第十二章 帰る場所
晴が部屋を引き払ったのは、それから数日後だった。
決めてしまえば早かった。
もともと物は少ない。家具も最低限しかなく、売れるものは売り、値段のつかないものは処分した。衣類も必要なものだけを残し、使いかけの日用品まで一つずつ整理していくと、二年間暮らした部屋は驚くほど簡単に空になった。
もっと何か残ると思っていた。
あそこで眠った日数や、仕事から帰って何も食べずに横になった夜や、スマートフォンの小さな画面で惟人の試合を見た時間が、部屋のどこかに染みついているような気がしていた。
けれど、物をなくしてしまえば、四畳半はただの四畳半だった。
折り畳み机を片づけ、冷蔵庫の電源を抜き、最後にカーテンを外す。
明るくなった窓から、午後の光が入った。
晴は部屋の中央に立って、しばらく何もない床を見ていた。
寂しいかと聞かれれば、よく分からなかった。
好きだった場所ではない。
ここで暮らしたかったわけでもない。
それでも、父が亡くなってから、自分だけで何とかすると決めたあと、毎日ここへ帰ってきた。
狭くても、古くても、ここだけは自分で家賃を払い、自分で維持していた場所だった。
その意味では、少しくらい何か感じてもよさそうなものなのに、晴の中にあったのは意外なほど静かな感覚だった。
もう帰らなくていい。
そう思った。
それが一番近かった。
鍵を返し、手続きを終える。
最後まで残した荷物は本当に少なかった。服を入れたバッグと日用品、それから、ずっと捨てられずにいたものを収めた小さなケースだけだった。
その中身については誰にも言わなかった。
別に隠しているつもりでもない。
ただ、説明する理由がなかった。
晴はそれらを持って、惟人の家へ戻った。
もう「泊まりに行く」という感覚ではなかった。
玄関の鍵も預かっている。
仕事が終わればここへ帰り、朝になればここから出る。
いつの間にか、そういう生活になっていた。
ただ、その日ばかりは玄関を開けた瞬間、晴の足が止まった。
何かが違う。
最初はすぐに分からなかった。
靴を脱ぎ、荷物を置いて、リビングへ入る。
そこでようやく気づいた。
「……ソファ変わってる」
以前あったものより少し大きい。
見た目は落ち着いた普通のソファだが、座面が広く、背もたれも厚い。
晴が帰ってくる時間を知っていたのか、惟人はテーブルで何か書類を見ていた。
顔も上げずに答える。
「変えた」
「なんで?」
「寝るところ要るだろ」
晴はしばらくソファを見た。
「これで寝るの?」
「広げればベッドになる」
「広げる?」
惟人が立ち上がり、ソファの前へ来る。
座面の下を引き出し、背もたれを倒す。
ほんの数十秒で、さっきまで普通のソファだったものが、きちんと一人分のベッドになった。
晴は目を丸くした。
「すごい」
「別に珍しくない」
「僕知らなかった」
そう言いながら、晴は端に腰を下ろした。
思ったより沈む。
座り心地がいい。
というより、良すぎる。
晴は一度腰を浮かせ、もう一度座った。
「……柔らかい」
「寝るんだから硬すぎない方がいいだろ」
その言い方に、晴は少し嫌な予感がして横を見た。
ソファ脇の収納スペースには、掛け布団に敷きパッド、枕まで、新しい寝具が一式入っていた。
どれも、晴がこの二年間使っていたものとは比べものにならないくらい厚みがある。
晴はしばらくそれを見てから、惟人を見る。
「……惟人」
「何」
「僕を甘やかしすぎじゃない?」
本気で疑問に思ったらしく、晴は少し首を傾げた。
惟人は眉を寄せる。
「どこがだ」
「いや、だって」
晴は布団を指さす。
「こんなのまで」
「寝具だろ」
「もっと普通のでいいよ」
「これが普通だ」
「絶対普通じゃない」
「お前の普通が低すぎるんだよ」
惟人はそう言って、話は終わったとでもいうようにテーブルへ戻った。
晴はまだ納得していない。
試しに枕を押してみる。
柔らかい。
掛け布団も、手を置いただけで分かるくらい軽い。
この二年間、晴にとって寝具とは、眠れればいいものだった。
薄い布団でも。
古い毛布でも。
身体を横にできて、寒くなければそれでよかった。
だから、眠るためだけにこんなものを揃える意味がいまいち分からない。
けれど惟人からすれば、きっと逆なのだ。
睡眠も身体を作るものの一つ。
現役選手である惟人にとって、それは昔から当然のことだった。
晴もかつては同じように考えていたはずなのに、二年の間にその感覚をすっかり失っていた。
「ほら」
惟人が声をかける。
晴が振り返ると、一枚の書類を差し出された。
「何これ」
「雇用契約書」
晴は瞬きをした。
「今?」
「今」
「僕、荷物運んできたばっかりなんだけど」
「だから座ってるだろ」
「そういう意味じゃなくて」
惟人は構わず書類を晴へ渡した。
晴は仕方なく受け取る。
ソファベッドの端に座ったまま、一枚目から読み始めた。
勤務場所。
業務内容。
勤務時間。
時給。
交通費。
