第19話 縮まらない距離
地面を割って、黒い蠍たちが這い出してきた。
大型犬ほどの身体。
表面を覆う黒い甲殻は、周囲の岩よりも鈍い光を返している。
左右には、人間の腕ほどもある鋏。
背中から伸びる太い尾の先には、細長い毒針があった。
一体。
三体。
六体。
地面から出てくる個体は、まだ増えていく。
最後の一体が姿を現す。
「十二体か」
黒鉱蠍たちは、テントを囲むように広がった。
一体が鋏を開き、こちらへ近づく。
黒い脚が結界へ触れた瞬間、淡い光が弾けた。
黒鉱蠍の身体が押し戻される。
別の一体が尾を振り下ろす。
毒針がテントへ届く直前、光の膜に弾かれた。
弱い魔物では、この結界を越えられない。
ここにいる限り、すぐに殺されることはない。
だが、黒鉱蠍が結界へ攻撃するたび、魔石の力が消費されている。
十二体すべてが攻撃を続ければ、どれだけ保つか分からない。
何より、最後の一種類が目の前にいる。
俺は革鎧を身につけ、解毒薬をすぐ取り出せる場所へ移した。
鋼鉄の剣を握る。
「《氷膜》」
白い霜が刃を覆う。
昨夜の戦いで消耗した魔力は、眠っている間にある程度戻っていた。
全快とは言えない。
だが、十二体と戦えるだけの力はある。
黒鉱蠍の売却部位を思い出す。
毒針。
毒腺。
鋏。
甲殻。
背中は硬い。
狙うなら、脚の関節か腹部。
一体の黒鉱蠍が、再び結界へ近づいた。
大きな鋏を振り上げる。
光の膜が現れ、身体を弾いた。
黒鉱蠍が仰向けになった。
今だ。
俺はテントを出た。
地面へ転がった個体の腹部へ、氷をまとった剣を突き刺す。
柔らかい肉を貫く感触。
黒鉱蠍が脚を激しく動かした。
尾がこちらへ曲がる。
毒針が顔へ迫る前に、剣を横へ動かして腹部を切り裂いた。
黒鉱蠍の身体から力が抜ける。
胸の奥へ、神の祝福が流れ込んだ。
《黒鉱蠍を初めて討伐しました》
《ガチャ券を一枚獲得しました》
《所持ガチャ券:三枚》
《ローデン地下迷宮討伐記録:7/7》
《魔物種コンプリートを確認しました》
《コンプリートボーナスを付与します》
身体の内側へ、温かな力が入り込んだ。
だが、その正体を確かめる暇はなかった。
続けて表示された文字へ、俺の目が止まる。
《復讐達成率を再算定しました》
《復讐対象の戦力上昇を確認しました》
《復讐達成率:8%》
「……下がった?」
九パーセントだった。
俺はレベルを上げた。
氷魔法も手に入れた。
新しい革鎧を得て、ローデン地下迷宮までコンプリートした。
それなのに、復讐達成率は一パーセント下がっている。
背後で、《危険察知》が強く反応した。
考えるより先に身体を沈める。
黒い毒針が、頭上を通り過ぎた。
あと少し反応が遅ければ、首を貫かれていた。
俺は振り返りながら剣を振った。
刃が黒鉱蠍の前脚へ当たる。
甲殻に弾かれた。
黒鉱蠍が左の鋏で剣を挟む。
引き抜こうとするが、強い力で固定されている。
もう片方の鋏が腹へ迫った。
俺は剣を手放した。
身体を後ろへ引き、鋏を避ける。
黒鉱蠍が剣を挟んだまま、尾を持ち上げた。
俺は左手を向ける。
「《氷塊》」
拳ほどの氷が飛び、黒鉱蠍の目へ当たった。
硬い甲殻を砕くほどの威力はない。
それでも黒鉱蠍の頭が揺れ、鋏の力が緩んだ。
剣を奪い返す。
脚の関節へ刃を入れた。
一本。
二本。
身体が傾いたところで、横から蹴る。
黒鉱蠍がひっくり返った。
腹部へ剣を突き下ろす。
二体目。
残り十体が、一斉に近づいてくる。
