第12話 七年前の手紙
ヴァルド・クロイツの凱旋を見送ったあと、俺は人の少ない裏通りへ入った。
街の構造は、七年前と大きく変わっていない。
新しい建物が増え、看板が掛け替えられていても、身体が道を覚えていた。
何度もマリエルと歩いた道だ。
仕入れの荷物を二人で抱え、くだらない話をしながら店へ戻った。
雨に降られ、軒下へ逃げ込んだこともある。
閉店後に買い物へ出て、わずかな売上の中から夕食を選んだこともあった。
あの頃は、それがいつまでも続くと思っていた。
やがて、見覚えのある通りへ出る。
足が止まった。
かつての店は、まだ残っていた。
看板は取り外されている。
窓は汚れ、入口には古い板が打ちつけられていた。
壁には蔦が這い、屋根の一部も崩れかけている。
事件が起きた店を使おうとする者はいなかったのだろう。
七年間、ここだけが時間から取り残されていた。
俺は窓へ目を向けた。
記憶の中では、マリエルが布を手に窓を磨いている。
『昨日も拭いていなかったか?』
『昨日きれいにしたから、今日もきれいにするんです』
『同じではないのか』
『全然違います』
冷たい水を使ったせいで、マリエルの手は赤くなっていた。
俺がその手を握ると、彼女は嬉しそうに笑った。
『温かいですね』
『次からは俺がやる』
『あなたに任せると、隅が汚れたままになります』
『なら、自分でやれ』
『だから温めてください』
あの手の感触を、まだ覚えている。
俺は窓から視線を外した。
ここへ思い出に浸るために来たのではない。
周囲を見回す。
通行人はいない。
《危険察知》も反応していなかった。
建物の脇を通り、裏口へ回る。
古い扉には鍵がかかっていたが、木材そのものが腐り始めている。
俺は鋼鉄の剣を取り出し、扉と枠の隙間へ刃を差し込んだ。
音を立てないよう、ゆっくりと力を加える。
留め金が外れた。
人が通れるだけの隙間を作り、店の中へ入る。
扉を元の位置へ戻すと、店内は完全な暗闇に包まれた。
だが、《暗視》がすぐに働く。
埃を被った棚。
倒れた椅子。
空になった帳場。
商品の類は、何一つ残っていない。
金になる物は、事件後にすべて持ち去られたのだろう。
それでも、ここが俺たちの店だったことは分かる。
俺は倒れていた椅子を起こした。
一本の脚に、削った跡がある。
俺が直した椅子だ。
『また変な音がしています』
『まだ座れる』
『お客様が驚きます』
『俺たちしか使っていないだろう』
『私が驚くんです』
仕方なく、閉店後に脚を削った。
修理が終わると、マリエルは何度も座り直していた。
『すごい。音がしません』
『脚を削っただけだ』
『私にはできませんから』
たったそれだけのことを、マリエルは大げさに褒めた。
俺は椅子から手を離す。
小さな机も残っていた。
昼食を二人で取った机。
客がいない時間には、マリエルが頬杖をついて俺を眺めていた。
『何だ?』
『別に』
『なら、見るな』
『夫の顔を見てはいけないんですか?』
『仕事をしろ』
『お客様がいません』
特別な日ではなかった。
高価な物も、豪華な食事もなかった。
朝になれば店を開き、夜になれば二人で閉めた。
売上が少ない日は、一緒にため息をついた。
少し多く売れた日は、普段より良い肉を買った。
俺が欲しかったものは、すべてここにあった。
「ただいま、マリエル」
誰もいない店へ告げる。
当然、返事はなかった。
俺は目を閉じた。
もう一度だけ、あの声で「おかえりなさい」と言ってほしかった。
だが、どれだけ待っても、聞こえるのは風が建物を揺らす音だけだった。
俺は店の奥へ進んだ。
物置の床に、地下へ続く扉がある。
上には厚い埃が積もっていた。
最近、誰かが開けた形跡はない。
取っ手を持ち上げる。
湿った空気が、地下から流れてきた。
階段を下りる。
地下保管庫は、店内以上に荒らされていた。
木箱は壊され、棚も倒れている。
事件後、兵士たちが調べたのだろう。
だが、何かを探すための捜査というより、金になる物を持ち去っただけにも見えた。
