第11話 偽名シュナイダー
夕暮れの城壁を見下ろしながら、俺はしばらく人の流れを観察した。
城門へ向かう者は、もう多くない。
畑仕事を終えた農民や、帰りを急ぐ荷馬車がわずかに残っているだけだ。
今から門へ向かえば、確実に目立つ。
人が少なければ、門番も一人ひとりを詳しく調べるだろう。
焦る必要はない。
旧店舗の地下にある証拠は、七年間も残っていた。
一晩待った程度で消えるとは考えにくい。
俺は街へ背を向け、森の中へ戻った。
街道から十分に離れた場所で周囲を調べる。
人や魔物の気配がないことを確かめてから、《魔法のテント》を設置した。
淡い光に包まれた入口をくぐる。
寝具へ座り、《収納》から身分証明書を取り出した。
薄い金属板に、氏名や出身地が刻まれている。
《氏名:シュナイダー》
これから街では、この名を使う。
「シュナイダー……」
声に出してみる。
誰かに名前を呼ばれたとき、反応が遅れれば怪しまれる。
何度も繰り返し、自分へ言い聞かせた。
俺はシュナイダー。
遠方から仕事を探しに来た旅人。
顔の火傷は、以前働いていた炭焼き小屋で火災に巻き込まれたため。
身分証明書に刻まれた出身地も、忘れないよう頭へ入れる。
門番に聞かれたことだけを答える。
余計な話はしない。
嘘を増やすほど、矛盾も増える。
腰に差していた鋼鉄の剣を抜いた。
盗賊から奪った剣よりも、明らかに質がいい。
仕事を探しに来た貧しい旅人が持つには、少し立派すぎる。
俺は鋼鉄の剣を《収納》へ入れ、代わりに以前使っていた剣を取り出した。
刃には細かな傷があり、鞘も使い込まれている。
こちらなら、旅の護身用と言っても不自然ではない。
準備を終えたあと、温かい湯と保存食で腹を満たした。
七年前、妻と暮らしていた街はすぐそこにある。
目を閉じると、石畳を歩く妻の後ろ姿が浮かんだ。
だが、その記憶を深く追うことはしなかった。
今思い出せば、冷静さを失う。
俺は寝具へ横たわり、翌朝まで身体を休めた。
◇
空が白み始める頃、テントを収納した。
街道へ出る前に、《生活魔法》で身体と衣服の汚れを落とす。
身分証明書を懐へ入れ、火傷痕のある顔を布で半分隠した。
森を抜けると、昨日とは違い、多くの人間が街へ向かっていた。
野菜を積んだ荷車。
武器を携えた冒険者。
商人らしい男たち。
俺は人の流れへ混じり、城門へ近づいた。
すぐには列へ並ばない。
少し離れた木陰から、門番の検査を観察する。
門には四人の兵士がいた。
二人が身分証明書を確認し、残る二人が荷物や荷車を調べている。
「街へ来た目的は?」
「市場で野菜を売ります」
「帰るのは今日中か?」
「そのつもりです」
農民の検査は、すぐに終わった。
次の商人は、荷台の箱を一つずつ開けさせられている。
冒険者らしい三人組は証明書を見せただけで通された。
検査の厳しさは、身なりや目的によって変わるらしい。
城門の横には、何枚もの紙が貼られていた。
行方不明者。
盗賊の手配書。
そして、その中に見覚えのある顔があった。
俺は無意識に息を止めた。
七年前の記録から描かれた、俺の似顔絵。
まだ傷も火傷もなかった頃の顔だ。
紙の上には、俺の本当の名前が記されている。
その下に、妻を殺害した罪で収監され、脱獄した危険人物だと書かれていた。
危険人物。
その言葉を見ても、以前のような怒りは湧かなかった。
ここで感情を乱せば、門を通れない。
俺は火傷痕へ指を触れた。
輪郭には面影が残っている。
だが、七年間の独房生活で顔は痩せ、肌には傷が増えた。
さらに火傷で片側の頬は大きく変わっている。
似顔絵だけで見破られる可能性は低い。
それでも、ゼロではない。
列の前方で、旅人の男が呼び止められた。
「この証明書は期限が切れている」
「少しくらい構わないだろう」
「確認が必要だ。こちらへ来い」
男は兵士二人に挟まれ、門の脇にある詰所へ連れていかれた。
