第九章 また明日
惟人の練習が終わる頃には、リンクの外もすっかり明るくなっていた。
三月の朝はまだ空気が冷たい。それでも早朝特有の青白さは薄れ、施設の中にも人の出入りが増えている。スタッフが行き交い、別のコーチがリンク脇で予定を確認し、少しずつ子どもたちの声も聞こえ始めた。
晴は結局、惟人の練習をほとんど最後まで見ていた。
途中から眠気も抜けたらしい。最初は椅子の背にもたれていた身体がいつの間にか前へ傾き、ジャンプに入るたび視線だけが細かく動いている。
惟人はそれに気づいていたが、何も言わなかった。
四回転サルコウについて一度口を出してから、晴はしばらく黙っていた。
けれど完全に黙っていられたわけでもない。
トリプルアクセルでわずかに身体が先行すれば、「今の急いだね」と言う。
コンビネーションの着氷で少し詰まれば、「二本目に行く前に左落ちてる」と言う。
惟人が振り返ると、晴はそのたび何でもない顔をしていた。
自分から指導しているつもりなど、たぶんない。
見えたから言う。
昔からそうだった。
そして惟人も、「見るな」とも「言うな」とも思わなかった。
むしろ、久しぶりだった。
自分のジャンプを晴が見ている。
いいとか悪いとか、勝手に口を出してくる。
それだけで、練習の中にずっと欠けていたものが一つ戻ってきたような感覚があった。
もちろん、だからといって以前と同じではない。
リンクの上にいるのは惟人一人で、晴は外にいる。
そこにはまだ大きな距離がある。
それでも、その距離が昨日までよりわずかに縮まったように思えた。
練習を切り上げてリンクを上がると、晴がこちらを見た。
「終わり?」
「今日はな」
「短くない?」
「お前、俺を何時間滑らせる気だよ」
「昔もっとやってたでしょう」
「昔と同じ量やったら休養にならない」
晴はそこで少し笑った。
「ちゃんと休むんだ」
その言い方に、惟人は眉を寄せた。
「お前にだけは言われたくない」
「僕も寝たよ」
「車でな」
「三時間くらい?」
「それを睡眠時間として自慢するな」
晴はまた笑った。
昨日の朝より、表情が少し柔らかい。
夜通し働いてきた人間にしては顔色がいい、とは到底言えない。目の下には薄く疲れが残っているし、惟人のジャンバーから出ている指先もまだ冷たそうだった。
けれどリンクへ来たときよりは、明らかに目が覚めている。
惟人が汗を拭きながら水を飲んでいると、リンクの入口から子どもの声が聞こえた。
「いた!」
晴がそちらを見る。
昨日、最初にサルコウを見た少年だった。
スケート靴を片手に持ち、こちらへ走ってくる。
その後ろから母親らしい女性が「走らないの」と注意していたが、本人は聞いていない。
少年は晴の前まで来ると、嬉しそうに言った。
「今日も来た!」
晴は一瞬だけ目を丸くした。
昨日は明日考える、としか答えていなかった。
だから自分が来たことを喜ばれるとは、たぶん思っていなかったのだろう。
「来たよ」
晴が答える。
「サルコウ練習した」
「昨日のあと?」
「うん」
「どうだった?」
「三回跳べた」
「三回だけ?」
晴が冗談めかして言うと、少年がむっとした。
「昨日まで一回もできなかったの!」
「それならすごい」
晴はすぐに訂正した。
その言い方が本当に素直だったので、少年もすぐ機嫌を直した。
「今日も見て」
「先生に聞いて」
「榊先生?」
「そう」
少年はすぐ惟人を見る。
「見てもらっていい?」
惟人は晴を見た。
晴は少し困った顔をしている。
昨日と違って、今日は惟人自身のレッスンが始まる前だった。
ここで勝手に子どもを指導していいのか、晴なりに気にしているのだろう。
「いいよ」
惟人が答えた。
「ただし俺の言うことも聞けよ」
「分かってる!」
少年は嬉しそうに返事をして、準備へ戻っていった。
晴がその背中を見送ってから、惟人を見る。
「いいの?」
「何が」
「僕が見て」
「嫌なら断るけど」
「嫌じゃない」
返事は思ったより早かった。
晴自身もそれに気づいたらしく、少しだけ黙った。
惟人はそこを追及しなかった。
「じゃあ見てやれば」
そう言って、タオルを肩へ掛けたまま更衣スペースへ向かう。
晴はその場に残った。
子どもたちが次々と来る。
昨日ダブルアクセルを見た女の子もいた。
晴を見つけると、少し嬉しそうな顔をする。
「昨日のあと、もう一回跳べた」
「ほんと?」
「先生にも見てもらった」
「よかったね」
晴は自然に笑った。
昨日と同じように大きなジャンバーを着て、顔もほとんど隠している。