考えるのはあとだ。
まず、生き残る。
俺はテントの結界を背にした。
正面から三体。
左右から二体ずつ。
残りは後方で尾を上げ、毒針を向けている。
前に出れば囲まれる。
結界へ近づきすぎれば、テントを攻撃され続ける。
俺は剣を構え、最初の一体を待った。
黒鉱蠍が鋏を開く。
右の鋏が、剣を掴もうと伸びてきた。
刃を引き、鋏の外側へ回る。
その瞬間、尾が頭上から振り下ろされた。
横へ避ける。
毒針が岩の床へ突き刺さった。
尾はすぐには抜けない。
根元へ剣を振る。
刃が甲殻の隙間へ入り、尾を切断した。
黒鉱蠍が暴れる。
毒針を失っても、鋏は残っている。
俺は前脚を斬り、身体を崩した。
首と胴の境目へ剣を押し込む。
三体目。
右から二体が迫る。
一体目の鋏を剣で受け流す。
もう一体が、低い位置から脚を狙ってきた。
避けきれない。
鋏が右足首を挟んだ。
革靴が軋む。
そのまま引かれ、身体が地面へ倒れた。
頭上で尾が動く。
毒針が胸へ向けられた。
俺は左手を床へ置いた。
「《冷気》」
黒鉱蠍の脚と、周囲の岩へ霜が広がる。
動きが止まるほどではない。
だが、鋏の力が一瞬だけ弱まった。
足を引き抜く。
横へ転がった直後、毒針が地面へ突き刺さった。
俺は起き上がり、尾へ剣を振る。
外した。
黒鉱蠍が尾を引き戻し、再び振り上げる。
もう一体の鋏が、横から腰へ迫る。
前へ踏み込んだ。
二体の間へ入る。
黒鉱蠍たちは、近づきすぎた俺を鋏で挟もうとした。
俺は身体を沈める。
左右から伸びた鋏が、互いの甲殻へ衝突した。
硬い音が響く。
動きの止まった一体の脚を斬る。
腹部へ剣を突き入れた。
四体目。
もう一体が尾を振り下ろす。
倒した黒鉱蠍の身体を盾にした。
毒針が死骸の甲殻へ当たり、先端が滑る。
俺は死骸を押し出し、生きている個体へぶつけた。
体勢が崩れる。
前脚の関節を斬り、横へ回る。
剣を腹部の下へ滑り込ませた。
五体目。
息が荒くなってきた。
黒鉱蠍の攻撃は、これまでの魔物より複雑だ。
鋏で動きを止める。
毒針で仕留める。
一体だけでも、二種類の攻撃を同時に警戒しなければならない。
残り七体。
そのうち三体が、結界へ回り込もうとしていた。
テントを囲み、逃げ場をなくすつもりか。
俺は結界の内側へ一度戻った。
追ってきた黒鉱蠍が、光の膜へ弾かれる。
一体が横倒しになる。
すぐに外へ出て、脚の付け根へ剣を突き刺す。
身体を裏返し、腹部を斬った。
六体目。
だが、別の一体は結界へ触れる直前で止まった。
前の個体が弾かれたことを見ていた。
鋏を動かしながら、結界の外を左右へ歩いている。
同じ方法は通じない。
黒鉱蠍たちが、半円を作るように並んだ。
鋏を前へ。
尾を高く。
俺が結界から出る瞬間を待っている。
このまま内側にいれば、攻撃は届かない。
だが、時間をかければ別の魔物が来るかもしれない。
結界の維持にも魔石を使う。
俺は剣へ魔力を流した。
「《氷膜》」
砕けていた氷が、再び刃を覆う。
白い冷気が流れ落ちた。
結界の外へ一歩出る。
三本の毒針が、同時に振り下ろされた。
俺はすぐに後退した。
毒針は結界へ弾かれる。
尾が大きく跳ね返った。
俺は再び外へ出る。
一番近い黒鉱蠍の尾の根元へ、剣を叩き込んだ。
氷をまとった刃が甲殻の隙間へ入る。
尾が落ちる。
黒鉱蠍が鋏を振る。
左の鋏を避けた。
右の鋏が、剣を持つ腕へ迫る。
革鎧の腕部分へ挟まれた。
強い力で締めつけられる。
手が痺れた。
