第十四章 見せる人
晴がリンクで働き始めてから、少しずつ日常の形が変わっていった。
朝起きる時間も、食事を取る時間も、以前より一定になった。リンクへ入る日は惟人と一緒に家を出ることもあれば、勤務時間に合わせて一人で向かうこともある。配達は減り、配送と黒服はまだ残っている。それでも以前のように、空いている時間へ片端から仕事を詰め込むことはなくなった。
その分、晴はリンクで子どもたちを見る時間を持つようになった。
最初は自分でも、ここまで馴染むとは思っていなかった。
けれど、昨日できなかったものが今日できるようになるのを見るのは面白かった。
失敗の仕方が変わる。
少し怖がらなくなる。
助走の癖が直る。
軸が安定する。
ほんのわずかな変化でも、何度か続けて見ていると分かる。
晴は次第に、その変化を待つようになった。
ある日の午後、いつものようにレッスンへ入ったときもそうだった。
中学生くらいの女の子が、ステップの途中で何度も同じところを崩していた。
ジャンプではない。
単純に見れば、ターンから次のエッジへ移るだけの動きだった。
けれど、その子はどうしても上半身が先に開き、足元の流れが途切れる。
担当コーチも何度か説明していた。
晴も横から見ていた。
「肩、先に開いてる」
そう言うと、女の子は一度頷いた。
「分かってるんですけど」
「分かってる?」
「開かないようにしてる」
「してるね」
晴もそこは否定しなかった。
意識しているのは分かる。
むしろ意識しすぎている。
肩を止めようとして身体全体が固まり、結果として足元まで動かなくなっている。
晴は少し考えた。
「止めようとしなくていいよ」
女の子が首を傾げる。
「でも開いちゃう」
「うん。でも肩だけ止めようとすると、今度は全部止まってる」
晴は自分の身体で少しだけ動きを作ってみた。
氷の外。
靴のまま。
腰の向きと肩の動きだけを示す。
けれど、それではやはり伝わりにくい。
女の子も何となく真似はする。
ただ、リンクへ戻るとまた同じになる。
一度。
二度。
三度。
晴はそのたび少しずつ言い方を変えた。
「足から先に行かないで」
「視線は前でいい」
「肩を止めるんじゃなくて、腰の上に置いたまま」
それでも完全には直らない。
女の子も次第に困った顔になっていく。
「分かんない」
晴は少し笑った。
「うん。説明下手でごめん」
「先生できる?」
その言葉に、晴は一瞬だけ止まった。
「何が?」
「今のやつ」
「僕?」
女の子は当然のように頷いた。
「やって見せて」
晴はすぐには返事をしなかった。
それまでにも、似たようなことを言われたことはあった。
ジャンプの踏み切りを手で示したり、スピンの姿勢を陸上で説明したりはしている。
けれど「滑って見せて」と言われたのは初めてだった。
晴は無意識にリンクを見た。
氷はすぐそこにある。
この距離から見ることには、もう慣れた。
音にも、冷気にも、ブレードが削る白い粉にも、もう慣れた。
最初の日のように、ただそれだけで足が止まることもなくなった。
それでも、自分がそこへ立つことは別だった。
晴は少し考えてから、女の子へ言った。
「僕、今滑ってないから」
「なんで?」
子どもは容赦がない。
晴は少し困った。
「なんでって」
答えを探す。
辞めたから。
もう選手じゃないから。
二年間滑っていないから。
いくつも言葉は浮かんだ。
けれど、どれもこの子に説明する必要があることではない気がした。
「今は先生の仕事だけだから」
そう答えると、女の子はさらに首を傾げた。
「でもできるんでしょう?」
晴は黙った。
できる。
たぶん。
少なくとも、今説明しているステップくらいなら。
二年滑っていなくても、身体が完全に忘れているとは思えない。
ただ、それと実際に氷へ乗ることは別だった。
「できるけど」
晴が答える。
女の子はすぐ言った。
「じゃあ見たい」
あまりにもまっすぐで、晴は少し笑ってしまった。
「見るだけなら簡単に言うね」
「だって分かんないもん」
それも正しい。