だから子どもたちは、まだ晴が誰なのか知らない。
榊惟人の知り合い。
ジャンプを見てくれる人。
今のところ、それだけだ。
晴にとっても、その方が楽だった。
九条晴として見られない。
五輪金メダリストでも、世界王者でも、二年前に突然消えた選手でもない。
ただ、目の前のジャンプを見て、気づいたことを言う。
その距離がちょうどよかった。
やがてレッスンが始まる。
今日は惟人だけでなく、別のコーチも何人か入っていた。
晴は最初、昨日と同じようにリンクサイドの椅子へ座っていた。
けれど少年がサルコウを跳び始めると、すぐ目で追った。
一本目。
昨日より助走が速い。
ただ、踏み切り前でまた少し速度が落ちる。
二本目。
今度は勢いを保てたが、上半身が先に開いた。
三本目で転んだ。
少年がこちらを見る。
晴は手で小さく合図した。
こっちへ来て、という意味だ。
少年が滑ってくる。
「昨日よりいい」
晴が先に言った。
失敗したことを指摘されると思っていたのか、少年は少し意外そうな顔をした。
「転んだよ」
「転んだけど、昨日よりちゃんと跳んでる」
晴はリンクの中を指した。
「助走、昨日より落ちてないでしょう。今はその方が大事」
「でも転ぶ」
「転んでもいいよ。回ってるから」
少年は少し考えた。
「次どうする?」
その聞き方に、晴は一瞬だけ笑った。
昨日までは「どうしたら跳べる?」だった。
今日は「次どうする?」になっている。
それだけで、何かを一緒にやっているような感じがした。
「今度は肩だけ」
晴が言う。
「踏み切る前にこっち開いてるから、それだけ気をつけて。助走は変えなくていい」
少年が頷く。
リンクへ戻る。
晴は追いかけるように声を出さなかった。
自分でできるかを見る。
少年が助走へ入る。
速度は悪くない。
最後まで落ちない。
踏み切り。
身体が回る。
着氷。
今度は少し前傾したものの、転ばなかった。
少年が勢いよくこちらを振り返る。
晴は笑って、親指を立てた。
その様子を、惟人はリンクの反対側から見ていた。
晴が昨日より自然に子どもと話している。
一つ失敗するたび全部直そうとせず、今日はこれだけ、と絞っている。
できたところを先に言う。
本人が何を怖がっているかを見る。
惟人には、その教え方が少し意外だった。
晴は現役時代、自分にはかなり容赦がなかった。
惟人にも容赦がなかった。
「今の最悪」
「降りただけじゃん」
「曲と合ってない」
「そのスピン遅い」
そんなことを平然と言っていた。
惟人も同じだったから問題にならなかったが、子ども相手ならどうなるのかと少し思っていた。
ところが晴は、思ったよりずっと相手を見ている。
厳しくないわけではない。
できていないところはちゃんと言う。
けれど、相手が何を理解できるかを見ながら言葉を選んでいる。
自分が感覚で滑る選手だったからこそ、言葉へ直すのは苦手かと思っていた。
実際、昨日ダブルアクセルを説明したときには、少し困っていた。
それでも、一晩経ってもちゃんと続きを見ている。
教えることそのものに、晴は向いているのかもしれない。
その考えが浮かんだところで、惟人は一度頭の中から追い出した。
まだ早い。
昨日見つけたばかりだ。
本人が何をしたいかも分かっていない。
こちらが先に将来を決めるべきではない。
そう思いながらレッスンを続けていると、今度は別の子が晴のところへ行った。
そして、その次も。
気づけば昨日と同じように、休憩のたび晴の周りに子どもが集まるようになっていた。
「一人ずつ」
晴が笑いながら言う。
「僕、目二つしかないから」
「スピンから!」
「私ジャンプ!」
「順番ね」
その声を聞きながら、惟人は少しだけ笑った。
レッスンが終わった頃には、晴もさすがに疲れたようだった。
ずっと滑っていたわけではない。
ほとんど立って見ていただけだ。
それでも明け方まで仕事をして、そのまま来ている。
身体が平気なわけがない。
子どもたちが帰り始めると、晴は椅子へ座って背もたれに身体を預けた。
「疲れた」
今度は自分から言った。
惟人は近くの自動販売機で温かい飲み物を買い、晴へ渡した。
「だから寝ろって言っただろ」
「寝たよ」
「三時間な」
「結構寝た」
「全然足りない」
晴は缶を両手で包む。
冷えていた指先が温まるのが気持ちいいらしい。
しばらく黙っていたが、やがて小さく言った。
「でも来てよかった」
惟人はすぐには返事をしなかった。
晴は缶を見ている。
「昨日の子、跳べてたし」
「見てた」
「ダブルアクセルの子も、昨日よりよかった」
