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【2話】ミナ・オルセ 新米冒険者の彷徨い

 ミナ・オルセは、自分が道に迷ったのだと認めたくなかった。

 認めたくないだけで、事実としては完全に迷っている。

 地図は読めていない。仲間とはぐれた。

 帰還石は壊れている。

 膝は痛い。喉も乾いた。短剣を握る手も震えている。


 結論から言えば、新米冒険者としてはかなり最悪に近い状況だった。

 ただし、死んでいない。なら、まだ失敗ではない。

 そう思いたかった。

 今日は、初めての本格的なダンジョン探索だった。

 場所は低級ダンジョン。

 冒険者ギルドの講習では、初心者向けと説明されていた場所である。

 出現する魔物は弱く、罠も少なく、地図も出回っている。

 数人で組めば、初めての冒険者でも奥の採取地点までは行ける。


 実際、途中までは順調だった。

 革鎧は新しい。短剣の柄はまだ手に馴染んでいない。

 荷物袋には採取した薬草があり、腰には帰還石もあった。

 仲間たちは軽口を叩き、ミナも何度か笑った。


 自分は冒険者になったのだと、少しだけ誇らしかった。

 それが崩れたのは、分かれ道を間違えてからである。

 最初は、すぐ合流できると思った。

 次に、少し戻ればいいと思った。

 それから、地図を見れば分かると思った。

 最後に、帰還石を使えばいいと思った。


 その帰還石が、ひび割れていた。


「……なんで」

 小さく呟いた声は、ダンジョンの石壁に吸われて消えた。

 帰還石。名前の通り、使えばダンジョンの外へ帰還できる道具である。

 新米冒険者にとっては命綱に近い。

 高価ではあるが、初めて潜る者ほど持っておけとギルドで言われるものだ。

 それが壊れている。

 落とした覚えはない。

 強くぶつけた覚えもない。

 だが、中央には細いひびが入り、淡い青色の光は消えていた。


 意味が分からない。

 分からないが、使えないことだけは分かった。

 ミナは帰還石を握りしめ、深く息を吸った。

 焦るな。落ち着け。

 冒険者は、困った時ほど冷静に判断しなければならない。


 ギルドの講師が言っていた言葉を思い出す。

 もっとも、実際に迷宮で一人になると、講習の言葉など驚くほど役に立たない。

 頭では理解していても、足は震えるし、喉は渇くし、暗闇の奥から何かが動く音がするだけで心臓が跳ねる。


 怖いものは怖い。

 平気なふりをしても、怖いものは怖いのだ。


「……大丈夫」


 ミナは自分に言い聞かせる。

 大丈夫。

 まだ動ける。

 短剣もある。

 薬草もある。

 地図も、完全に役に立たない訳ではない。


 そう思いながら、彼女は通路を進んだ。

 そして、見つけた。

 行き止まりの壁に、一枚の扉があった。


 おかしい。

 このダンジョンに、こんな扉はないはずだった。

 少なくとも、ギルドで見た地図にはなかった。

 木製の扉。

 金色の取っ手。

 小さな看板。


 そこには、見たことのない文字が刻まれている。

 だが、不思議と意味だけは理解できた。


「……冒険者ギルドの出張所?」


 そんな訳がない。

 分かっている。

 だが、そう思いたくなるくらい、扉は場違いだった。


 ミナは短剣を握り直した。

 喉が鳴る。

 逃げるべきか。

 開けるべきか。


 普通に考えれば、怪しい扉を開けるべきではない。

 ダンジョンに突然現れた扉など、罠か魔物の擬態に決まっている。

 そう考えるのが自然だ。


 だが、背後の通路から、低い唸り声が聞こえた。

 ゴブリンか。

 あるいは別の魔物か。

 確認する余裕はなかった。


 ミナは扉の取っ手を掴んだ。

 冷たい。

 だが、不思議と嫌な感じはしない。


「……お願いします」

 誰に言ったのか、自分でも分からない。

 ただ、そう呟いて、ミナは扉を開けた。



 からん、と鈴が鳴る。

 そこには、ダンジョンにはあり得ないほど明るく、静かな店があった。


 棚には護符、小瓶、短杖、魔石灯。

 革袋。

 外套。

 そして、ミナの月収では到底買えそうにない魔法剣。


 カウンターの向こうには、銀髪に赤い瞳の女性が立っていた。

「いらっしゃいませ。魔法道具店ラウンレイフィへようこそ」


 ――魔法道具店ラウンレイフィは、来店者の情報を暴き、異世界の視聴者へ伝えていく。

-----

ミナ・オルセ

種族:人間

年齢:16歳

職業:冒険者見習い/斥候志望


現在抱えている問題

低級ダンジョンで道を間違え、仲間とはぐれている。

帰還石も壊れており、自力で戻る手段がない。

-----


 その声は穏やかだった。

 だからミナは、最初にこう尋ねた。


「……ここ、冒険者ギルドの出張所ですか?」

 自分でも、かなり間の抜けた質問だと思った。

 棚に並ぶ品々を見れば、ここが普通の出張所でないことくらい分かる。

