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春待氷  作者: りん
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第十五章 氷の上


レンタルカウンターまで歩きながら、(はる)は何度か足元を見た。


別に緊張しているつもりはなかった。


子どもにステップを見せるだけだ。ジャンプを跳ぶわけでもない。長く滑る必要もない。借り物の靴で少し氷へ乗って、動きを一度見せて、それで終わる。


頭の中では、そう整理していた。


それでもカウンターでサイズを聞かれた瞬間、少しだけ返事が遅れた。


「二十五……いや」


晴は一度考える。


競技用の靴なら迷うことはない。


長年履いてきたサイズも、メーカーも、ブレードの感覚も覚えている。


けれどレンタル靴となると話は違う。


昔、遊びで借りたことくらいはある。それもずいぶん前だ。


「二十五で」


結局そう答えた。


渡された靴は、当然ながら競技用とはまるで違った。


重い。


硬さも違う。


紐を締めても、足首が落ち着かない。


晴はベンチへ座り、片方ずつ靴を履いた。


その様子を、少し離れたところから惟人(いと)が見ていた。


別の子どもを見ながら、それでも何度も視線がそちらへ向く。


晴がスケート靴を履いている。


それだけの光景を、最後に見たのはいつだっただろう。


世界選手権。


あの大会の公式練習。


あるいは試合当日。


少なくとも、二年前だ。


晴がいつものように靴紐を締め、立ち上がり、リンクへ向かう。


当時はあまりにも見慣れていて、何も思わなかった。


今は、その一つ一つが妙に現実味を持って見えた。


もちろん、目の前にいる晴はあの頃と同じではない。


履いているのは使い込んだ自分の靴ではなく、施設のレンタル靴だ。


身体は細くなり、筋肉も落ちて、髪も伸びている。


それでも、靴紐を結ぶ手つきだけは不思議なほど迷いがなかった。


晴は立ち上がった。


一歩歩く。


すぐに顔をしかめた。


「重い」


近くにいた女の子が笑う。


「レンタルだから」


「知ってるけど、こんな重かったっけ」


「先生の靴は軽いの?」


晴は少しだけ止まった。


自分の靴。


その言葉に、一瞬だけ頭の中に浮かぶものがあった。


けれど、すぐに振り払う。


「競技用はもうちょっと違うよ」


それだけ答えた。


リンクの入口まで来る。


晴は手すりに手を置いた。


目の前に氷がある。


何日も見ている。


毎日ではないが、仕事としてここへ来るようになってから、何時間も見てきた。


それなのに、ブレードを履いて立つと景色が少し違った。


高さが変わる。


足の裏に金属がある。


冷気が、いつもより近い。


リンクサイドから見るのと、入口に立つのとでは、同じ氷でも距離がまるで違う。


晴は少しだけ息を吐いた。


怖いわけではない。


少なくとも、転ぶことが怖いわけではなかった。


ただ、自分の身体が今どこまで動くのか分からない。


そのことの方が気になった。


二年間。


氷へ乗っていない。


その間に、体重は十キロ以上落ちた。


筋肉も減った。


病院では無理をするなと言われた。


かつてできたことを基準に考えるなとも言われた。


だから晴は、最初から昔の自分を期待しないことにした。


手すりを持ったまま、片足を氷へ置く。


もう片方も。


ブレードが氷に触れた瞬間、晴は少しだけ眉を寄せた。


レンタル靴のせいもある。


エッジの感触が鈍い。


足裏から返ってくる情報が少ない。


それでも。


滑る。


ほんの少し体重を移しただけで、身体が前へ出た。


晴はそのまま数メートル進んだ。


一度止まる。


足元を見る。


もう一度。


今度は少し強く押す。


右。


左。


クロス。


最初の数歩は、どこか慎重だった。


足首が今の靴にどう反応するのか確かめるように、重心を一つずつ置いていく。


けれど数十秒もすると、その慎重さが少しずつ薄れていった。


晴自身も、その変化に気づいていた。


忘れていない。


少なくとも、滑ることそのものは。


足で氷を押す。


エッジへ乗る。


身体を傾ける。


次の足へ体重を渡す。


ひとつひとつを頭で考えているわけではない。


むしろ考えようとすると遅い。


