第2話 一万年に一人の、、、
秋葉原のジャンク路地を歩き、クリームソーダを飲みながら思い出話がたくさん聞けたあの日、まさ子は心からの充足感に満たされていました。叔父さまの過去、叔父さまの好きな世界、これらが自分の手の届くところにあると思える幸せ。
しかし、事件は唐突に、親友である詩織からの何気ないタレコミによってもたらされたのです。
「まさ子、ちょっと言いにくいお話があるのだけれど……」
放課後の教室で、詩織は少し困惑したような表情でまさ子を呼び止めました。
本来は深窓の令嬢と言うべき家の一人娘である詩織ですが、社会勉強を大いに勧める両親の教育方針で、色々なバイトを経験しています。
しかし今回は、あろうことかメイド喫茶でのアルバイトを密かに検討しているのだそう。さすがにこれは詩織の両親も許してくれないでしょうし、万が一にも知り合いにバレたら一大事ですから、慎重を期して、完璧な変装をし、従弟を偽装彼氏に仕立てカップルを装ってその店に偵察に赴いた、とのこと。
「そうしたら、何とびっくり」
詩織はその店で、信じられない人物を目撃してしまいました。まさ子の最愛の人、邦明おじさまが、若い店員の女の子たちに囲まれてとても親しげにしている姿。
それを聞いてもまさ子、叔父さまのことについては何も触れず。
「しいちゃんは、そのメイド喫茶屋さんで働くのですか?」
「ううん、優良店らしいけれど、さすがの私も、あのコスチュームは恥ずかしいよ。ちょっと無理かなあ。まあちゃんなんか恥ずかしすぎて、一歩も歩けなくなっちゃうんじゃない?」
詩織としては、まさ子がそんなお店で働くなどとは言い出さないように、牽制したつもりです。しかし、その気遣いは、まさ子の胸の奥にある別の火に油を注ぐ結果となりました。
普段はどこまでもふわゆるでのほほんと微笑んでいるように見えるまさ子ですが、その底には一族特有の濃密な情念がわだかまっており、嫉妬深さでいえば人後に落ちません。叔父さまが自分に隠してそういう趣味の店に通っているなど、とうていまさ子に許せることではありませんでした。
「叔父さまの裏の顔を、まさ子がお日様のもとに明らかにするのです」
それは、まさ子なりの大真面目な「潜入捜査」でした。詩織にできるなら自分もやってみせましょうという対抗心の時点ですでに間違っていますが、まさ子の行動は電光石火でした。
彼女はその日のうちに、詩織が口にしたメイド喫茶「リトルキャット」の門を叩き、すぐに行われた体験入店の面接をあっさりと通ってしまったのです。明日から来てください、いや何なら今日、今からでもと、ずいぶん熱心に言われましたが、いざとなるとだんだん怖くなってきます。結局、今日明日はちょっと用事があるので、明後日なら、ということになりました。
「叔父さまを見たというお話は、きっと、しいちゃんの見間違いです。だから、本当は、潜入捜査はいらないのです。でも、うちにはメイドさんはいませんから、こちらでのアルバイトはメイドさんの振る舞いの勉強になります。配膳のプロの方々ですから、きっと私ももっときれいなお茶出しを叔父さまにして差し上げられるようになれます」
こうとでも思わなければ、面接の時に見た、あのコスチュームを自分が身につけて知らないお客さんの前に出るなんて、とてもまさ子にはできそうもありません。元々、叔父さまが自分を裏切って悲しませるようなことをするなんてあり得ないと、単純に、だからこそ強く信じているまさ子です。
そんなまさ子の揺れる想いなど知る由もない邦明は、秋葉原の路地裏にひっそりと看板を掲げるリトルキャットの扉を開けていました。
邦明自身は萌えやメイドといった文化にはほとんど興味がありませんでした。可愛い女の子が着ていれば客観的に「ああ、可愛いね」と思う程度です。
しかし、小学校低学年の頃からこの街の表も裏も知り尽くしている彼には、ハッカーとしての職務上、そして情報収集のルートとして、この街のアンダーグラウンドな人間たちとの強固な人脈がありました。
この店も、2、3か月に一度くらいは顔を出して女将や常連たちと情報交換をしなければならない、仕事上必要な義理のある場所だったのです。今月、つい最近に顔を出していたのですが、何かオーナーが新しいネタを掴んだとのことで、明日また来て欲しいと連絡があり、約束どおり来店したのでした。
「あ、駿河台上の旦那! いらっしゃい、とりあえずまた店でゆっくり休んでいって下さいよ」