 そもそも、冒険者ギルドの出張所がダンジョンの行き止まりに突然現れる訳がない。

 受付嬢もいなければ、依頼掲示板もない。

 酒と汗と獣脂の匂いもしない。

 代わりにあるのは、清潔に整えられた棚と、淡く光る魔石灯と、用途の分からない魔法道具ばかりだった。


 それでもミナは、そう聞かずにはいられなかった。

 ここが何なのか分からない。

 分からない場所に入ってしまった。

 しかも、背後にはダンジョンがある。


 なら、自分の知っている言葉で確認するしかない。

「いいえ」

 カウンターの向こうに立つ銀髪の女性は、静かに答えた。

「ここは、魔法道具店ラウンレイフィです」

「魔法道具店……?」

 ミナは思わず聞き返す。


「ダンジョンの中に、ですか?」

「正確には、店の入口が世界各地のダンジョンや遺跡に繋がっています。店そのものは、別の場所にあります」

「……えっと」


 言葉の意味は分かる。

 だが、理解は追いつかなかった。


 ダンジョンの中に店があるのではなく、入口だけがダンジョンに現れる。

 それは説明としては成立している。

 ただし、現実として納得できるかは別問題だった。


 ミナは一歩だけ後ろを見た。

 扉の向こうには、先ほどまで歩いていた低級ダンジョンの通路があるはず。

 暗く、湿っていて、少し嫌な匂いがする場所。

 それに対して、この店は明るく、温かく、空気が澄んでいた。

 同じ場所に存在しているようには思えない。


「つまり……ここから出れば、ちゃんと元のダンジョンに戻れるんですか?」

「はい。来た時と同じ階層へ戻ります」


 それを聞いて、ミナは少しだけ安心した。

 少しだけ、である。

 戻れると言われても、その先が安全という意味ではない。

 むしろ、戻ったらまた迷宮の中だ。

 仲間はいない。

 帰還石も使えない。

 背後にいた魔物が、まだ近くにいる可能性もある。


 つまり、状況はほとんど改善していない。

 ただ、今すぐ襲われない場所に来られた。

 それだけで、呼吸は少し楽になった。


「ですが、その前に」


 女性は穏やかな声で言った。

「まずは武器を納めていただけますか」

「……あ」

 ミナは自分が短剣を握ったままであることに気づいた。

 刃先は下がっている。

 構えているというほどではない。

 だが、店に入って早々、武器を抜いたまま店主に向き合っているのは、普通に失礼だった。


「す、すみません」

 慌てて短剣を鞘へ戻す。

 その瞬間、肩から力が抜けた。

 武器を納めたからではない。

 武器を抜いていることに気づけないくらい、自分が緊張していたことを理解したからだ。


「そちらへどうぞ」

 店主はカウンター前の椅子を指した。

 座っていいのか迷った。

 座ってしまえば、何かあった時にすぐ動けない。

 だが、立っていても足は震えている。

 強がったところで、もう十分に格好悪い。

 ミナは椅子に腰を下ろした。

 座った瞬間、膝の痛みがはっきりした。

 今までは逃げることに必死で気づかないふりをしていたが、改めて見れば、革鎧の隙間から覗く足には細かい傷がいくつもある。

 血は乾きかけているが、まだ新しい。


「浅い傷なら、こちらで血を止められます」

「え、あ、いえ。これくらい平気です」

 反射的に答えてから、ミナは後悔した。

 平気ではない。

 普通に痛い。

 少なくとも、歩くたびに膝が引きつる程度には痛い。

 なのに、つい平気だと言ってしまった。

 理由は単純である。

 認めたくなかったのだ。

 新米冒険者として初めての探索で、道に迷い、仲間とはぐれ、帰還石まで壊れて、見知らぬ店で治療まで受ける。

 そこまで揃うと、さすがに情けなさが形を持って襲ってくる。

 だから、平気だと言った。


「そうですか」

 店主は追及しなかった。

 代わりに、小さな布を一枚取り出す。

 白い布だった。

 ただの包帯にも見えるが、薄く緑色の光を帯びている。


「ですが、血が床に落ちると掃除が少し大変ですので」

「す、すみません!」

 ミナは慌てて足を引っ込めようとした。

 すると、店主は困ったようでも、呆れたようでもなく、ただ淡々と布を差し出した。


「商品です。使うかどうかは、お客様が決めてください」

「商品……」


 その言葉で、ミナはようやく少しだけ状況を理解した。

 ここは店らしい。

 少なくとも、目の前の女性はそう言っている。

 助けてくれる場所ではなく、買い物をする場所。

 無料で何かを施してくれる場所でも、無条件で冒険者を保護するギルドでもない。

 それが、逆にミナを落ち着かせた。

 買う。

 払う。

 受け取る。

 そういう取引の形になれば、まだ自分は客でいられる。

 迷子の子供ではなく、冒険者でいられる。


「先に言っておきますけど」

 ミナは腰の小袋を押さえた。

「あまり、お金は持っていません。駆け出しなので」