身体の方が先に動く。


晴はリンクをゆっくり一周した。


速くはない。


それでも、最初より明らかに滑りが滑らかになっている。


女の子がリンクサイドから見ていた。


「普通に滑れるじゃん」


その言葉に、晴は少し笑った。


「そこはね」


自分でも、少しほっとしていた。


二年という時間が、何もかもを消したわけではない。


けれど同時に、昔と同じではないこともすぐ分かった。


一周しただけで、脚が思ったより重い。


特に腿。


エッジへ深く乗ろうとすると、昔なら自然に支えられた角度で身体が少し揺れる。


体幹も同じだった。


姿勢を作ることはできる。


でも、保つための力が足りない。


技術を忘れているのではない。


身体が、その技術を長時間支えられない。


晴はそれを、数分もしないうちに理解した。


だから無理をしなかった。


速度を落とし、最初に頼まれていたステップの場所へ向かう。


「さっきのね」


女の子を呼ぶ。


「見てて」


晴は一度、足元を確認した。


問題になっていたターン。


肩を止めるのではなく、足元の流れに身体を乗せたまま次のエッジへ移る。


それだけ。


晴はゆっくり入った。


一度目。


レンタル靴のエッジが思ったより浅く、少しだけ足元が流れた。


晴は止まる。


「ごめん、もう一回」


今度は靴に合わせて少し角度を変えた。


助走。


ターン。


身体の向き。


次のエッジ。


流れは切れなかった。


女の子が真剣に見ている。


晴はもう一度やる。


今度は少しゆっくり。


「ここで肩止めないでしょう」


自分の身体を使いながら言う。


「足が先に流れて、その上に身体が乗ってるだけ。肩だけ残そうとしなくていい」


女の子は何度か頷いた。


「分かったかも」


「やってみて」


晴はリンクの端へ下がった。


女の子が同じ動きを試す。


一回目。


まだ少し固い。


二回目。


さっきより流れる。


晴はすぐ声をかけた。


「今の方がいい」


女の子が嬉しそうに振り返る。


晴も少し笑った。


そのとき、リンクの反対側にいた惟人は、いつの間にか動きを止めていた。


最初は、晴が転ばないかを見ていた。


病院で言われたこともある。


今の身体で無理をすれば、何が起こるか分からない。


だから最初の一歩は、かなり緊張して見ていた。


けれど、数分もすると別のことに気づいた。


晴は痩せた。


明らかに力も落ちている。


速度も、現役時代とは比べものにならない。


深いエッジへ乗ろうとすれば少し揺れる。


ターンのあと、以前ならそのまま次へ流れていたところで、わずかに身体を立て直している。


それでも。


滑り方そのものは晴だった。


惟人はそのことに、思った以上に動揺していた。


二年間。


何もしていなかった。


少なくともスケートに関しては。


それなのに、数分氷へ乗っただけで、晴の身体はもうスケートの形を思い出している。


クロスひとつ。


カーブひとつ。


腕を大きく使うわけでもない。


音楽も流れていない。


それでも、目を離しにくい。


晴は昔からそうだった。


何かを「表現しよう」として滑る人間ではない。


身体を美しく見せようとも、いちいち考えていない。


ただ滑る。


音楽があれば曲を聴き、その中へ身体を置く。


それだけなのに、結果としてすべてが一つの流れになる。


今は音楽すらない。


子どもへ見せるために、同じステップをゆっくり繰り返しているだけだ。


それでも、ターンから次のエッジへ移る一瞬に、惟人がずっと知っていた晴がいた。


脚の力はない。


速度もない。


完成度だって、現役時代とは比べられない。


けれど、動きの間に余計なものがない。


どこか一か所だけが突出しているわけでもなく、視線も、肩も、指先も、足元も、すべてが同じ流れの中にある。


惟人は、それを見ながら思った。


なくなっていない。


身体は変わった。


筋肉は落ちた。


競技からも離れた。


けれど、晴が晴である部分まで失われたわけではない。


むしろ、これほど何もない状態だからこそ、余計にはっきり見えた。


四回転もない。


衣装もない。


観客もいない。


音楽すらない。


ただレンタル靴で氷を滑っているだけなのに、それでも九条晴だった。


