第十三章 先生
雇用契約を結んだ翌週から、晴は正式にリンクへ入るようになった。
といっても、見た目だけならそれまでと大きく変わったわけではない。
相変わらず、惟人か別のコーチがいる時間帯にリンクサイドへ立ち、子どもたちの練習を見る。ジャンプを数本見て、気づいたことがあれば伝える。スピンの軸がずれていれば声をかけるし、助走の入りが悪ければ一度止める。
違うのは、それがもう「たまたま来て見ている」ことではなくなったということだった。
勤務表に名前がある。
時間になれば来る。
終われば帰る。
働いた時間に対して、給料が出る。
晴にとっては、その違いが思っていたより大きかった。
最初の勤務日、晴は少し早めにリンクへ着いた。
惟人と一緒ではなかった。
その日は惟人の練習時間がもっと早く、晴は午後の教室から入る予定だったからだ。
関係者入口を通り、スタッフへ挨拶をする。
以前なら惟人の連れとして入っていた場所へ、今日は自分の勤務として入る。
それだけのことなのに、少しだけ変な感じがした。
受付にいたスタッフが晴を見る。
「九条さん、おはようございます」
一瞬、返事が遅れた。
ここで本名を呼ばれることにも、まだ慣れていない。
教室のスタッフやコーチの一部には、すでに事情が共有されていた。
もちろん外部へ漏らさないことも含めて。
晴がここで働く以上、いつまでも「惟人の知り合い」で通すわけにはいかない。
だから少なくとも内部の人間には、九条晴であることが知られている。
それでも、誰も特別な反応はしなかった。
最初に事情を聞いたときこそ驚いたらしいが、惟人が余計な詮索をするなと先に釘を刺していたこともあり、今は普通に新しいスタッフとして扱われている。
それが晴にはありがたかった。
二年ぶりに戻ってきた五輪王者としてではない。
消えていた人間としてでもない。
働き始めた一人として、名前を呼ばれる。
「おはようございます」
晴は少し遅れて返した。
更衣スペースへ向かい、荷物を置く。
制服のようなものはない。
動きやすい服装でいいと言われている。
惟人の大きなジャンバーは、もう以前ほど必要ではなくなっていた。
一般の客が多い時間帯はまだ顔を隠した方がいいが、教室の枠で関係者しかいない時間なら、それほど神経質にならなくてもいい。
それでも晴は癖のように髪を少し顔へ落としていた。
その方が落ち着く。
リンクへ入ると、すでに何人か子どもが来ていた。
最初にサルコウを見た少年が、晴を見つける。
「あ、先生!」
晴はすぐ返した。
「先生じゃないよ」
少年はまったく気にしない。
「今日サルコウ見て」
「榊先生に聞いて」
「聞いた。いいって」
準備が早い。
晴は少し笑った。
「じゃあ靴履いてきて」
少年は嬉しそうに走っていった。
その背中を見ながら、晴は少しだけ首を傾げる。
何度言っても、先生と呼ばれる。
自分はコーチではない。
契約書にも、指導補助と書かれている。
それでも子どもたちにとっては、そんな区別は関係ないらしい。
見てくれて、教えてくれて、できなかったことをできるようにしてくれる。それなら子どもたちにとっては先生なのだろう。
レッスンが始まると、晴は担当コーチの近くに立った。
最初のうちは、どこまで口を出していいのか少し慎重だった。
雇用契約を結ぶ前は、むしろ何も考えずに言えていた。
見えたことを、そのまま言う。
けれど仕事となると、急に責任が生まれる。
自分の言葉で相手の滑りが変わる。
それを、以前より意識するようになった。
「九条さん」
隣にいたコーチが呼ぶ。
「この子、一回見てもらっていいですか」
晴は少し驚いた。
自分から口を出すのではなく、正式に頼まれる。
「僕でいいんですか?」
「お願いします。踏み切りのタイミングが合ってない気がするんですけど、どう見えます?」
晴はリンクを見る。
中学生くらいの女の子だった。
トリプルトウループを練習している。
一本目。
二本目。
三本目。
晴は黙って見た。
昔なら、自分が跳ぶ側だった。
コーチから何か言われる。
惟人から何か言われる。
自分でも感覚を確認する。
今は逆だ。
見て。
考える。
何が起きているのか言葉へ変える。
晴は少し時間をかけた。
「踏み切りより前かもしれません」
コーチが晴を見る。
「前?」
「助走の最後で、右足に乗る時間が少し長いです。だからトウ突くときには身体がもう回り始めてる」
晴はリンクの一部を指した。
「あそこから入るとき、もう少し真っ直ぐ持ってきた方がいいと思います」
コーチは少し考えてから頷いた。
「なるほど」
女の子を呼び、二人で確認する。
晴はできるだけ余計なことを言わないようにした。
直すところを増やしすぎると、子どもは混乱する。
「今日は入りだけ変えてみよう」
晴が言う。
女の子が頷く。
一度目。
転ぶ。
二度目。
回転は足りたが着氷が乱れる。
三度目。
今度は降りた。
本人が少し驚いた顔をする。
晴も、少しだけ嬉しくなる。
「今の感じ」
そう言うと、女の子は笑った。
その笑顔を見ると、不思議な感覚があった。
自分が跳んだわけではない。
メダルもない。
得点も出ない。
それでも、少し嬉しい。
自分ができたときとは、また違う嬉しさだった。
それから晴は、少しずつ仕事に慣れていった。
子どもを見る。
担当コーチへ伝える。
