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春待氷  作者: りん
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第十章 削るもの


それから数日、(はる)は本当にリンクへ来た。


毎日ではない。


黒服の仕事が長引いた翌朝はさすがに来なかったし、配達の予定が入っている日はそちらを優先した。それでも、以前の晴の生活にはなかった場所へ、週のうち何度か自分から足を運ぶようになった。


最初は、ただ惟人(いと)の教室に顔を出すだけだった。


けれど子どもたちは、晴が来ればすぐ見つけた。


「先生!」


「先生じゃないって」


「でも昨日見てくれた」


「それは見ただけ」


「今日も見て」


そんなやり取りが、いつの間にか当たり前になった。


晴自身も、最初のうちは「少し見るだけ」のつもりだった。


けれど一人のジャンプを見れば、次の失敗も気になる。


昨日うまくいかなかったものが、今日はどうなったのか見たくなる。


スピンの軸が安定し始めた子がいれば、どこまでできるのか見届けたくなる。


そうやって気づけば一時間。


二時間。


リンク際に立っている。


帰る頃には脚が重くなっていることもあった。


それでも晴は、そこを問題だとは思っていなかった。


仕事のあとに少し寄っただけ。


滑っているわけでもない。


昔の練習量に比べれば、何もしていないに等しい。


だから、その後に配達へ出ても、夜の仕事へ行っても、大丈夫だと思っていた。


実際、最初の数日は大丈夫だった。


ただ、大丈夫だったというより、どうにか動けていたという方が近かったのかもしれない。


惟人の家へ戻れば食事は出るようになった。


以前より確実に食べている。


睡眠も、以前よりは長く取る日が増えた。


それでも、身体がすぐに戻るわけではない。


一年半以上かけて削ったものを、数日食べたからといって取り返せるはずがなかった。


そのことを、晴より先に惟人が気づいた。


ある日の昼過ぎだった。


午前中、晴は教室で子どもたちを見ていた。


その日はダブルアクセルを練習している子が多く、晴も何人か続けて見ていた。


いつもなら、一人終われば少し座る。


けれどその日は、次から次へ声をかけられ、そのままリンク際に立っていた。


「踏み切り急がないで。今のは前に乗れてるから、そのままでいい」


言いながら、晴は腕を組んでリンクを見ていた。


そこへ次の子が来る。


「これも見て」


「いいよ」


答えてから、晴は一歩横へ動いた。


その瞬間、少しだけ身体が傾いた。


ほんの一瞬だった。


転ぶほどではない。


晴自身もすぐ足を戻した。


けれど、惟人は見逃さなかった。


「晴」


呼ばれて、晴が振り返る。


「何?」


「座れ」


「大丈夫だよ」


「いいから座れ」


惟人の声がいつもより低かった。


晴は少し不満そうな顔をしたが、結局近くの椅子へ座った。


惟人はレッスンを別のコーチへ任せ、水を持って晴のところへ来る。


「朝何食った」


「食べたよ」


「何」


「トーストと卵」


「昼は」


晴は少し黙った。


その沈黙だけで十分だった。


「何も食ってないだろ」


「あとで食べようと思ってた」


「もう二時だぞ」


「そんな時間?」


晴は時計を見て、本当に少し驚いた顔をした。


惟人は眉間を押さえた。


この数日、似たようなことが何度かあった。


リンクへ来る。


子どもを見る。


集中する。


気づけば食事の時間がずれている。


その後、そのまま仕事へ行く。


今までは仕事の合間に安いものを食べていた。


けれど今は、そこへリンクが加わったぶん、単純に使える時間が減っている。


晴はやりたいことを増やしたのに、仕事を減らしていない。


結果として、また食事と睡眠が削られ始めていた。


「今日、夜仕事ある?」


惟人が聞いた。


「ある」


「休め」


「無理」


返事が早かった。


「昨日も遅かっただろ」


「でも今日はシフト入ってる」


「それ何回目だよ」


「何が」


「シフト入ってるからって言えば全部通ると思うな」


晴は少し眉を寄せた。


「通すとかじゃなくて、仕事だから行くんだよ」


「その身体で?」


「働けてるでしょう」


「今ふらついた」


「ちょっと立ちくらみしただけ」


「それを大丈夫とは言わない」


晴は黙った。


惟人は少し息を吐いた。


怒鳴りたいわけではない。


責めたいわけでもない。


ただ、このままではまた同じことになる。


食べる時間を削る。


寝る時間を削る。


身体が動く限り、さらに働く。


そこへ今はリンクまで入っている。


晴にとって、リンクへ来ることは楽しい。


だからやめない。


仕事も必要だからやめない。


結果、削られるのはまた自分自身だった。


「このまま両方やるの無理だぞ」


惟人が言った。


晴は少し考えた。


「じゃあ」


その返事は意外なくらい早かった。


「リンク来るのやめる」


惟人は一瞬、何を言われたのか分からなかった。


「……は?」


「だって仕事はしないといけないでしょう」


晴はごく普通のことを説明するように続ける。


「夜も配達も、減らしたらその分返済遅くなるし。リンクは来なくても困らないから」


惟人は黙った。


晴にとっては、本当にそれだけの話なのだ。仕事も返済も必要で、リンクは楽しいけれど、なくても生活はできる。


なら、削るのはリンクだった。


その判断に迷いがないことが、惟人には思っていた以上に腹立たしかった。


「なんでそっち削るんだよ」


晴が少し驚いた顔をする。


「だって仕事は必要だから」


「リンクだって来たいんだろ」


「来たいけど」


晴は少しだけ言葉を探した。


「来なくても死なないでしょう」


その一言を聞いた瞬間、惟人は言葉を失った。


晴自身は、何もひどいことを言ったつもりはない。