 言ってから、しまったと思った。

 自分で自分の未熟さを認めてしまったような気がした。

 だが、店主は特に笑わなかった。

「物々交換も受け付けています。壊れた魔道具や、採取した素材でも構いません」

「壊れた魔道具……」


 ミナは少し迷ってから、腰袋の奥に入れていた石を取り出した。

 淡い青色の石。

 本来なら、帰還用の術式が込められた命綱。

 だが、今は中央にひびが入っている。


「帰還石です。壊れていますけど、魔石の欠片くらいにはなると思います」

 店主の視線が、帰還石に向いた。

 赤い瞳。

 それが、ほんの少しだけ細くなる。

「帰還石が壊れているなら、帰り道に困っているのですね」

「困ってはいません」

 ミナは即答した。

 即答してから、声が強すぎたことに気づく。

「ただ……予定より、少し時間がかかっているだけです」

 カウンターの上に置かれた帰還石は、ひび割れたまま沈黙していた。

 言い訳だ。自分でも分かる。

 仲間とはぐれた。

 地図は役に立たない。

 帰還石は壊れた。

 傷もある。

 喉も乾いている。

 それでも、助けてくださいとは言いたくなかった。

 冒険者になったばかりで、斥候志望なのに仲間を道に迷わせ、初めて入った奇妙な店で助けを求める。

 それではあまりにも、情けない。

 店主は何かを責めることもなく、カウンターの上に一枚のカードを置いた。

 薄い札のような魔道具だった。

 表面には、細い線で小さな模様が刻まれている。


「では、こちらを」

「これは……?」

「道標のカードスペルです。使い捨てで、効果は半日ほど。自分の目指す場所と、安全な方向を示します」

「出口まで案内してくれるんですか?」

 思わず、ミナは身を乗り出した。

「いいえ」

 店主は静かに首を横に振る。

「出口まで連れていく道具ではありません。危険の少ない方向を示すだけです。迷宮の状態や魔力の流れによっては、遠回りになることもあります」

「……万能ではないんですね」

「はい。万能ではありません」

 その答えは、妙に信用できた。

 何でもできると言われるより、できないことを先に言われた方が、ずっと店らしかった。

 そして、店らしいということは、嘘が少なそうだということでもある。

 ミナはひび割れた帰還石と、腰袋の中の硬貨を見下ろした。

 銀貨と銅貨が数枚。

 それから、採取した薬草の袋。

 新米冒険者が差し出せるものとしては、それがほとんどすべてだった。


「これで、足りますか?」

 カウンターの上に、硬貨と薬草、そして壊れた帰還石を並べる。

 並べてみると、ますます情けない量だった。

 これで命を買おうとしている。

 そう思うと、自分の価値まで安く見える気がした。

「今回に限り、それで構いません」

「本当に?」

「はい。取引成立ですね」

 店主はそう言って、治癒布とカードスペルを差し出した。

「使い方は、魔力を流すだけで大丈夫です。あとは、何を目指すのかを決めてください」

「出口を目指せばいいんですよね」

「それでも構いません」

 その言い方に、ミナは少し引っかかった。

「はい」

 店主はもう一枚、小さな紙片を差し出した。

 カードスペルよりもさらに薄い。

 説明書のようだった。

「道標のカードスペルは、使用者の願いに反応します。ですから、慌てている時に使うと、うまく方向を示さないことがあります」

「慌てている時に……」

「怖い、逃げたい、早く帰りたい。そういう気持ちが強すぎると、道ではなく、ただ近くの安全地帯を示す場合があります」

 ミナは息を呑んだ。

 今の自分が使えば、まさにそうなりそうだった。

 早く帰りたい。

 怖い。

 逃げたい。

 これ以上、一人でいたくない。

 そう思っている。

「使う前に、深呼吸をしてください。それから、何を目指すのかを決めてください」

「……出口を目指す」

「はい。それで構いません」

 その声は、さっきまでより少しだけ素直だった。

 店主は頷き、治癒布を示した。

「先に傷の手当てをしてください。痛みがあると、判断を誤ります」

「これくらい……」

 反射的に言いかけて、ミナは口を閉じた。

 さっきと同じことを言おうとしていた。

 平気ではない。

 痛いものは痛い。

 怖いものは怖い。

 それを認めたところで、今さら誰かに笑われるわけでもない。

「……使います」

 ミナは治癒布を受け取った。

 膝に巻くと、布に染み込んだポーションが淡く光り、傷口に冷たい感触が広がった。

 ミナにとって、ポーションを使う経験が初めてで、すぐに効果が出るのが不思議だった。

「っ……」

 思わず肩が跳ねる。

 けれど、痛みはすぐに引いて、血は止まり、歩くには十分だった。


「すごい……」

 呟いてから、ミナは慌てて顔を上げる。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 店主はそう答え、カードスペルをミナの前へ滑らせた。