必要なら一緒に考える。
昔から知っていることが、そのまま使えるものもあった。
逆に、知っているだけでは足りないこともあった。
自分ができることと、人にできるようにすることは違う。
晴はそのことを、何度も思い知らされた。
「もっと軸を真ん中に」
と言っても伝わらない。
「真ん中ってどこ?」
と聞かれる。
自分なら感覚で分かる。
でも、その感覚を持っていない相手には意味がない。
だから考える。
足のどこへ体重を置くのか。
肩をどうするのか。
視線をどこへ向けるのか。
惟人が昔から、自分の感覚を言葉へ直していた理由が少し分かった気がした。
ある日、晴は子どもにスピンを教えながら、ふと口にした。
「回ろうとしすぎないで」
子どもが首を傾げる。
「でも回るんでしょう?」
「回るけど、回そうとすると上が力むから」
「じゃあどうするの」
晴は一瞬考えた。
昔の自分なら、そんなこと聞かれても困っただろう。
でも今は、少しずつ言葉が出る。
「最初の位置をちゃんと作る。回るのはそのあと勝手についてくる感じ」
子どもはまだ完全には分かっていない顔をしている。
晴は笑った。
「一回やってみよう」
そのやり取りを、惟人は少し離れたところから見ていた。
晴が教えることに慣れてきている。
以前より声のかけ方が落ち着いた。
最初は、見えたことをそのまま言っていた。
今は、相手がどう受け取るかまで考えている。
惟人はそれを見ながら、少し不思議な気持ちになった。
晴はずっと、自分の滑りを言葉で説明するのが得意な選手ではなかった。
どうやって音楽に合わせているのか。
どうやってあのステップを踏んでいるのか。
聞かれても、
「曲を聴いて滑ってるだけ」
と本気で答える人間だった。
ジャンプもそうだ。
細かい理論を知らないわけではない。
でも最後は身体で理解する。
そういうタイプだった。
だからこそ、教える仕事をしたらどうなるのかと思っていた。
ところが晴は、できない相手を前にすると、自分なりに考える。
自分がどうやっていたかではなく、この子ならどうすれば分かるか。
そこを探す。
その姿勢は、惟人が思っていた以上に指導者向きだった。
レッスンの休憩時間になると、また子どもたちが晴の周りへ集まった。
「先生、これ見て」
「先生、昨日できた」
「先生、今日アクセル」
晴は最初のうちは、そのたび訂正していた。
「先生じゃないよ」
「僕アシスタントだから」
何度言ったか分からない。
けれど子どもたちは聞かなかった。
ある日とうとう、晴は諦めた。
「先生!」
呼ばれて。
反射的に振り返る。
そのあとで、自分が普通に反応したことに気づいた。
呼んだ子どもも気づいたらしい。
「ほら先生じゃん」
晴は一瞬黙った。
周りの子どもが笑う。
晴も少しだけ笑った。
「……もうそれでいいよ」
その日から、晴は訂正しなくなった。
九条先生、と呼ばれることはまだない。
子どもたちは晴の名字を知らない。
ただの先生。
それで十分だった。
仕事を始めて一週間ほど経った頃、晴は初めて給料の計算をした。
まだ大きな額ではない。
それでも、リンクで働いた時間に対して、ちゃんと数字がつく。
晴はスマートフォンの画面を見ながら、しばらく黙っていた。
スケートで金を得る。
それ自体は昔から経験している。
賞金。
スポンサー。
出演料。
それらはどれも、選手として結果を出したことに対する金だった。
今は違う。
子どもを見る。
数時間働く。
その対価として金をもらう。
自分の中に残っていたものが、まだ役に立つ。
晴はその事実を、少しずつ実感し始めていた。
その日の帰り、惟人と並んで関係者通路を歩いていると、晴が突然言った。
「今日、ちゃんと仕事した感じする」
惟人が横を見る。
「今まで何だと思ってたんだよ」
「お手伝い」
「給料出してんだけど」
「分かってるよ」
晴は少し笑った。
「でも、今日はなんか」
言葉を探す。
「自分がいていい理由が分かった感じ」
惟人は足を少し緩めた。
晴は前を向いたままだった。
大げさな意味で言ったわけではないのだろう。
ただ、働いて。
役に立って。
その分の金をもらう。
それが晴には分かりやすい。
惟人はそのことを知っている。
だから否定しなかった。
ただ一つだけ、言いたいことがあった。
「理由なくてもいていいけどな」
晴が惟人を見る。
惟人はそのまま前を向いていた。
「何それ」
「別に」
「急に変なこと言うね」
晴は少し笑った。
惟人もそれ以上説明しなかった。
晴にとっては、まだ理解しにくい言葉かもしれない。
必要だからいる。
働くからいる。
役に立つからいる。
その方がずっと分かりやすい。
それでも惟人は、いつか晴が、理由がなくてもここにいていいと思えるようになればいいと思った。
リンクを出る前、晴はいつものように一度だけ氷を見た。
今日は、自分が滑ることを考えなかった。
ただ、明日来る子のことを考えた。
サルコウがもう少し安定するかもしれない。
ダブルアクセルの子は、次は着氷を少し直したい。
スピンの子も、昨日より軸が良くなっていた。
そんなことを考えながら、晴は自然に明日の予定を思い浮かべていた。
リンクへ来ることは、もう特別なことではなくなり始めていた。
仕事として。
生活の一部として。
そして少しずつ、自分がいてもいい場所として。