邦明が席につくなり、派手なメイクに身を包んだ名物女将が、大声を上げてすり寄ってきました。この街の酸いも甘いも噛み分けた女将は、邦明の顔を見るなり、興奮を隠しきれない様子で、しかし声を潜めてまくし上げました。
「ねえ旦那、実は今日ね、久しぶりの超上玉の子が入ってるんですよ。この子はまだネンネみたいでぽやぽやした感じですが、磨けば光り輝きますよ。まさに一万年に一人の逸材です。男に尽くす情念というか、恐ろしいほどのオーラみたいなものをアタシは感じるんですよ。丁寧に育ててうちの看板はもちろん、アキバメイド祭りでグランプリを取らせて、この街の顔から全国メジャーデビューまで、十分いける素材だとアタシは考えているんです。ついては、旦那のお目も借りたいもんでね」
邦明としては、いまさら新しいアイドルの原石だのと言われても困るのが本音でした。しかし、これも大切な仕事の付き合いです。それに、女将の口から出た「ネンネみたいでぽやぽや」「男に尽くす情念」という言葉が、妙に胸に引っかかったのです。
「……まぁ、そこまで言うなら、今日はその新人の子に接客してもらうことにしようか」
「話が早くて助かりますよ! あ、本当に初めての初めてで、今日からの体験入店なもんですから、コスチュームに恥ずかしがってね。どもりまくって、噛みまくって、今のところまともな接客にはなってませんので、旦那も彼女の素材だけを見てやってくださいね。いや、でもきっと、旦那のお好みだと思いますよ、ウフッ」
長年の付き合いから、なんとなく邦明の好みを察している女将は、そんな軽い冗談を言い残して店の奥へと消えていきました。
当然ですが、女将は今日入ったばかりのこの新人が、目の前の「旦那」の姪であるなどとは夢にも思っていません。出自も関係も何一つ知らないまま、ただ上客である邦明へ、その大型新人を最初の研修として案内しただけです。新人のういういしい反応を好むお客さんも多いため、接待のつもりの女将。
一方、お盆を両手でぎゅっと握りしめたまさ子は、ついにリトルキャットのフロアへと踏み出しました。
一歩歩くたびに、フリルのついた短いスカートが大きく揺れます。まさ子は緊張のあまり頭が真っ白になり、心臓の音が耳の奥で爆音となって響いていました。対抗心と潜入捜査のつもりで着替えたものの、いざフロアに出ると、自分がどれほど無茶な格好をしているかが生々しく自覚されてしまったのです。
もちろん、商売用の衣装ですから、見られても良いように中には目立たない短パンをしっかりと穿いています。しかし、それを差し引いても、ひらひらのメイドコスのスカート丈は、ほぼ足の付け根と同じ高さくらいまで跳ね上がっていました。さらに、首筋から胸元ギリギリまで、緊張感と恥ずかしさからほんのり上気した眩しいほどの真っ白な素肌が露出しています。
高校二年生のまさ子ですが、その童顔とぽやぽやとした雰囲気は、この衣装を着ることで確実に中学生以下にしか見えない可憐さを生み出していました。男という生き物であれば、たとえロリータ趣味がなくても、その場で押し倒してしまって全く不思議ではないほどの、圧倒的な仕上がりだったのです。
まさ子は、指示されたテーブルの前に立つと、あまりの恥ずかしさに客の顔をまともに見ることすらできず、お盆を震わせながら、蚊の鳴くような声でセリフを口にしました。
「お、おおおおおお帰り帰り……お帰りなさいませ、だだだだだ、旦那様……」
どもりまくり、噛みまくった、壊れた人形のような最初のお給仕。
しかし、その声を聞いた瞬間、テーブルでノートパソコンを叩いていた邦明の指が、完全に凍りつきました。聞き間違えるはずのない、世界で最も親しい少女の声だったからです。
邦明が恐る恐る顔を上げ、まさ子もまた、目の前の客の顔を覗き込んだその瞬間――。
「……叔父さま!?」
「まさ子……っ!?」
秋葉原随一の繁盛店の喧騒の真ん中で、二人の間の時間だけが完全に静止しました。
お互いに目を見開いたまま、一言の声も出せないまま、石像のように固まってしまった二人。首まで真っ赤にして震えるメイド姿のまさ子と、真っ青な顔で絶句している邦明。
二人の間に流れるあまりにも異常な空気に、店の奥から様子を伺っていた女将が、さすがにただ事ではないと気づき、大慌てで二人の元へと駆け寄ってきたのでした。
(了)