俺は逃げ出したい衝動を抑えた。
今になって列を離れれば、かえって目立つ。
俺は荷馬車を引く商人の後ろへ並んだ。
一歩ずつ、城門が近づく。
逃げ道を探す。
右側には兵士が二人。
左側には石壁。
何かあれば森へ戻ることはできる。
だが、馬や弓を使われれば逃げ切れる保証はない。
戦えば、俺が生きているとヴァルドへ伝わる。
ここは戦う場所ではない。
「次」
門番の声がした。
俺は前へ進んだ。
兵士は四十歳ほどの男だった。
日に焼けた顔。
腰には剣。
視線は鋭い。
「身分証明書を出せ」
俺は懐から金属板を取り出し、門番へ渡した。
男は表と裏を確認する。
「名前は?」
「シュナイダーだ」
初めて他人へ、その名を名乗った。
門番の目が証明書から俺へ移る。
「顔の布を取れ」
俺は逆らわず、布を外した。
火傷痕が朝の光に晒される。
門番の眉がわずかに動いた。
「ひどい傷だな」
「炭焼き小屋で火事に巻き込まれた」
「いつの話だ?」
「半年ほど前だ」
門番は俺の顔を見たあと、城壁に貼られた手配書へ視線を向けた。
背筋へ冷たい感覚が走る。
《危険察知》が反応している。
門番は手配書を一枚剥がした。
紙へ描かれた七年前の俺と、火傷痕のある現在の顔を見比べる。
「この男を知っているか?」
「いや」
「妻を殺して投獄された囚人だ。数日前に脱獄した」
「そうか」
俺は手配書を凝視しなかった。
興味がなさすぎても不自然だ。
一度だけ似顔絵を見て、すぐ門番へ視線を戻す。
「お前と年齢が近いな」
「似ているように見えるのか?」
「火傷がなければ、少しはな」
門番は俺の目を見た。
俺も逸らさない。
逃げる者は、目を伏せる。
独房で何度も聞いた言葉だ。
だからこそ、まっすぐ見返した。
「街へ来た目的は?」
「仕事を探している」
「どんな仕事だ?」
「雇ってもらえるなら何でもいい。荷運びか、倉庫の整理を考えている」
「出身は?」
俺は身分証明書に刻まれていた場所の名を答えた。
「そこから徒歩で来たのか?」
「途中までは行商人の荷馬車へ乗せてもらった。昨夜は森で休んだ」
「森で?」
「宿へ入る金を減らしたくなかった」
門番の視線が、腰の剣へ移る。
「剣は使えるのか?」
「獣を追い払う程度だ。人間と斬り合った経験はない」
「仕事を探すなら、冒険者になる手もあるぞ」
「魔物に殺されたくはない」
門番の口元が、わずかに緩んだ。
「賢明だ」
証明書をもう一度確認する。
印章。
名前。
記載された特徴。
男の指が、一つずつなぞっていく。
危険察知の冷たさは、まだ消えない。
「入城税は銀貨一枚だ」
俺は《収納》を使わず、あらかじめ革袋へ入れておいた銀貨を取り出した。
ガチャで得た銀貨だ。
門番は受け取った硬貨を指で弾き、音を聞く。
やがて身分証明書を俺へ返した。
「通れ」
危険察知の反応が弱まった。
「分かった」
俺は身分証明書を懐へ戻し、城門をくぐった。
一歩。
二歩。
兵士へ背中を向ける。
走らない。
振り返らない。
街の中へ入っても、すぐには緊張を解かなかった。
「待て、シュナイダー!」
背後から声が飛んだ。
足が止まる。
《危険察知》が再び反応した。
剣へ手を伸ばしてはいけない。
俺はゆっくり振り返った。
先ほどの門番が、こちらへ歩いてくる。
右手には小さな木札を持っていた。
「これを忘れていた」
木札を差し出される。
片面には街の紋章が刻まれている。
「滞在許可を示す札だ。街を出るまで持っていろ。失くせば、もう一度税を払うことになる」
「……分かった」
俺は木札を受け取った。
「剣も街中では抜くなよ」
「ああ」
門番はそれ以上何も言わず、持ち場へ戻った。
危険察知の反応が消える。
俺は木札を懐へ入れ、再び歩き出した。
七年ぶりの街だった。
石畳。
立ち並ぶ店。
焼きたてのパンの匂い。
行き交う人々の声。
知っている街のはずなのに、知らない建物が増えている。
