第1話 脱獄
森の中を、俺は走っていた。
背後から響く、馬の蹄。
枝を踏み折る音。
そして、追手たちの罵声。
「逃がすな!」
「斜面へ回り込め!」
俺は刑務所から脱走し、騎馬の看守たちに追われていた。
捕まれば、あの独房へ逆戻りだ。
日の差さない石の部屋。
鞭。
焼けた鉄。
骨を砕かれる痛み。
どれも二度と味わいたくはない。
だが、俺が本当に恐れているのは、拷問ではなかった。
何もできないまま、失われていく時間だ。
一日。
一か月。
一年。
命が残っていても、時間を奪われ続けるなら、死んでいるのと変わらない。
俺には、やらなければならないことがある。
一日でも早く。
一秒でも早く。
あいつを殺さなければならない。
そのためだけに、七年間を生き延びてきた。
「いたぞ! そっちだ!」
追手の声が近づく。
俺は太い幹の間を縫い、低い枝をくぐった。
馬では入り込めないほど木々が密集した斜面を駆け上がる。
だが、長い独房暮らしで衰えた身体は、思うように動いてくれない。
肺が焼けるように痛む。
脚が重い。
蹄の音は、まだ離れなかった。
前方に大きな岩が見えた。
俺はその陰へ滑り込み、地面を掻く。
湿った腐葉土。
その下に、獣の糞が混じった泥があった。
鼻が曲がりそうな臭いだ。
それでも迷わず顔へ塗りつけた。
首に。
腕に。
囚人服にも、髪にも。
自分の匂いを土と獣の臭いで塗り潰す。
泥の色で肌と服を森へ紛れ込ませ、岩へ身体を押しつけた。
息を浅くする。
瞬きすら止める。
今だけは、俺は人間ではない。
森の一部だ。
蹄の音が迫ってきた。
馬の脚が、岩のすぐそばを通り過ぎる。
「どこへ行った!」
「まだ遠くへは逃げていない! 捜せ!」
跳ねた泥が頬へ当たった。
それでも動かない。
息を殺し、声が遠ざかるのを待つ。
やがて蹄の音が聞こえなくなった。
だが、すぐには動かなかった。
追手が完全に離れたとは限らない。
さらにしばらく待ってから、俺は岩陰を抜け出した。
泥は落とさない。
木の根や岩の上を選び、足跡を残さないよう森の奥へ進む。
目指すのは高台だ。
追手の位置。
森の地形。
逃げ道。
まずは、すべてを把握しなければならない。
しばらく斜面を登り、木々の切れ間へ辿り着いた。
遠くに古びた農村が見える。
低い柵。
傾いた屋根。
細い煙を上げる家々。
だが、俺が探しているのは村ではない。
村へ続く街道。
そして、その街道を襲っている山賊だ。
俺は枝の太い木を選び、幹を登った。
葉の陰へ身体を隠し、村と街道を見下ろす。
日が沈むまで、そこから動かなかった。
◇
空が赤く染まり、やがて森が闇に沈んだ。
人間は夜になれば火を焚く。
寒さをしのぐため。
獣を遠ざけるため。
食事を作るため。
そして何より、暗闇を恐れるために。
村の明かりとは別に、森の奥で火が上がれば、それが山賊の居場所だ。
冷たい風が、泥に濡れた囚人服を通り抜ける。
空腹で腹が痛む。
それでも待ち続けた。
やがて、村から離れた森の奥に、小さな赤い光が灯った。
木々の隙間で、焚き火が揺れている。
村人のものではない。
街道からも外れていた。
ようやく見つけた。
俺は頭上を見上げる。
雲一つない夜空に、満月が浮かんでいた。
予定どおりだ。
刑務所の近くに山賊が現れること。
追手から姿を隠せるほど森が深いこと。
明かりがなくても歩ける満月の夜が訪れること。
すべて、独房の中で調べていた。
小さな窓から月の満ち欠けを数え、看守たちの会話へ耳を澄ませた。
何年もかけて情報を集めた。
逃げるなら、今夜しかなかった。
俺は木から下り、森の奥で揺れる火へ向かった。
焦ってはいけない。
ここで失敗すれば、すべてが終わる。
再び独房へ戻され、今度こそ二度と外には出られない。
今から、俺は人を殺す。
山賊だからではない。
悪人だからでもない。
俺が生きるために殺す。
今夜、俺は初めて、本物の殺人者になる。
◇
焚き火の匂い。
焼いた肉の脂。
酒に酔った男たちの笑い声。
俺は太い木の陰から、山賊たちの様子をうかがった。
見えるのは五人。
一人が森を見張り、残る四人は焚き火を囲んでいる。
全員が酒を飲んでいた。
だが、見える人数だけで判断してはいけない。
暗闇に仲間が隠れているかもしれない。
近くに別の野営地があるかもしれない。
俺は動かず、男たちを観察した。
やがて、見張りが焚き火へ向かって声を上げる。
「そろそろ代われ!」
「もうそんな時間かよ」
焚き火のそばにいた男が、酒を飲み干して立ち上がった。
ふらつく足取りで見張りへ向かう。
防具はつけていない。
腰には短剣が一本だけ。
離れていても、酒の臭いが分かった。
俺が最初に殺す相手が決まった。
だが、まだ動かない。
先ほどまで見張りに立っていた男が、焚き火へ戻っていく。
仲間と少し話し、毛布の上へ横になった。
俺は呼吸が深くなるまで待った。
急ぐな。
わずかな時間を惜しみ、すべてを失う方が愚かだ。
待つことも、復讐のために必要な時間だった。
男たちの話し声が消える。
聞こえるのは、薪が爆ぜる音だけになった。
俺は木の陰から身体を出した。
一歩。
もう一歩。
見張りは気づかない。
あと三歩。
二歩。
一歩。
俺は一気に地面を蹴った。
背後から男の首へ腕を回し、その身体を後ろへ引き倒す。
「――っ!?」
男の身体が跳ねた。
こいつの利き腕は右だ。
見張りに立っているあいだ、何度も右手で短剣の柄へ触れていた。
俺は右腕を押さえ込み、首へ回した腕に力を込める。
男の両脚が地面を蹴った。
爪が俺の腕へ食い込む。
右手が腰の短剣を探して動いた。
抜かせるな。
声を出させるな。
ここで仕留められなければ、すべてが終わる。
俺は歯を食いしばり、さらに腕へ力を込めた。
独房の中で、失わないよう鍛え続けてきた力。
脱獄してから温存してきた力。
そのすべてを注ぎ込む。
やがて、男の抵抗が弱くなった。
膝が折れる。
それでも腕を緩めない。
完全に力が抜けてから、俺は男を地面へ横たえた。
首筋へ指を当てる。
まだ脈がある。
気を失っているだけだ。
俺は男の腰から短剣を抜いた。
肋骨の下へ刃先を当てる。
手が止まった。
ほんの一瞬だけ。
ここを越えれば、もう戻れない。
だが、俺に戻る場所などなかった。
短剣を深く突き入れる。
男の身体が一度だけ大きく震えた。
それきり、動かなくなる。
刃を引き抜く。
血が指先まで流れ落ちてきた。
これが、人を殺した感触か。
想像していたほど、特別なものではなかった。
恐怖もない。
喜びもない。
ただ、ひとつの命が消えた。
それだけだった。
俺は七年間、殺人者として独房に閉じ込められていた。
そして今夜。
初めて本当に、人を殺した。