《七年前の事件に関する未回収の証拠が存在します》
《所在地:旧店舗地下保管庫》
証拠は、この中にある。
俺は床と壁を調べ始めた。
マリエルが隠すとすれば、どこだ。
彼女は地下の暗さを嫌っていた。
必要なときも、いつも俺を呼んだ。
『一人で下りればいいだろう』
『何か出たらどうするんですか?』
『鼠くらいしかいない』
『鼠が出るなら、なおさら嫌です』
『それなら地下へ物を置くな』
『置いたのはあなたでしょう』
そんな彼女が、一人でここへ下りて何かを隠した。
俺にも話せない事情があったということだ。
棚を一つずつ動かしていく。
奥にある古い棚をずらしたとき、その下に周囲とは色の違う床板が見えた。
以前、床が腐ったため、俺が交換した場所だ。
剣の柄で叩く。
一枚だけ、音が軽い。
俺は刃を隙間へ入れ、板を持ち上げた。
下には、浅い空間が作られていた。
油布に包まれた小さな金属箱が入っている。
箱を取り出す。
錆びてはいるが、壊れていない。
蓋を開けると、中には何通もの手紙が収められていた。
封筒には、炎を二本の剣が囲む紋章。
クロイツ家の封蝋だ。
最初の手紙を開く。
『マリエルへ』
妻の名が、ヴァルドの文字で書かれていた。
『あなたほど美しい女性が、小さな店で一生を終える必要はない』
『私のもとへ来れば、望む暮らしを与えよう』
署名は、ヴァルド・クロイツ。
次の手紙を読む。
『いつまで返事を待たせるつもりだ』
『平民の夫に義理立てする必要などない』
『あの男には、あなたへ何一つ与えられない』
手紙が新しくなるほど、言葉から丁寧さが失われていく。
『夫を捨てろ』
『俺を選べば、店よりも大きな屋敷を与える』
『拒み続けるなら、夫も店も無事では済まない』
指に力が入る。
紙が震えていた。
俺の手が震えているのだ。
マリエルは、これを一人で読んでいた。
俺を傷つけると脅され、誰にも話せずに抱え込んでいた。
最後の手紙を開く。
『次の休日、日が傾く前に店へ行く』
『その場で、最後の返事を聞かせてもらう』
記された日付は、マリエルが殺された日だった。
ヴァルドはあの日、この店へ来ていた。
俺が戻る前に。
◇
七年前。
マリエルは地下保管庫の床板を戻した。
その上へ棚を動かし、隠し場所が見えないことを確かめる。
油布に包んだ箱の中には、ヴァルドから届いた手紙がすべて入っていた。
最初は、断れば終わると思っていた。
相手は高位貴族。
自分のような平民の女に執着するはずがない。
だが、何度断っても、手紙は届き続けた。
店の前で待たれたこともある。
夫が仕入れへ出ている時間に、店へ現れたこともあった。
ヴァルドの言葉は、次第に求愛から脅迫へ変わった。
夫に話せば、夫を殺す。
騒ぎにすれば、店を潰す。
マリエルは怖かった。
自分のせいで、夫が傷つくことが。
だから、何も言えなかった。
だが、もう一人では抱えられない。
今夜、夫が帰ってきたら、すべて話そう。
ヴァルドから迫られていること。
夫と店を脅されていること。
手紙を証拠として残していること。
そして、もう一つ。
マリエルは、そっと腹へ手を添えた。
まだ、見た目には何も変わっていない。
それでも、ここには新しい命がいる。
愛する夫との子供。
妊娠を知ったとき、恐怖の中でも笑みを抑えられなかった。
夫へどう伝えよう。
食事中に打ち明けるか。
店を閉めてから、静かに話すか。
小さな靴を買って、机の上へ置いておくのもいいかもしれない。
色々考えたが、結局決められなかった。
「きっと、喜んでくれる」
マリエルは微笑んだ。
夫は驚いて、何も言えなくなるかもしれない。
けれど、最後には不器用な笑顔を見せてくれる。
三人で暮らす未来を想像するだけで、胸が温かくなった。
地下から店へ戻る。
日が傾き始めていた。
マリエルは店を片づけ、奥の机へ二人分の食器を並べた。
今夜は、少しだけ良い食事を用意するつもりだった。
そのとき、入口の扉が開いた。
「おかえりなさ――」
笑顔が消える。
入ってきたのは、夫ではなかった。
赤い外套をまとった男。