「店を出た後、すぐには使わないでください。周囲を確認してからです」

「はい」

「短剣を抜く必要があるなら、抜いて構いません。ただし、走りながら使うのは避けてください。落としそうなので」

 以降、店主は何も言わなかった。

 その沈黙が、逆に恥ずかしい。

「このカードは、一度使えば効果を発揮しますが、半日で消えてなくなります。途中で迷っても、二度目はありません。魔道具を使った経験は?」

「明りの魔道具は使っています」

「それと同じ要領で構いません」


 ミナはカードを両手で受け取った。

 薄い札なのに、不思議と重く感じた。

 命綱。

 そんな言葉が頭をよぎる。


「……あの」

 立ち上がろうとして、ミナは足を止めた。

「この店には、また来られるんですか?」

 自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。

 ここは奇妙な店だ。

 ダンジョンの中に突然現れる、意味の分からない場所だ。

 けれど、今のミナには、外の暗い通路よりもずっと安全に思えた。

 店主は少しだけ考えるように目を細めた。


「初めての来店は、運です」

「運……」

「ですが、縁があればまた繋がることもあります。冒険者には、そういうものも必要でしょう?」

 ミナは少しだけ目を伏せた。

 冒険者に必要なもの。剣の腕。地図を読む力。魔物の知識。仲間との連携。

 そして、運。

 今日の自分に残っていたものがあるとすれば、悪運が強かったのだと。


「……次に来る時は、ちゃんと、お金を持ってきます」

 ミナはカードをしまい、背筋を伸ばした。

 本来はダンジョンにあまりお金を持ってくるのは、推奨できない。

 その場で、傷薬や持ち物や食糧の売買が起きない訳ではないが、

「お待ちしています」


 店主は穏やかにそう言った。

 ミナは小さく頭を下げる。

 それから扉へ向かった。

 来た時と同じ扉。

 けれど、今はその向こうに何があるのか、少しだけ分かっている。

 元いたダンジョンの階層。

 暗い通路。

 まだ見つかっていない仲間。

 ミナは扉の前で、一度だけ深呼吸した。

 腰袋の中には、道標のカードスペルが入っている。

 それだけで、さっきより少しだけ前を向けた。


 からん、と鈴が鳴る。

 ミナ・オルセは、もう一度ダンジョンへ戻っていった。

 扉の向こうに出ると、背後にはもう店はなかった。

 あるのは行き止まりの壁だけ。

 湿った石壁。

 冷たい空気。

 遠くで響く、水滴の音。


 そして、どこかから聞こえる魔物の唸り声。

「……あの人の名前、聞くの忘れた」

 ミナはぽつりと呟いた。

 そういえば、こちらは名乗ってすらいない。

 情けないところを見せて、安く道具を譲ってもらい、治療までしてもらって、最後に名前も聞かずに出てきてしまった。

 新米冒険者として以前に、人としてどうなのかという気もする。

 ただ、今は落ち込んでいる場合ではなかった。

 ミナは短剣を抜いた。

 それから、カードスペルを取り出す。

 すぐに使わないでください。

 周囲を確認してからです。

 店主の言葉を思い出す。

 通路を見渡す。

 耳を澄ませる。

 近くに魔物の気配はない。

 遠くにはいる。

 だが、すぐに襲われる距離ではない。


 ミナは息を吸った。

 怖い。

 帰りたい。

 逃げたい。

 その気持ちは消えない。

 消えないが、今は少しだけ横に置く。

 仲間を探すか。