剣を落とせば、次は毒針だ。
俺は黒鉱蠍の身体へ近づいた。
距離を取ろうとするから引かれる。
逆に、鋏の根元へ肩をぶつける。
左手を黒鉱蠍の頭へ向けた。
「《冷気》」
鋏の関節へ、白い霜が広がる。
完全には凍らない。
だが、締めつける力が弱まった。
腕を引き抜く。
剣を持ち直し、脚を二本まとめて斬った。
黒鉱蠍の身体が傾く。
腹部へ剣を突き刺した。
七体目。
その瞬間、《危険察知》が背後で激しく反応した。
振り向く。
間に合わない。
黒い毒針が、左腕へ突き刺さった。
「ぐっ……!」
革鎧を完全には貫いていない。
だが、針の先端が皮膚まで届いた。
焼けるような痛み。
すぐに腕が痺れ始める。
俺は剣を振り、黒鉱蠍を下がらせた。
結界の内側へ戻る。
追ってきた二体が、光の膜へ弾かれた。
左腕の感覚が急速に薄れていく。
指が動かしづらい。
毒が全身へ回る前に止めなければならない。
解毒薬を取り出す。
栓を歯で抜き、一気に飲んだ。
苦い液体が喉を通る。
左腕から肩へ広がっていた痺れが、少しずつ弱まっていく。
結界の外では、黒鉱蠍たちが鋏を鳴らしていた。
あと五体。
このまま中で待つこともできる。
だが、毒を受けたことで分かった。
少しでも気を抜けば死ぬ。
テントがあるから、治療する時間を得られた。
次も間に合うとは限らない。
左手を握る。
まだ感覚が鈍い。
それでも動く。
剣は右手で振れる。
俺は再び結界の外へ出た。
「最後まで片づける」
◇
八体目は、毒針を先に切り落とした。
九体目は、氷塊を目へ当て、怯んだところで脚を斬った。
残り三体。
黒鉱蠍たちは、もう結界へ近づこうとしない。
広がりながら、俺を岩の小部屋の端へ追い込んでいく。
一体が正面。
残り二体が左右。
逃げ道を塞ぐつもりだ。
俺は正面の一体へ走った。
黒鉱蠍が鋏を開く。
俺は剣を投げるように前へ突き出した。
右の鋏が刃を挟む。
予想どおりだ。
剣を引かず、さらに押し込む。
黒鉱蠍の鋏が固定された。
左の鋏が俺の胴を狙う。
身体を横へ向け、ぎりぎりで避けた。
そのまま黒鉱蠍の側面へ回る。
剣を挟んだ鋏ごと、身体が捻られる。
黒鉱蠍の脚がもつれた。
俺は左足で甲殻を蹴った。
身体が横倒しになる。
剣を引き抜き、腹部へ突き刺す。
十体目。
《黒鉱蠍を十体討伐しました》
《ガチャ券を一枚獲得しました》
《所持ガチャ券:四枚》
残り二体。
左から毒針。
右から鋏。
俺は十体目の死骸を蹴り上げた。
毒針が死骸へ突き刺さる。
右の黒鉱蠍が、死骸ごと鋏で挟んだ。
二体の動きが止まる。
俺は左へ回った。
尾を伸ばしたままの個体へ近づく。
尾の根元へ剣を振る。
一撃。
二撃。
太い尾が切断され、岩の床へ落ちた。
黒鉱蠍が振り返る。
大きな鋏が、俺の胸へ迫る。
《耐久の革鎧》で受ける。
挟まれる前に身体を捻り、鋏の内側へ入った。
脚の付け根へ剣を突き刺す。
体勢を崩したところで、腹部を斬り上げた。
十一体目。
最後の一体が、挟んでいた死骸を投げ捨てた。
俺へ向き直る。
鋏を低く構え、尾を高く持ち上げる。
俺も剣を構えた。
左腕には、まだ痺れが残っている。
魔力も多くはない。
だが、相手は一体だけだ。
黒鉱蠍が地面を走る。
右の鋏が剣を狙う。
俺は刃を引いた。
左の鋏が脚へ伸びる。
跳んで避ける。
空中にいる俺へ、毒針が振り下ろされた。
逃げ場がない。
俺は左腕を前へ出した。
毒針が革鎧の腕部分へ当たる。
先ほど傷つけられた場所とは違う。