ただ、この二年間ずっとそうやって選んできたのだ。


生きるために必要か。


返済に必要か。


それ以外は後回し。


食べたいもの。


欲しい服。


休みたいという気持ち。


誰かに会いたいという気持ち。


全部。


なくても死なないなら、削っていい。


そうして残ったのが、今の生活だった。


惟人はそのことを、今さらのようにはっきり理解した。


「お前さ」


声が少し低くなる。


晴が惟人を見る。


「何」


「何でもかんでも、自分が欲しいものから先に捨てるのやめろよ」


晴は少し黙った。


意味が分からないというより、言われたことを受け止めかねている顔だった。


「でも」


「でもじゃない」


惟人はリンクの方を見る。


さっきまで晴を呼んでいた子どもたちがいる。


今日はもう別のコーチについている。


晴がいなければ、教室は普通に回るだろう。


確かに、晴の言う通り、来なくても誰かが死ぬわけではない。


それでも。


だから削っていいという話ではない。


惟人はしばらく黙ったあと、晴を見た。


「じゃあここで働けよ」


今度は晴が黙った。


「……え?」


「ここで仕事にすればいい」


「何を?」


「子ども見るの」


晴はしばらく惟人の顔を見ていた。


冗談かどうか確かめているようだった。


「僕、見てるだけだよ」


「見てるだけの奴がサルコウ直すかよ」


「でも、それは」


「ダブルアクセルも見た。スピンも見てる。俺のジャンプまで勝手に直した」


「惟人のは別でしょう」


「別じゃない」


惟人は即答した。


晴はまだ納得していない。


「でも僕、コーチじゃないし」


「最初からコーチとして雇うなんて言ってない」


惟人は少し考えながら続けた。


「アシスタントでいい。俺か他のコーチがいるときに子ども見る。勝手にメニュー組まない。正式な指導はこっちで確認する。その範囲なら今だってやってるだろ」


晴は黙って聞いていた。


「それに給料出す」


その言葉で、晴の表情が変わった。


少しだけ警戒する。


惟人はすぐ分かった。


晴が何を考えたのか。


「惟人のところだから?」


案の定だった。


「何が」


「僕だから雇うの?」


「お前だからだよ」


晴の顔が少し曇る。


惟人は続けた。


「ただし、友達だからじゃない」


晴が黙る。


「使えない奴に金払うほど、俺の教室余裕ねえよ」


言い方はかなり乱暴だった。


けれど、晴にはその方が伝わると思った。


「昨日から何人見た? お前が言ったこと試して、実際できるようになってる子いるだろ。子どももお前のところ来る。俺から見ても、見る目ある」


晴は視線を落とした。


褒められている、という受け取り方ではないのかもしれない。


ただ、事実を並べられている。


その方が晴には受け取りやすかった。


「資格とかは?」


「必要なことはこっちで確認する。最初は補助だから、できる範囲だけやればいい」


「時給は?」


その質問が出た瞬間、惟人は少しだけ笑いそうになった。


晴らしいと思った。


働くという話になれば、そこはきちんと聞く。


「今決めてるアシスタントの額と同じ」


「特別扱いなし?」


「なし」


晴は少し考えた。


「黒服より安い?」


「たぶんな」


「じゃあ」


「でも夜中まで立ちっぱなしじゃない。移動も減る。ここなら俺が飯食わせられる」


「最後のは仕事の条件じゃないでしょう」


「俺にとっては条件」


晴は少し困ったように笑った。


それでも、すぐには答えなかった。


働くならいい。


金をもらうなら、それは援助ではない。


自分がしたことに対して対価をもらう。


そこまでは、晴にも理解できる。


けれど同時に、これは惟人の場所でもある。


自分がここへ来たいと言ったから、惟人が仕事を作っただけではないのか。


その疑いはまだ残っている。


「本当に必要?」


晴が聞いた。


惟人は少し眉を寄せた。


「何が」


「僕」


その聞き方が、惟人には少しだけ気に入らなかった。


必要かどうか。


晴は何でもそこへ戻す。


必要ならいる。


必要でなければ消える。


この二年間、そうやって自分の居場所まで決めてきたのかもしれない。


「必要かどうかは働いてから決める」


惟人はそう言った。


晴が顔を上げる。


「最初から大戦力だなんて言ってない。使えるか見て、駄目なら駄目って言う。使えるならその分仕事増やす。それでいいだろ」


晴はしばらく惟人を見ていた。


たぶん、それなら受け入れられる。


情ではない。


評価される。


役に立たなければ切られる。


その方が、ずっと分かりやすい。


「……じゃあ」


晴は少し考えてから言った。


「やってみる」


惟人はすぐには笑わなかった。


ただ頷く。


「じゃあ明日、条件ちゃんと出す」


「今日じゃないんだ」


「俺、今レッスン中なんだけど」


晴はそこでようやく少し笑った。


「そうだった」


「あと今日は夜の仕事休め」


「それは」


「今日は休め」


「まだ話終わってない」


「終わってる」


晴は不満そうだった。


けれど、さっきより表情は軽い。


リンクへ来ることをやめなくていい。


それどころか、ここへ来る時間が仕事になる。


その考えは、晴にとってまだ不思議だった。


スケートは、この二年間ずっと金のかかるものだった。


父が残した借金と、どこかで結びついていた。


リンク代。


靴。


衣装。


遠征。


コーチ。


全部。


自分が滑るほど金がかかった。


だから辞めたあと、スケートは生活を苦しくしたものとしても残っていた。


そのスケートが。


今度は。


自分の生活を支える仕事になるかもしれない。


晴はそのことを、まだうまく実感できなかった。


それでも、少しだけ。


何かが逆向きに動き始めたような気がした。


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