 出口を目指すか。

 考えた末に、ミナはカードを握りしめた。


「出口」

 まずは生きて帰る。

 仲間が無事なら、きっと外に戻っている。

 もしまだ中にいるなら、ギルドに救助を頼める。

 自分一人で全てをどうにかしようとするのは、勇気ではなく無謀だ。

 そう判断できるくらいには、ミナは落ち着いていた。


「私は、出口を目指す」

 カードに魔力を流す。

 薄い札が淡く光り、空中に細い線が浮かんだ。

 矢印ではない。

 道そのものが示されるわけでもない。

 ただ、胸の奥に、こちらへ進めという感覚が生まれた。

 不思議な感覚だった。

 嗅いだことのある匂いを辿るような、声にならない声に呼ばれるような。

 けれど、嫌な感じはしない。

 ミナは歩き出した。

 もう一度、ダンジョンの奥ではなく、外へ向かって。



「お帰りになりましたね」

 その瞬間、宙に浮かんでいたクリスタルが淡く光を取り戻した。

 店内から客の気配が消えたことで、配信のコメント欄がレイの視界に戻ってくる。


 見送ったレイは、カウンターに置かれたひび割れた帰還石を、指先でそっと転がしていた。

 表面に刻まれた帰還用の術式。

 その中心を、細い傷が断ち切っている。

 自然に割れたというより、内側から無理に力が走ったような壊れ方だった。

「……少し、妙ですね」

 ぽつりと呟く。

:おかえり

:接客終わった?

:女の子大丈夫そう?

:今の子、完全に迷子だったよね

:強がってたのかわいい

:いや普通に危なかったのでは

:道標のカードスペル?

:あの帰還石ってやつ壊れてたの気になる

:テロップの情報量やばかった

:神演出だった

:いや今の子、演技うますぎない?

:店から出るとコメント戻る仕様すき

:レイさん、今なに見てるの?


 レイはクリスタルへ視線を戻した。

 手のひらには、ひび割れた帰還石が乗っている。

「お客様はお帰りになりました」

 いつもと変わらない穏やかな声。

 けれど、レイの指先は帰還石の傷をなぞっていた。

「ただ、この帰還石の壊れ方は、少し気になります」

:壊れ方?

:落として割れたんじゃないの?

:ダンジョンで転んだとか?

:ゴブリンに殴られた?

:帰還アイテムが壊れるの普通に怖い

:初心者用の命綱じゃん


「帰還石は使い捨てです。使えば割れます。ですが、持ち運びの途中で簡単に壊れるものではありません」

 レイは帰還石を軽く持ち上げた。

 クリスタルがそれに合わせ、手元を大きく映す。

 淡い青色の石。

 中心に走るひび。

 その内側で、魔力の残滓がかすかに濁っている。

「強い衝撃で割れたのなら、外側から欠けます。けれど、これは中心から裂けています」

:鑑定回きた

:急に職人っぽい

:いやずっと職人だけど

:内部から壊れたってこと?

:魔力暴走?

:考察勢集合


「理由は分かりませんが」

 レイはそう前置きした。

「これを購入した時点で、使用済みだったのではないでしょうか」

 店内は静かだった。

 窓の外では、穏やかな海が光っている。

 ほんの少し前まで泥だらけの少女が座っていた椅子には、まだ微かな土の跡が残っていた。

 レイは帰還石を小さな皿の上に置いた。


「運が良ければ、また会うこともあるでしょう」

:助けに行かないんですか?

:店主、落ち着きすぎ

:あの子まだダンジョン戻ったばっかりでは

:大丈夫かな

:カードスペル仕事してくれ

:ミナちゃん再登場希望

:名前出てたっけ?