以前あった店がなくなり、空き地だった場所には新しい家が建っていた。
一方で、広場の噴水や古い鐘楼は、記憶の中と変わっていない。
妻と並んで歩いた道。
食材を仕入れるため、二人で何度も通った市場。
目を向ければ、記憶が溢れそうになる。
俺は足を止めなかった。
旧店舗へ直接向かうのは危険だ。
まずは誰が使っているのかを調べる。
店の周囲に兵士やヴァルドの部下がいないかも確認しなければならない。
大通りを避けようとしたとき、街の鐘が鳴った。
一度。
二度。
緊急事態を知らせる鐘ではない。
祝い事のときに鳴らされる、明るい音だった。
周囲の人々が立ち止まる。
「戻ってきたぞ!」
「《炎剣卿》のご帰還だ!」
その言葉を聞いた瞬間、全身から音が消えた。
炎剣卿。
聞き間違えるはずがない。
「ヴァルド・クロイツ卿が戻られた!」
人々が大通りへ集まっていく。
建物の窓から、炎と剣を描いた旗が下ろされた。
商人は店先へ出て、子供たちは歓声を上げながら走っていく。
「西の森に現れた高位魔物を倒したらしい」
「やはり《炎剣卿》は王国最強だ」
「Sランク冒険者にも匹敵するお方だからな」
「ヴァルド卿がいれば、この街は安全だ」
妻を殺した男の名を、人々は笑顔で口にしていた。
俺は人の波に押されるように、大通りの端へ移動した。
騎馬兵が姿を現す。
揃いの鎧を着た兵士たちが、道の中央を進んでくる。
その後ろに、一頭の黒い馬がいた。
馬上の男は、赤い外套をまとっていた。
整えられた黒髪。
腰には、炎の意匠が刻まれた剣。
七年前よりも顔つきは鋭くなっている。
身体も一回り大きく見えた。
だが、見間違えるはずがない。
ヴァルド・クロイツ。
妻を殺した男。
腹の子まで殺した男。
そして、俺へすべての罪を押しつけた男。
独房の扉の向こうから聞こえた声が蘇る。
『女を殺したとき、腹の子も一緒に死んだ』
気づけば、右手が剣の柄へ伸びていた。
今なら、数十歩の距離にいる。
走れば届く。
剣を抜き、馬から引きずり下ろす。
喉を斬る。
胸へ刃を突き立てる。
七年間、何度も思い描いた光景だった。
だが、指が柄へ触れる前に手を止めた。
周囲には兵士がいる。
武装した冒険者も大勢いる。
ここで斬りかかれば、ヴァルドへ届く前に殺される。
仮に一対一で戦えたとしても、今の俺では勝てない。
大爪熊を倒し、七年前の身体を取り戻した。
それでも、目の前の男はSランク冒険者に匹敵する《炎剣卿》だ。
怒りだけでは、炎を斬れない。
ヴァルドが馬上から人々へ手を上げる。
歓声がさらに大きくなった。
「ヴァルド様!」
「《炎剣卿》!」
人々にとっては、街を守る強者。
俺にとっては、妻と子供を奪った殺人者。
ヴァルドの視線が、人々の上をゆっくりと動いた。
その目が、一瞬だけ俺の上を通る。
心臓が強く脈打った。
俺は顔を伏せなかった。
隠れようともしない。
火傷痕のある旅人シュナイダーとして、周囲の者と同じように道を空ける。
ヴァルドの視線は、何の反応もなく通り過ぎた。
俺に気づいていない。
七年間苦しめた男が、すぐ近くに立っていることも知らない。
黒い馬が目の前を通過する。
ヴァルドの背中へ、赤い外套が揺れていた。
俺は動かなかった。
歓声が遠ざかるまで、その背中を見送る。
《復讐達成率:0%》
表示は、まだ零のまま。
当然だ。
俺は何一つ奪い返していない。
妻が地下保管庫へ残した証拠すら、この手にはない。
今の俺が感情に任せて死ねば、ヴァルドはこれからも《炎剣卿》として称賛され続ける。
それだけは許さない。
「今はまだ、お前を殺すときではない」
誰にも聞こえない声で呟く。
俺はヴァルドの背中から目を離し、旧店舗のある方角へ歩き始めた。
まずは証拠を手に入れる。
妻が隠したものを見つける。
そして、ヴァルド・クロイツが殺人者であることを、この手で暴く。
「待っていろ、ヴァルド・クロイツ」