惟人は自分でも気づかないうちに、少しだけ息を吐いていた。


ずっと見たかった。


もう一度滑る晴を。


その願いを口にしないまま、何日も隣にいた。


そして実際に目の前で見てみると、想像していたよりずっと簡単な形で戻ってきた。


劇的でもない。


覚悟を決めたわけでもない。


子どもに説明するため。


それだけの理由で。


だからこそ、惟人には嬉しかった。


晴が「スケートへ戻ろう」と決意しなくても、こうして氷へ乗れたことが。


一方の晴は、惟人がそんなことを考えているとは知らなかった。


子どもの動きを見て、次に何を言うか考えている。


女の子がもう一度ステップへ入る。


今度は上半身が固まらず、そのまま次のエッジへ流れた。


「そう、それ」


晴が声を上げる。


女の子が笑った。


その笑顔につられて、晴も笑う。


滑ったのはほんの数分。


それだけなのに、自分の中にも少し変な感覚が残っていた。


楽しい、という言葉だけでは少し違う。


懐かしいとも違う。


もっと身体に近い。


足元が氷の上にある。


押せば進む。


エッジを変えれば曲がる。


その感覚が、ずっと使っていなかった言葉を思い出すように、一つずつ戻ってくる。


晴はリンクの中央を見た。


もう少し滑ってみたい。


ほんの一瞬、そう思った。


そのことに気づいて、自分で少し驚いた。


けれど否定するほどのことでもないと思った。


せっかく靴を履いた。


あと少しくらいなら。


晴はゆっくり滑り出した。


リンクの端を使い、少しだけ速度を上げる。


最初より身体が動く。


カーブを一つ。


クロス。


ターン。


もう一つ。


昔なら何でもない。


ウォームアップにも入らないような動きだ。


それでも今は、久しぶりに身体が氷の上でつながっていく感覚が新鮮だった。


そのまま何気なく前向きから後ろ向きへ変わる。


次の足へ乗る。


ほんの少しだけ膝を使う。


そこで身体が、昔のように次の動きを選びかけた。


晴はそれを止めた。


ジャンプへ入るつもりはなかった。


けれど、身体の方が勝手にいつもの流れを思い出したのだ。


晴は思わず笑った。


「危ない」


小さく呟く。


惟人には聞こえなかった。


ただ、晴が一人で少し笑ったのだけは見えた。


そのあと晴は、リンクの空いているところでごく簡単なスリーターンをいくつか繰り返した。


次にモホーク。


少しステップをつなぐ。


身体は覚えている。


けれど脚はすぐに重くなる。


数分前より呼吸も少し速い。


晴はそこで、ちゃんと止めた。


昔の感覚に任せて続ければ、今の身体では簡単に限界を超える。


それくらいは分かる。


リンクサイドへ戻る。


惟人が近づいてきた。


「どう」


晴が先に聞いた。


「何が」


「僕」


その質問に、惟人は少しだけ考えた。


言いたいことはいくらでもあった。


変わってない。


いや、身体は変わった。


でも滑りは晴だった。


音楽がなくても分かった。


そういうことを全部言えば、晴はきっと困る。


だから惟人は、今必要なことだけ言った。


「今日はもう上がれ」


晴は眉を寄せた。


「感想それ?」


「脚きてるだろ」


図星だった。


晴は視線を逸らした。


「ちょっと」


「ちょっとじゃない」


「でも思ったより滑れた」


その声には、わずかに嬉しさが混じっていた。


惟人はそれを聞いて、胸の奥が静かに緩むのを感じた。


「そうだな」


それだけ答える。


晴はリンクの出口へ向かった。


手すりにつかまり、氷から床へ上がる。


足元が急に重くなる。


レンタル靴の重さが戻ってくる。


晴はベンチへ座り、紐をほどき始めた。


一度氷へ乗ってしまえば、思っていたほど何かが壊れるわけでもなかった。


父のことを忘れたわけではない。


二年間がなかったことになるわけでもない。


スケートへ戻ると決めたわけでもない。


ただ、少し滑った。


それだけだった。


けれど晴の中には、来る前にはなかったものが一つだけ残っていた。


また乗ってもいいかもしれない。


その程度の、小さな感覚だった。


晴はそれをまだ誰にも言わなかった。


惟人も聞かなかった。


今は、それで十分だった。


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