第十一章 組み直す
翌日、惟人は本当に条件を出した。
口約束のまま曖昧にする気はなかったらしい。簡単ではあるが仕事内容と時間、時給を書いた紙を用意し、晴の前へ置いた。
「見るだけじゃないんだ」
晴は紙を手に取りながら言った。
「当たり前だろ。仕事なんだから」
内容は、惟人か他のコーチがいる時間帯での指導補助だった。
子どもの練習を見ること。
ジャンプやスピンについて気づいたことがあれば、担当コーチと共有すること。
一人でレッスンを任されるわけではない。
競技プログラムを組むわけでもない。
あくまで補助。
それでも、晴がここ数日やっていたことの多くは、その中に収まっていた。
「週何回?」
「最初は二、三回。お前の体調見ながら」
晴はすぐ眉を上げた。
「体調で勤務決めるの?」
「決める」
「普通そんなのある?」
「今のお前は普通の新人じゃない」
「特別扱いなしって言ったじゃん」
「給料はな」
惟人は平然と答えた。
「労務管理まで放棄するとは言ってない」
晴は少し不満そうだった。
それでも、時給のところはかなり真剣に見ている。
惟人が提示した額は、黒服ほどではない。
けれど配達のように天候や時間帯で上下するものではなく、働いた時間分は確実に入る。
移動も少ない。
何より、リンクへ来るために別の時間を確保する必要がなくなる。
晴はそこまで読んでから、一度紙を置いた。
「これなら配達減らせる」
惟人は少しだけ驚いた。
もっと渋ると思っていた。
晴にとって仕事を減らすことは、返済が遅れることとほとんど同じ意味だったからだ。
「減らすの?」
「うん」
「どれ」
「ユーバー」
返事は早かった。
「集荷と配達は?」
「残す」
「黒服」
「残す」
惟人の眉間に皺が寄った。
「じゃああんまり減ってねえだろ」
「減ってるよ」
晴は本気でそう思っている顔をした。
スマートフォンを取り出し、予定表を開く。
「今までは空いてる時間にユーバー入れてたから。ここが固定になるなら、その時間にユーバーしなくて済むでしょう」
惟人は画面を覗き込んだ。
晴の予定は、相変わらず仕事で埋まっていた。
配送。
黒服。
配達。
そこへ新しくリンクが入る。
一見すると、仕事が一つ増えただけにも見える。
けれど晴の頭の中では違うらしい。
「配送の方が単価いいし」
晴は画面を見ながら説明する。
「一回入ればまとまった額になるから、こっちは残す。黒服も時給いいし、賄い出る日あるから残す」
「賄いを労働条件の上位に入れるな」
「大事だよ」
「今は家で食わせてるだろ」
「それはそれ」
晴はさらっと流した。
「ユーバーは時間自由だけど、待つ時間あるし、雨だと大変だし。こっちで固定で入れるなら、その分減らせる」
惟人はそこでようやく、晴が感情ではなく、本当に収入効率で組み替えていることを理解した。
リンクが好きだから配達を減らす、ではない。
惟人に言われたからでもない。
単価、拘束時間、移動、身体への負担。
それを見て、晴なりに最も効率のいい形へ変えている。
その現実的な判断に少し安心する一方で、惟人はまだ納得していなかった。
「黒服も減らせ」
「今すぐは無理」
「なんで」
「シフトあるから」
「またそれかよ」
「でも本当にあるんだから」
晴は笑った。
「急に全部抜けたら困るでしょう」
惟人は言い返しかけてやめた。
そこは晴の言う通りだった。
仕事先にも都合がある。
今まで入っていたシフトを、今日から全部やめますと言えるわけではない。
晴は責任感が強い。
それを無理に否定する気もなかった。
「じゃあ徐々に」
惟人が言う。
「何が?」
「夜の方も減らす」
「条件次第」
「何の」
「収入」
即答だった。
惟人は少し呆れたように晴を見る。
「お前ほんと全部金で考えるな」
「返済あるから」
晴は悪びれない。
その一言で、会話はいつも同じ場所へ戻る。
返済。
晴にとっては、今もそこが中心だった。
惟人は、すぐにそれを変えようとは思わなかった。
二年間かけて身体に染みついたものを、数日で手放せるわけがない。
ただ、少しずつ別の基準を増やすことはできる。
食べる、眠る、リンクへ来る、子どもを見る。
そういうものが、晴の生活の中で「削ってもいいもの」ではなくなればいい。
その日の夜。
惟人が風呂から上がると、晴はリビングのテーブルにスマートフォンとメモ帳を広げていた。
珍しくテレビもつけていない。
かなり真剣な顔をしている。
「何してんの」
声をかけると、晴は顔も上げずに答えた。
「仕事組み直してる」
「もう?」
「時給決まったから」
晴にとっては当然らしい。
紙には曜日と時間が細かく書かれている。
その横に、それぞれの仕事の収入らしき数字。
惟人は少しだけ嫌な予感がした。
「見ていい?」
「うん」
晴は紙を差し出した。
惟人はしばらく黙って見た。
月曜、リンク。
火曜、配送。
水曜、リンク。
木曜、黒服。
金曜、配送。
週末は状況によって黒服か配達。
以前よりユーバーは明らかに減っている。
それ自体はいい。
ただ、空いた時間が休みになっているわけではない。
ほぼ別の仕事へ置き換わっていた。
「これ、休みどこ」