ヴァルド・クロイツ。
「待たせたな、マリエル」
「帰ってください」
「手紙は読んだのだろう?」
「私の返事は変わりません」
ヴァルドは店内を見回した。
古い棚。
小さな帳場。
二人分の食器が並ぶ質素な机。
口元に、嘲るような笑みが浮かぶ。
「こんな場所で、一生を終えるつもりか?」
「ここは、私と夫の店です」
「朝から晩まで働き、わずかな金を数える。それがお前の望む人生なのか?」
「はい」
マリエルは迷わず答えた。
「私は、今の暮らしが幸せです」
「俺のもとへ来れば、働く必要などない。屋敷も使用人も宝石も、望むものをすべて与えられる」
「必要ありません」
「あの男より、俺の方がお前を幸せにできる」
「いいえ」
ヴァルドの目が細くなる。
「なぜだ?」
「あの人を愛しているからです」
店内の空気が変わった。
ヴァルドが一歩近づく。
マリエルは後ろへ下がった。
「愛など、生活が変われば消える」
「消えません」
「あの男に、お前を守る力があると思っているのか?」
「あなたに守っていただく必要はありません」
「俺を拒めば、夫がどうなるか分かっているのか?」
マリエルは震える手を握りしめた。
「脅さなければ女性に選ばれない方を、愛せるはずがありません」
ヴァルドの顔から笑みが消えた。
腕を伸ばし、マリエルの手首を掴む。
「来い。今なら、お前の無礼を許してやる」
「離してください!」
マリエルは腕を振りほどいた。
「私は、あなたの所有物ではありません」
「いずれ理解する」
「理解することなどありません」
マリエルは腹を守るように、両手を重ねた。
「私は、あの人の子を身ごもっています」
ヴァルドの動きが止まる。
「……何?」
「今夜、夫へ伝えるつもりでした」
声は震えていた。
それでも、マリエルはヴァルドから目を逸らさなかった。
「私はあの人の妻です。そして、あの人の子供の母親になります」
ヴァルドの顔から、すべての表情が消えた。
「あなたを選ぶことは、絶対にありません」
ヴァルドがマリエルの喉を掴んだ。
身体が壁へ叩きつけられる。
息が詰まった。
「俺を拒んで、あの男の子を産むのか」
怒鳴ってはいなかった。
低く、冷たい声だった。
マリエルは両手で腕を掴み、必死に引き離そうとする。
だが、Sランク冒険者にも匹敵する男の力には抗えない。
「手に入らないなら……」
ヴァルドの指に力が入る。
「誰にも渡す必要はない」
マリエルは足を動かし、近くの棚を蹴った。
棚の上に置かれていた物が落ちる。
その音で、ヴァルドの腕がわずかに緩んだ。
マリエルは身体を捻り、腕から逃れる。
入口へ向かおうとした。
だが、数歩も進めなかった。
髪を掴まれ、床へ引き倒される。
ヴァルドの視線が、帳場の内側へ向いた。
そこには、夫が護身用に置いていた短剣があった。
ヴァルドは短剣を手に取る。
マリエルは腹を庇いながら、床を後退した。
「やめて……」
「俺を選ばなかった、お前が悪い」
刃が振り下ろされた。
マリエルの身体から力が抜けていく。
最後に浮かんだのは、夫の顔だった。
驚いた顔が見たかった。
喜ぶ声が聞きたかった。
二人で子供の名前を考えたかった。
三人で、あの店へ帰りたかった。
帰ってきたら、伝えたかった。
マリエルの手が、腹から滑り落ちた。
ヴァルドは彼女が動かなくなったことを確認した。
激昂していた顔は、すでに冷静さを取り戻している。
手にした短剣を見る。
夫の物だ。
ヴァルドは店内を見回し、机を倒した。
棚から品物を落とし、夫婦が争ったように見えるよう店内を荒らす。
入口の扉を開けると、外で待っていた従者が姿を現した。
「夫が店から逃げたと証言しろ」
「しかし、私は見ておりません」
「見たことにしろ」
ヴァルドは血のついた短剣を、マリエルのそばへ置いた。
「検分役には、クロイツ家から話をつける。裁判でも同じ証言を繰り返せ」
「承知しました」
「逆らえば、お前も隣へ並ぶことになる」
従者が青ざめる。
ヴァルドは一度だけ、床へ倒れたマリエルを見た。