守秘義務。
その他。
晴は思ったより真面目に読む。
「ちゃんとしてる」
「当たり前だろ」
「もっと口約束かと思ってた」
「仕事だって言っただろ」
晴は一枚ずつめくる。
途中で、交通費の欄を見つけて少し首を傾げた。
「交通費出るの?」
「出る」
「僕、惟人と一緒に行くこと多いよね」
「それでも規定上は書く」
「へえ」
晴はまた読み進める。
惟人はその横で、黙って待っていた。
早く書けと急かすこともない。
こういうところは妙にきっちりしている。
晴が内容を確認し、最後のページまで読み終える。
「問題ない?」
惟人が聞いた。
「うん」
「じゃあサイン」
ペンを渡される。
晴は紙をテーブルへ置いた。
署名欄を見る。
九条晴。
自分の名前を書く。
ただそれだけのことなのに、ペン先が紙へ触れる直前、ほんの一瞬だけ手が止まった。
この二年間、スケートの世界と自分の名前を同じ紙の上に置くことはなかった。
競技エントリーでもない。
スポンサー契約でもない。
遠征の書類でもない。
選手として戻るためのものでもない。
ただ、働くための契約書だった。
それでも。
勤務場所にはリンクの名前があり、業務内容には指導補助と書かれている。
晴は何も言わず、そのまま名前を書いた。
九条晴。
久しぶりに、その名前がスケートとつながった。
本人はそこに大きな意味を持たせるつもりはなかった。
ただ書いた。
必要だから。
仕事だから。
「はい」
ペンを置き、書類を惟人へ渡す。
惟人は受け取って署名を確認した。
「これで正式に雇用」
「よろしくお願いします、榊先生」
晴が少しふざけて頭を下げる。
「やめろ」
「上司でしょう」
「気持ち悪い」
晴は笑った。
その笑い声を聞きながら、惟人は書類を封筒へ戻した。
晴はもう一度ソファベッドを見る。
広げられたままの寝床。
新しい布団。
自分の荷物。
部屋を引き払ったばかりなのに、不思議と行き場を失った感じはしなかった。
むしろ。
荷物をどこへ置こうかと考えている。
服はどこに入れるのか。
仕事へ行くときのバッグはどこへ置くのか。
そういう、ごく普通のことを考えている。
晴は持ってきた荷物を一つずつ壁際へ移した。
最後に、小さなケースだけは自分のバッグの近くへ置いた。
惟人がちらりと見る。
「それ何」
晴は一瞬だけケースを見る。
「残してたもの」
それだけ答えた。
惟人はそれ以上聞かなかった。
晴も説明しなかった。
ケースはそのまま、荷物の一番奥へ置かれた。
夜。
晴は初めてソファベッドを本来の形で使った。
新しい敷きパッドを敷き、枕を置く。
掛け布団を広げる。
惟人が「使い方分かる?」などと聞いてきたので、「さすがに分かるよ」と返した。
風呂から上がり、歯を磨いて、布団へ入る。
その瞬間、晴は少し驚いた。
柔らかい。
身体を横にしただけで、背中と腰がゆっくり沈む。
今まで使っていた薄い布団では、床の硬さを当たり前に感じていた。
それがない。
枕も合う。
掛け布団は軽いのに暖かい。
「……これ、だめかも」
晴が小さく言った。
寝室へ向かいかけていた惟人が振り返る。
「何が」
「気持ちよすぎる」
「いいことだろ」
「起きられない気がする」
「寝ろ」
惟人は呆れたように言って、そのまま寝室へ入った。
晴は布団の中で少しだけ笑った。
目を閉じる。
今日は朝から部屋を片づけた。
荷物を運んだ。
契約書にもサインした。
疲れている。
その自覚はあった。
けれど、いつもなら布団へ入ってもしばらく頭の中で翌日の予定や金のことを考えていた。
明日は何時から仕事か。
いくら稼げるか。
返済日はいつか。
どこを削れるか。
そういうことが、眠る直前まで頭の中に残っていた。
今日は違った。
身体が沈む。
暖かい。
それだけで、思考がゆっくり遠くなっていく。
晴は気づかないうちに眠っていた。
翌朝。
惟人がリビングへ来ると、晴はまだ寝ていた。
いつもなら、多少遅く帰ってきても物音で目を覚ますことがある。
今日はまったく動かない。
掛け布団を肩まで引き上げ、長い髪を枕へ散らしたまま、深く眠っている。
顔から余計な力が抜けていた。
惟人は少し離れたところで足を止めた。
寝ている晴を見る。
二年前までも、何度も見た。
遠征先。
移動中。
ホテル。
疲れればどこでも寝るくせに、身体の管理には妙に敏感だった晴。
今は、その頃よりずっと痩せている。
それでも、ようやく少しだけ、眠ることそのものを身体へ任せられているように見えた。
惟人は小さく息を吐いた。
「……だからまともな布団必要だったんだよ」
もちろん晴には聞こえない。
返事もない。
惟人は起こさなかった。
今日の勤務は午後からだ。
まだ眠れる。
なら、眠らせておけばいい。
そう思ってキッチンへ向かう。
背後では、晴が一度だけ寝返りを打った。
新しいソファベッドは少し軋んだが、晴は目を覚まさなかった。
それを確認して、惟人は少しだけ笑った。