「うん」
「子どもって、一日でも変わるんだね」
晴は少し不思議そうだった。
自分自身も子どもの頃は、毎日のようにできることが増えたはずなのに、それを外から見るのは初めてなのだろう。
「お前もそうだったよ」
惟人が言う。
晴が顔を上げた。
「僕?」
「昨日できなかったこと、次の日には普通にやってた」
「そんなことないよ」
「ある。俺がどれだけむかついたと思ってんだ」
晴は笑った。
「惟人もすぐできてたじゃん」
「お前より二年先に始めてんのに追いついてくるから腹立ってたんだよ」
「知らなかった」
「言ってないからな」
そんな話をするのも久しぶりだった。
競技成績でも、メダルでもない。
小さかった頃のリンク。
昨日できなかったものが、今日できた。
それだけで一日中嬉しかった頃のこと。
晴はしばらく昔を思い出すようにリンクを見ていた。
氷はすでに整備へ入っている。
人が減り、さっきまでの賑やかさが嘘のように静かになっていた。
「晴」
惟人が呼ぶ。
「何?」
「しばらくここ来る?」
晴はすぐには答えなかった。
昨日なら、同じような質問をされても「分かんない」と言っただろう。
実際、子どもに明日も来るのか聞かれて、そう答えた。
けれど今日は少し違う。
晴は手の中の温かい缶を見ながら、考えていた。
仕事がある。
返さなければならない金もある。
夜のシフトもある。
配達もある。
この場所へ毎日来る余裕が、自分にあるのかは分からない。
何より、自分はもうスケートをする人間ではない。
ここへ来続けていいのかという気持ちも、どこかにある。
惟人はその沈黙を急かさなかった。
「毎日じゃなくていい」
少ししてから言った。
「俺がここにいるとき、来たければ来ればいい。子ども見るのも、嫌じゃないなら手伝ってくれていい」
晴が惟人を見る。
「手伝う?」
「うん」
「僕が?」
「他に誰がいるんだよ」
晴は少し戸惑った。
昨日まで、自分の一日は働くためにあった。
今日も本来なら、帰って眠り、また夜の仕事へ行く。
その中に突然、「リンクへ来る」という場所ができようとしている。
しかもそれは、金を返すためでも、生活するためでもない。
来たいなら来ればいい。
子どもを見たいなら見ればいい。
それだけの理由で、ここにいていいと言われている。
晴にとって、その自由は少し扱いに困るものだった。
「迷惑じゃない?」
ようやく出た言葉がそれだった。
惟人は眉を寄せる。
「誰に」
「惟人とか、他の先生とか」
「お前が勝手に好き放題教え始めたら怒るけど、俺のところで手伝う分には俺が決める」
「でも」
「それに」
惟人は少しだけリンクの方を見る。
「子ども、喜んでるだろ」
晴もそちらを見る。
もうほとんど帰ってしまったが、さっきまで自分の周りにいた子どもたちの姿が浮かぶ。
跳べた、と笑っていた顔。
また見て、と言われた声。
明日もいる、と聞かれたこと。
誰かに必要とされるという感覚は、晴にとって久しぶりだった。
もちろん仕事でも必要とはされる。
人手が足りない。
シフトを埋める。
配達を届ける。
そこにも役割はある。
けれど、あれとは少し違う。
晴だから見てほしい、と言われた。
まだ自分が九条晴だと知らない子どもに。
それが、不思議だった。
「……じゃあ」
晴は少し考えてから言った。
「仕事ないときなら」
惟人はすぐ眉を寄せた。
「その仕事を減らせ」
「それは別の話」
「別じゃない」
「今はここに来る話でしょう」
「お前そういうとこ昔からずるいよな」
「何が?」
晴は本気で分かっていない顔をしている。
惟人はため息をついた。
それでも、その場で仕事の話を蒸し返すのはやめた。
今は一つでいい。
晴がここへ来る。
それを自分で選んだ。
昨日より、それだけ前へ進んでいる。
「じゃあ、来れる日は来い」
惟人が言う。
晴は少しだけ笑った。
「うん」
短い返事だった。
けれど今度は、「明日考える」ではなかった。
リンクを出る前、晴は一度だけ氷を振り返った。
乗りたいとは、まだ思わない。
少なくとも、本人はそう思っていた。
あそこはもう、自分の立つ場所ではない。
そう決めたはずだった。
それでも昨日までなら、できるだけ見ないようにしていた氷を、今日は自分から振り返っている。
子どもが跳ぶところを見たい。
惟人が滑るところを見たい。
また来てもいいと思う。
今は、それだけだった。
それだけで十分だと、惟人は知っていた。
だから何も言わず、晴が自分からリンクを離れるまで隣で待っていた。