惟人が聞く。
晴は少し考えた。
「ここ」
指さしたのは、半日だけ空いているところだった。
「半日じゃねえか」
「前よりあるよ」
その言葉に、惟人は黙った。
晴にとっては、本当に改善なのだ。
今まで休みなどほとんどなかった。
だから半日空けば、十分に「休み」として認識できる。
惟人は紙をテーブルへ戻した。
「これで月いくら」
晴はすぐ答えた。
「だいたいこのくらい」
計算した数字を見せる。
「前よりちょっと増える」
晴は少し嬉しそうだった。
「リンクの分あるから」
惟人もそこまでは理解できる。
ところが晴はそのあと、ごく自然に言った。
「これなら返済額増やせる」
惟人は一瞬黙った。
それから、思いついたように言う。
「じゃあ、家賃減らせば?」
晴が顔を上げた。
「……家賃?」
「うん」
惟人は晴の手元にある予定表を指で軽く叩いた。
「収入増やした分を全部返済に突っ込むより、毎月出ていく方を減らせばいいだろ」
晴は少し考えた。
「でも、どうやって」
「お前、今あの部屋ほとんど使ってないじゃん」
言われて、晴は黙った。
確かにそうだった。
再会した夜に最低限の荷物を持ち出して以来、あの部屋へ戻ったのは自転車を取りに行ったときくらいだ。
仕事が終われば惟人の家へ帰る。
そこから仕事へ行く。
食事、風呂、睡眠も。
いつの間にか、生活の大半がこちらへ移っている。
それでも晴の中では、あの四畳半の部屋がまだ自分の家だった。
契約しているし、荷物も残っている。家賃も払っている。
だから、そこをなくすという発想自体がなかった。
「必要なもの、こっち持ってくればいいだろ」
惟人が続ける。
「残りは処分するなり、必要なら一時的にどっか預けるなりして。あの部屋引き払えば、その分毎月浮く」
晴はまだ少し戸惑っていた。
「でも」
「何」
「僕、ここにずっといることになるよ」
その言葉を聞いて、惟人はほんの一瞬だけ返事に詰まった。
晴は何の含みもなく言っている。
家賃をなくす。
なら、住む場所が必要になる。
今は惟人の家にいる。
だから、そのままずっとここにいることになる。
晴の中では、それだけの話だった。
けれど惟人にとっては、少し違う。
好きな相手が。
二年ぶりに戻ってきた晴が。
自分の家を正式な居場所にする。
その意味を、考えない方が難しい。
それでも、そこを顔に出すわけにはいかなかった。
「もうほとんどいるだろ」
惟人はなるべく平然と答えた。
晴が少し考える。
「まあ、そうだけど」
「だったら無駄じゃん。使ってない部屋に家賃払うの」
「でも惟人、困らない?」
「何が」
「僕が住んでたら」
惟人は一度だけ息を止めた。
困る。
別の意味では、かなり困る。
朝起きれば晴がいる。
風呂から出れば晴がいる。
同じ家で眠る。
今でさえ、寝室を譲って自分はソファで寝るくらいなのに、それが一時的ではなくなる。
けれど、そんなことを今の晴に言えるわけがない。
「困るなら最初から連れて帰ってない」
惟人がそう言うと、晴はしばらくこちらを見た。
それから、ゆっくり予定表へ視線を戻した。
「家賃分、結構大きいんだよね」
「だろ」
「返済に回せる」
「まあ、それなら好きにしろ」
惟人はそう答えた。
晴はスマートフォンで何か計算し始める。
今払っている家賃と解約費用、荷物の処分にかかる費用。
それでも数か月で十分元が取れるらしい。
数字を見ているうちに、晴の顔が少し真剣になった。
「ほんとだ」
「何が」
「仕事増やすより全然いい」
「だから言ってんだろ」
晴はしばらく画面を見ていた。
二年間、返済を早める方法は、働くことしかないと思っていた。
一時間余っているなら働く。
一日空いているなら仕事を入れる。
収入を増やす。
それだけだった。
けれど今は、違う方法がある。
出ていく金を減らす。
そのために、あの部屋を手放す。
晴は少しだけ考えた。
狭くて。
古くて。
何もない部屋だった。
決して好きだったわけではない。
それでも二年間、自分が帰る場所だった。
父の死後、誰にも頼らず生きると決めてから、唯一、自分だけの場所だった。
そこをなくす。
そう考えると、ほんの少しだけ胸の奥がざわつく。
けれど不思議と、怖くはなかった。
今は帰る場所がある。
仕事が終われば、惟人の家へ戻る。
玄関を開ければ明かりがある。
食べるものがある。
そして、惟人がいる。
そのことを晴はまだ特別なものとして考えてはいなかった。
ただ、事実として受け入れ始めていた。
「じゃあ」
晴が言った。
「今月中に解約しようかな」
惟人は少しだけ目を見開いた。
思ったより決断が早い。
「早いな」
「家賃もったいないし」
「お前そういうとこだけ決断早いよな」
晴は少し笑った。
「だって数字で分かるから」
その言い方が晴らしくて、惟人も少し笑った。
晴は予定表の端に、新しく一つだけ書き込んだ。
《部屋 解約》
それを見てから、少し考えて、隣にもう一つ書く。
《荷物取りに行く》
惟人は何も言わなかった。
晴も、それ以上何も言わなかった。
ただその夜から、あの四畳半の部屋は少しずつ「帰る場所」ではなくなり始めた。