耐久の革が針を受け止めた。
衝撃で身体が地面へ落ちる。
黒鉱蠍が追ってくる。
俺は倒れたまま、剣を横へ振った。
刃が前脚の関節へ入る。
一本を切断した。
黒鉱蠍が傾く。
俺は地面を転がり、腹部の横へ入った。
剣を両手で握る。
痺れた左手に、無理やり力を込めた。
「これで終わりだ」
鋼鉄の剣を腹部へ突き刺す。
黒鉱蠍の脚が激しく動く。
剣をさらに押し込む。
やがて、鋏と尾が地面へ落ちた。
十二体目。
岩の小部屋に静寂が戻る。
俺は剣から手を離し、その場へ膝をついた。
息が苦しい。
左腕も痛む。
それでも、生きている。
◇
呼吸を整えてから、改めて表示を確認した。
《ローデン地下迷宮討伐記録:7/7》
《所持ガチャ券:四枚》
《復讐達成率:8%》
やはり、見間違いではない。
一パーセント下がっている。
理由も表示されていた。
《復讐対象の戦力上昇を確認しました》
ヴァルドも強くなっている。
町へ戻った日に聞いた話を思い出す。
高位魔物を討伐し、《炎剣卿》は凱旋した。
あれは称賛を得るためだけの戦いではなかった。
魔物を倒せば、ヴァルドも神の祝福を受ける。
奴もレベルを上げている。
俺が独房で七年間を失っていた間も。
俺が野良ダンジョンで牙鼠と戦っていた間も。
俺がローデン地下迷宮で必死に魔物を倒していた間も。
ヴァルドは、さらに強い魔物を倒し続けている。
「俺だけが、前へ進んでいるわけではない」
当然のことだった。
復讐対象は、俺を待つために立ち止まっているわけではない。
奴には地位がある。
金がある。
優れた武器がある。
兵士もいる。
高位魔物の情報も、俺より早く手に入るだろう。
同じ速度で強くなったのでは、永遠に追いつけない。
俺は剣を拾った。
氷膜は、すでに消えている。
今の氷魔法では、ヴァルドの炎に届かない。
レベルも足りない。
証拠も足りない。
迷宮を一つコンプリートした程度で、喜んでいる場合ではなかった。
「なら、奴より早く強くなる」
高位貴族よりも。
《炎剣卿》よりも。
Sランク冒険者に匹敵する男よりも早く。
ダンジョンを攻略する。
ガチャを引く。
証拠を集める。
奴が一歩進むなら、俺は二歩進む。
「追いつくだけでは駄目だ」
ヴァルドを倒すには、追い越さなければならない。
◇
十二個の魔石を回収した。
その一部を、《魔法のテント》へ補充する。
《魔法のテントへ魔石を補充しました》
《障壁出力が回復しました》
残りは《収納》へ入れる。
次に《解体》を使った。
黒鉱蠍の身体へ、淡い線が浮かぶ。
毒針の根元。
毒腺を包む外殻。
鋏の接続部分。
革手袋を着け、慎重に小刀を入れる。
毒腺を傷つければ、毒が漏れる。
左腕の痺れが残っている今、もう一度毒を受けるわけにはいかない。
一本ずつ毒針を外す。
毒腺は、状態の良いものだけを選んだ。
鋏も場所を取るため、傷の少ないものだけ回収する。
十二体分すべてを持ち帰る必要はない。
高く売れ、収納を圧迫しない物を優先する。
解体を終え、血と毒で汚れた手袋を洗った。
テントへ戻る。
左腕の傷を水で流し、薬を塗る。
解毒薬は効いている。
痺れも少しずつ弱まっていた。
ベッドへ腰を下ろす。
ローデン地下迷宮は、コンプリートした。
報酬も、すでに付与されている。
戦闘中だったため、内容を確認していない。
俺は意識をシステムへ向けた。
《ローデン地下迷宮コンプリートボーナス》
《報酬の詳細を表示します》