:テロップに出てた

:あのテロップ毎回何なの

:プロフィール勝手に出るの怖いけど便利

:異世界AI配信、個人情報保護が終わってる


 レイはコメントを眺め、少し首を傾げた。

「個人情報保護……?」

:そこ拾うの草

:今は気にしなくていいです

:いや気にして

:神様、その辺どうなってます?

:概要欄にプライバシーポリシー追加しよう


「神に確認しておきます」

:確認できるんだ

:できるの!?

:神に問い合わせる配信者

:サポート窓口が神

:この配信、たまに設定が強すぎる


 レイは帰還石を作業台の端へ寄せた。

 ひび割れた帰還石。

 安価な治癒布。

 使い捨ての道標。

 新米冒険者が差し出した、ほとんど全財産に近い対価。

 それだけが、今日の来客の痕跡だった。

 レイは少しの間だけ、扉の方を見る。

 閉じられた扉の向こう側に、ミナはもういない。

 今ごろ暗い通路を歩いているのだろう。

 泣いているかもしれない。

 怒っているかもしれない。

 歯を食いしばっているかもしれない。

 どれであっても、レイには分からない。

 この店は、世界を救う場所ではない。

 迷宮で迷った者を全員助ける場所でもない。

 ただ、扉を開けた者に、必要な道具を売る店である。

 その線引きは、たぶん大切なのだと思う。

 少なくとも、レイはそう決めていた。

「では、作業に戻りましょう」

:切り替え早い

:いつもの

:今の流れで作業戻れるのすごい

:でも助かる

:作業音ください

:カードスペル続きだ


 レイは先ほどまで作っていたカードスペルを、もう一度手元に戻した。

 細い羽ペンの先に、小さな光が灯る。


「先ほどのお客様に渡したものは道標用でしたが、これは私が使う戦闘用です。見せる機会があるかは分かりませんが」

:戦闘用?

:急に不穏

:見せる機会ない方が平和では

:でもちょっと見たい


 店内には、また静かな作業音が戻ってきた。

 ひっかくような、細い音。

 魔法紙に術式が刻まれていく音。


 海は穏やかだった。

 棚の魔道具は静かに光り、カウンターの端では、ひび割れた帰還石だけが淡く光っている。

 今日の客は、もういない。

 けれど、どこかのダンジョンで、ひとりの新米冒険者が前へ進んでいる。

 魔法道具店ラウンレイフィは、今日も静かに営業していた。

 ミナ・オルセがダンジョンの出口へ辿り着いたのは、それから二時間ほど後のことだった。

 仲間とは合流できなかった。

 彼らは、ミナが戻るより先に外へ出ていた。


 それを知った瞬間、安心と怒りと情けなさが同時に込み上げた。

 生きていた。

 それはよかった。

 けれど、自分は置いていかれた。

 あるいは、自分が勝手にはぐれた。

 どちらにしても、結果は同じだった。


 冒険者ギルドの前で再会した時、仲間たちは気まずそうな顔をした。

 ミナも、うまく笑えなかった。

 誰が悪いのかを決める話ではない。

 たぶん全員が少しずつ悪く、全員が少しずつ未熟だった。

 ただ、次も一緒に潜るかと聞かれた時、ミナは首を横に振った。

「少し、一人でやってみる」

 強がりだった。

 だが、嘘ではなかった。

 地図を読めなければ迷う。

 道具を失えば生還は絶望に近づく。

 仲間とはぐれれば、誰も助けてはくれない。

 それを今日、嫌というほど知った。

 だからこそ、次は自分の足で歩きたいと思った。

 誰かを頼らないという意味ではない。

 誰かと組むためにも、まず自分の足で立てるようにならなければならない。

 ミナは宿へ戻る途中、腰袋に手を入れた。

 そこにはもう、道標のカードスペルはない。

 使い終わったカードは、出口近くで光になって消えた。

 残ったのは、薄い説明書だけだった。

 魔法道具店ラウンレイフィ。

 店主の名前は聞き忘れた。

 けれど、店の名前だけは覚えている。


「次は、ちゃんとお金を持っていく」

 小さく呟く。

 それがいつになるかは分からない。

 もう一度あの扉を見つけられる保証もない。

 それでもミナは、そう決めた。

 新米冒険者ミナ・オルセは、その日、依頼には失敗した。

 収支も赤字だった。

 帰還石を失い、薬草を失い、形ばかりの自信も失った。

 だが、生きて帰った。

 冒険者にとって、それは何よりも重い結果だった。


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