そこに後悔も悲しみもなかった。
「俺を選んでいれば、生きていられたものを」
赤い外套が、店の外へ消えた。
◇
俺は、最後の手紙を握ったまま立ち尽くしていた。
妻が殺された日の会話を、俺は知らない。
マリエルが何を言ったのか。
ヴァルドがどのように殺したのか。
事件後、誰へ何を命じたのか。
俺の手元にあるのは、手紙だけだ。
それでも、分かることはある。
ヴァルドはマリエルへ執着していた。
何度拒まれても迫り続けた。
最後には、俺と店へ危害を加えると脅した。
そして殺害当日、この店へ来ると書き残している。
これは、ヴァルドに動機があった証拠だ。
事件当日に店を訪れた可能性を示す証拠でもある。
だが、これだけでは足りない。
ヴァルドがマリエルを殺した直接の証拠ではない。
俺へ罪を着せた方法も、協力した者の名も分からない。
ほかにも証拠が必要だ。
事件の捜査記録。
偽証した者。
買収された役人。
ヴァルドが現在も続けている不正。
それらを一つずつ暴けば、《炎剣卿》という名の裏に隠された本当の姿が見えてくる。
俺は手紙を封筒へ戻し、金属箱ごと《収納》へ入れた。
《復讐対象に関する証拠を獲得しました》
《証拠:マリエルへの求愛・脅迫状》
《証拠価値を確認しました》
《復讐達成率が上昇しました》
《復讐達成率:7%》
初めて、数字が動いた。
零から七。
まだ、たった七パーセント。
だが、零ではない。
「ここからだ」
ヴァルドが奪ったものは、命だけではない。
俺の七年間。
マリエルと生まれてくるはずだった子供との未来。
俺の名前。
そして、自分が善人だと信じる街の人々の目まで欺いている。
「お前の罪を、一つずつ見つける」
殺人だけでは終わらせない。
ヴァルドが権力を使って隠してきた不正も、踏みにじった人間も、すべて表へ引きずり出す。
「お前が俺から奪ったように、俺もお前から奪う」
権力。
名誉。
財産。
仲間。
《炎剣卿》という称号。
最後にすべてを失ったヴァルドへ、俺自身の手で復讐を果たす。
俺は地下保管庫を出る前に、一度だけ振り返った。
「マリエル」
七年前、呼ぶことのできなかった名を口にする。
「必ず、終わらせる」
◇
クロイツ家の屋敷。
広い執務室で、ヴァルド・クロイツは赤い酒を飲んでいた。
高位魔物の討伐から戻ったばかりだというのに、その顔に疲労はない。
机の向かいには、鎧を着た男が立っていた。
「脱獄囚の捜索について、報告いたします」
「まだ探していたのか?」
ヴァルドは退屈そうに酒杯を揺らす。
「野良ダンジョンへ入ったあと、外へ出た形跡は確認されておりません」
「死体は?」
「見つかっておりません。内部には強力な魔物が生息しており、兵士を進入させるのは危険と判断されました」
「つまり、食われたのだろう」
「その可能性が高いかと」
ヴァルドは小さく笑った。
「七年も独房にいた男が、野良ダンジョンから帰れるはずがない」
「捜索は打ち切ってよろしいでしょうか?」
「構わん」
ヴァルドは酒を一口飲んだ。
「妻も、腹の子も、七年の人生も失った」
報告に来た男は、黙って次の言葉を待つ。
「最後には、自分の死体すら残せなかったか」
ヴァルドの口元が、愉快そうに歪む。
「つくづく、何一つ手元に残せない男だな」
鎧の男が、愛想笑いを浮かべた。
「魔物も気の毒なものだ」
「気の毒、ですか?」
「ああ」
ヴァルドは空になった酒杯を机へ置く。
「そんな空っぽの男を食ったところで、腹の足しにもならんだろう」
男が小さく笑う。
ヴァルドは窓の外へ目を向けた。
街では今も、《炎剣卿》の帰還を祝う声が聞こえている。
「まあ、死体が見つからないのは幸運か」
ヴァルドは満足そうに目を細めた。
「墓を用意する者もいない男に、埋葬の手間をかけずに済んだ」
屋敷の中に笑い声が響く。
自分が嘲笑った男が、すでに同じ街へ戻っているとも知らずに。
七年前に見落とした手紙が、その男の手へ渡ったことも知らずに。
そして、自分が積み重ねてきた罪が、これから一つずつ暴かれていくことも知らずに。




