃を引き抜く。
男は一度だけ身体を震わせ、それきり動かなくなった。
生かしておけば、俺の姿を看守へ伝える。
自分の命を危険にさらしてまで、山賊との約束を守る理由はなかった。
◇
洞穴の木箱には、数枚の金貨と銀の髪飾り、金細工の皿が入っていた。
どれも売れば、それなりの金になるだろう。
だが、髪飾りと皿には手をつけなかった。
近隣で奪われた品なら、売った瞬間に足がつく。
必要なのは、目立たず生きるためのものだけだ。
金貨だけを持ち、野営地へ戻る。
馬車の荷台には、食料や酒、衣服が乱雑に積まれていた。
硬いパン。
干し肉。
水の入った革袋。
傷薬と包帯もある。
荷物の底からは、何枚かの身分証が見つかった。
街道を通った旅人から奪ったのだろう。
一枚ずつ確認する。
年齢。
体格。
出身地。
その中に、今の俺でも使えそうなものが一枚だけあった。
俺は身分証に記された名前を、何度も頭の中で繰り返した。
これからは、この男として生きる。
だが、服と名前を変えただけでは足りない。
俺を知る者が顔を見れば、すぐに気づくだろう。
身分証を懐へ入れる。
馬車には、まだ調べていない荷物が残っていた。
だが、いつ追手が戻ってくるか分からない。
使えそうな小箱を一つ、確かめずに布袋へ入れた。
それから、硬いパンを手に取る。
一口かじった。
噛むたびに顎が痛む。
それでも止められなかった。
干し肉を引き裂き、口へ押し込む。
革袋を持ち上げ、水を喉へ流し込んだ。
冷たい水が、乾ききった身体の奥へ落ちていく。
むせても、また飲んだ。
パンには麦の味があった。
肉には塩気があった。
水には冷たさがあった。
そんな当たり前のことさえ、忘れていた。
独房で与えられていたものは、食事とは呼べない。
死なせないために与えられる、味のない塊だった。
腹が満ちても、手を止められなかった。
身体が、もっと食べろと訴えている。
気づけば、胃が痛むほど詰め込んでいた。
俺は馬車へ背を預け、ゆっくりと息を吐く。
生きている。
七年ぶりに、身体がそれを思い出していた。
◇
空が白み始める前に、野営地を離れた。
血で汚れていない服。
革の鎧。
金貨。
食料。
傷薬と包帯。
身分証。
そして、中身を確認していない小箱。
必要なものだけを布袋へ詰めている。
森を進んでいると、水の流れる音が聞こえた。
音をたどり、細い川へ出る。
周囲に人の気配がないことを確認してから、冷たい水へ入った。
身体についた泥と血を洗い流す。
爪の間へ入り込んだ血は、何度こすっても簡単には消えなかった。
髪を洗う。
囚人服を脱ぎ捨て、山賊から奪った服へ着替える。
その上から革の鎧を身につけた。
水面に映る姿は、もう囚人には見えない。
だが、顔だけは変わらない。
看守だけではない。
俺を独房へ閉じ込めた者たちも、必ず追ってくる。
俺は川辺へ枯れ枝を集め、火を起こした。
炎が十分に大きくなるまで待つ。
一本の枝を取り、その先へ火を移した。
燃え上がる炎を、ゆっくりと顔へ近づける。
熱が頬へ届いた。
身体が、わずかに後ろへ逃げようとする。
その瞬間。
鉄格子の向こうで笑う、あいつの顔が蘇った。
◇
『まだ、妻のことを考えているのか?』
あいつは独房の前に立ち、楽しそうに俺を見下ろしていた。
『……お前が殺した』
『そうだ』
否定すらしなかった。
それどころか、口元を歪めて笑った。
『だが、お前は何も知らないらしい』
『何を言っている』
『あの女は、お前の子を身籠っていた』
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
妻から、そんな話は聞いていない。
『……嘘だ』
『お前に伝えるつもりだったらしいぞ』
俺は鉄格子へ飛びついた。
両手首につながれた鎖が、激しく鳴る。
『嘘をつくな!』
『残念だったな』
あいつは俺の顔を覗き込み、笑った。
『女を殺したとき、腹の子も一緒に死んだ』
鉄格子を握る指から血が流れた。
それでも力を緩められなかった。
妻だけではなかった。
顔を見ることも。
抱き上げることも。
名前を呼ぶこともできなかった子供まで、あいつに殺されていた。
俺はあの日、誓った。
必ず生きてここを出る。
そして、あいつを殺す。
◇
燃える枝を握る手が震えていた。
妻を奪われた。
子供を奪われた。
名前も、人生も、七年の時間も奪われた。
ならば、この顔だけは、自分の意思で捨てる。
俺は奥歯を噛みしめた。
燃え盛る枝を、自分の頬へ押し当てる。
「――ッ!」
肉の焼ける臭い。
視界が白く染まった。
意識が遠のきかける。
それでも、すぐには枝を離さなかった。
この程度の痛みで、立ち止まるわけにはいかない。
限界まで耐えてから、枝を川へ投げ捨てる。
水の中へ膝をつき、冷たい水を首筋と頭へ浴びた。
息ができない。
吐き気がする。
身体中から汗が噴き出していた。
それでも意識だけは手放さない。
呼吸が少し落ち着いてから、傷薬を取り出した。
震える指で薬を塗り、顔へ包帯を巻く。
傷を守るため。
そして、残った顔を隠すために。
水面へ顔を映した。
そこにいたのは、俺の知らない男だった。
片側の顔は焼けただれ、大半を包帯で覆っている。
これなら、以前の俺を知る者とすれ違っても、すぐには気づかれない。
俺は懐から身分証を取り出した。
そこに記された名前を、もう一度見つめる。
かつての俺は、妻と子供とともに死んだ。
これからは、この男として生きる。
真犯人を見つけ、復讐を果たすその日まで。
俺は身分証を懐へ戻し、水面から目を離した。
これまでの顔は、ここで捨てる。




