第3話 女将の未練
第3回 女将の未練
店内の喧騒が遠くへ去っていくような、奇妙な錯覚すら覚える静寂でした。
「ちょ、ちょっと二人とも、一体どうしたんだい? 旦那、うちの新人が何か失礼をしちまったかね!」
女将の焦った声に、邦明は肺に溜まった空気をすべて吐き出すように深く息を吐きだしてから大きく息を吸い、ようやく絞り出すような声を発しました。
「……女将。すまないが、この子を今すぐ店の奥へ連れていって、着替えさせてくれ。話はそれからだ」
その冷徹で、けれど微かに震える邦明の声音に、女将もただ事ではないと察しました。まさ子は小さく俯いたまま、女将に促されるようにしてパタパタとバックヤードへ退避していきました。
その後、店の奥の事務室で二人の本当の関係を聞かされた女将は、漫画のように大きく目を見開いて頭を抱えました。女将はまさ子の出自も、彼女が邦明の最愛の姪であることも、この瞬間まで何一つ知らなかったのです。まさ子を邦明の席へ案内したのも、本当にただの偶然に過ぎませんでした。
「いやあ……まさか旦那の姪御さんだったとはねえ。アタシも驚きすぎてひっくり返りそうだよ」
女将は額の汗を拭いながら、ソワソワと邦明の顔色を伺いました。けれど、その瞳の奥には、先ほど邦明に熱弁した「一万年に一人の逸材」に対する未練が、これでもかとばかりに、たらたらと残っていたのです。
「もちろんね、旦那のお許しが出ないことには、このまま雇ってあげるわけにはいかないけれど。でもさ、旦那もよくご存じの通り、うちはアキバでも指折りの超優良店だからさ。変な客なんて滅多に寄り付かないし、もし万が一そういう不埒な奴が来ても、完全対応できる屈強なスタッフが揃ってるんだから。 だからね、社会経験ということで、うちで少し姪御さんをお預かりするというのも、悪くない話だと思うんだけどねえ……。あ、もちろん! 路上でのハレンチな客引きなんか、絶対にさせないからさ!」
女将の必死のプレゼンテーションを、邦明はただ、腕を組んで冷たい一瞥をくれることで遮りました。
「……着替えは終わったか。行くぞ、まさ子」
私服に着替え、少し小さくなって部屋に入ってきたまさ子の手首を、邦明は捕まえるようにして握りました。そのまま女将の言い訳を背中で聞き流しながら、足早にリトルキャットの扉を押し開けて、外の現実の夜気の中へと連れ出したのでした。
秋葉原から駿河台へと続く薄暗い坂道を、二人は並んで歩いていました。行き交う車のヘッドライトが、アスファルトの上に二人の影を長く伸ばしては、すぐに消し去っていきます。
まさ子の手首を握っていた邦明の手は、いつの間にか、彼女の小さな手を包み込むような形に変わっていました。繋いだ手から伝わってくるまさ子の体温は、先ほどの緊張の残響のせいか、いつもより少しだけ熱い気がしました。
歩きながら、邦明の脳内では、未だかつてないほどの激しい思考のスパークが起きていました。
(さて……これは一体、どう怒ったものか)
彼は心中で、必死に「叔父」としての真っ当な理性を組み立てようとしていました。高校二年生の女の子が、親に内緒でメイドカフェの体験入店に潜り込むなど、普通の家庭であれば大説教の対象のように思えます。だが、今の時代の女子高生にとって、メイドカフェでのバイトくらい、単なるちょっとした社会勉強や流行りの延長線上に過ぎないのではないか、という時代を観察している冷静なハッカーとしての視点も頭をもたげます。
(もしこれを問題にするなら、葵姉さんと和樹義兄さんには、どう報告すればいい? あの二人が、まさ子のこんな行動を素直に認めるか? いや、認めるはずがない。となると、俺が二人の間に立って、口添えでもしてやるべきなのか?)
そこまで考えが至った瞬間、邦明の思考の回路に、強烈なエラーメッセージが走りました。
(いやだ。……俺の口から、そんな口添えができるわけがない。というか、俺自身が、普通に嫌だぞ)
その時、邦明の脳裏に、先ほどフロアで目撃したまさ子の、あの暴力的なまでに可憐なメイド姿が、鮮烈にフラッシュバックしました。
商売用の衣装とはいえ、あの足の付け根と同じ高さまで跳ね上がったひらひらのスカート。恥ずかしさから首筋から胸元までピンク色に染まった、眩しいほどの真っ白な素肌。あの無防備で、男の原始的な本能を刺激してやまない姿を、自分以外の他の男たちの目に晒し、あろうことか「旦那様」などと呼ばせるなど――想像しただけで、邦明の奥歯がギリリと鳴るほどの不快感が、胸の底から湧き上がってきたのです。
(これは……独占欲なのか? 俺は、まさ子を独占していいのか? 叔父という立場でありながら、彼女のすべてを他の男から遠ざけたいと願うことは、許されるのか?)
自らの胸の奥底に沈んでいた、あまりにも生々しい男の独占欲を突きつけられ、天才ハッカーは結論の出ない終わりのないループ処理の中に、完全に囚われてしまっていました。
そんな邦明の横顔と、繋いだ手のひらから伝わる微かな強張り、彼の張り詰めた息遣いを、まさ子はぽやぽぽやと眺めていました。
皆さんお察しの通り、邦明が今どれほど激しく内心で煩悶し、葛藤し、そして自分に対する強い独占欲に振り回されているかなど、まさ子にはとうにお見通しだったのです。
いつも自分の前では「大人の叔父」として冷静に振る舞っているおじさまが、自分のせいで、これほどまでに男として激しく動揺してくれている。
まさ子の胸の奥には、ザラメ砂糖を最高温度で煮詰めたような、甘くて、濃密な喜びが、じわじわと満ち溢れていました。おじさまが怒ってくれて、おじさまが私を誰にも渡したくないと苦しんでくれていることが、まさ子は心から嬉しくてたまらなかったのです。
(了)