言葉では伝わらない。
なら見せた方が早い。
晴自身、昔は何度もそうして覚えた。
コーチの動きを見る。
惟人の足元を見る。
真似をする。
違えば直される。
スケートは、言葉だけではどうしても伝えきれないことがある。
晴はもう一度リンクを見る。
そう思ってしまった時点で、少しだけ何かが変わっていた。
自分が滑る。
その選択肢を、完全に否定できなくなっている。
けれど、その日は結局やらなかった。
「今日はなし」
晴が言うと、女の子は不満そうな顔をした。
「なんで」
「靴ないから」
それは嘘ではない。
少なくとも、ここへ持ってきてはいない。
晴の言葉を聞いて、女の子は少し考えたあと、あっさり言った。
「レンタルあるよ」
晴は思わず笑った。
「知ってるよ」
「じゃあ借りればいいじゃん」
子どもの理屈は単純だった。
そして、その単純さが少し怖かった。
借りればいい。
確かにそれだけだ。
競技用の靴である必要はない。
四回転を跳ぶわけでもない。
ほんの少し、ステップを見せるだけ。
けれど晴の中では、その「ほんの少し」が思ったより大きい。
リンクへ乗る。
ブレードを履く。
氷を踏む。
二年間避けてきたことを、一度やってしまえば、その先に何があるのか自分でも分からない。
「また今度」
晴はそう言って、その日は流した。
女の子は納得していなかったが、担当コーチに呼ばれ、渋々リンクの中央へ戻っていった。
晴はその背中を見送りながら、少しだけ息を吐いた。
すぐ近くで、別の子を見ていた惟人がこちらへ来る。
「何」
晴が先に聞いた。
惟人は少しだけ笑った。
「別に」
「絶対何か聞いてたでしょう」
「聞いてた」
晴は眉を寄せる。
「笑わないでよ」
「笑ってない」
「笑ってる」
惟人は否定しなかった。
それから、さっきの女の子が練習している方向を見る。
「見せればいいじゃん」
晴の表情が少し固くなる。
惟人はすぐに続けなかった。
晴が嫌がるなら、それ以上押す気はない。
ただ、自分の中ではずっと前から思っていた。
晴がもう一度滑るところを見たい。
それを言わずにいた。
だから今も、言葉は慎重に選ぶ。
「ステップだけなら」
晴はリンクを見たまま言う。
「できると思う」
「うん」
「でも靴ないし」
「レンタルあるぞ」
晴が惟人を見る。
「同じこと言わないで」
惟人は少し笑った。
「事実だろ」
晴は何も言わなかった。
その日は、それで終わった。
けれど帰りの車の中でも、晴は何度か自分の足元を見ていた。
今履いているのは普通のスニーカー。
スケート靴ではない。
それでも、足の裏に昔の感覚が少しだけ残っている気がした。
エッジへ乗る。
押す。
滑る。
ターンする。
身体がどこまで覚えているのか。
考えないようにしても、浮かんでくる。
翌日。
晴はまたリンクへ来た。
いつも通り仕事をした。
子どもを見る。
ジャンプを直す。
スピンを見る。
昨日の女の子もいた。
晴を見つけると、すぐに言った。
「先生、今日やって見せて」
「覚えてたの」
「当たり前」
晴は少し困ったように笑った。
「まだ言ってる」
「レンタル借りればいいじゃん」
昨日とまったく同じ答えだった。
晴は反論しようとして、やめた。
そして、少し離れたところで別の子を見ている惟人へ視線を向ける。
惟人もこちらを見た。
目が合う。
何も言わない。
晴に決めさせるつもりなのだろう。
その沈黙が、晴には少しだけありがたかった。
滑れとも。
やめておけとも言わない。
晴はもう一度リンクを見る。
昨日より、近く感じた。
「……レンタル靴でいいよ」
ぽつりと言う。
女の子がすぐに顔を明るくした。
「ほんと?」
晴は小さく息を吐いて、少し笑った。
「ちょっとだけね」
その言葉を聞いた惟人は、リンクの反対側でほんの一瞬だけ動きを止めた。
晴は気づかなかった。
ただ、レンタルカウンターの方へ歩き始めた。
二年ぶりに。
自分のためではなく。
誰かに見せるために。
晴はもう一度、スケート靴を履こうとしていた。




