第十六章 身体が覚えている
最初にレンタル靴を履いた日から、晴が氷へ乗る回数は少しずつ増えた。
といっても、自分の練習をするためではない。
子どもに見本を見せる必要があるときだけだった。
ステップやターン、簡単なエッジワーク、スピンの入り。
言葉だけではどうしても伝わらないものを、ほんの数分滑って見せる。
それだけ。
晴自身も、最初のうちはそう決めていた。
一度滑ってしまえば、その次からは前ほど大げさに考えなくなった。
レンタルカウンターで靴を借りる。
紐を締める。
リンクへ乗る。
必要な動きを見せる。
終わったら上がる。
それが仕事の一部になっていった。
もちろん、身体はまだ昔とはまるで違う。
少し長く滑れば脚はすぐ重くなる。
スピードを上げれば、それだけで呼吸が早くなる。
エッジを深く使おうとすると、腿と体幹に思った以上の力が必要だった。
晴はそのたび、自分の身体がどれほど変わったのかを実感した。
昔なら、こんなものは準備運動にも入らなかった。
リンクを何周かして、ジャンプを始める前の身体慣らし。
その程度だった。
今は違う。
数分滑っただけで、ちゃんと疲れる。
一度リンクを上がって休まなければならない。
そのことを、最初の頃は少しだけ情けなく感じた。
ただ、悔しいとは少し違った。
競技に戻るつもりはない。
昔の身体を取り戻す必要があるとも思っていない。
だから本来なら、比べる意味はない。
それでも長い間、自分の身体はこう動くものだと思っていた。
押せばこれくらい進む。
膝を使えばこれくらい沈める。
エッジへ乗れば、ここまで傾けても支えられる。
その基準が身体の中に残っているから、今との差が嫌でも分かってしまう。
惟人はそこをよく見ていた。
晴が滑る日は、何分乗っているか、どれくらい休んだか、顔色はどうかまで必ず確認する。
本人がまだいけると言っても、明らかに脚が動かなくなれば上げる。
晴はそのたび不満そうだった。
「まだ大丈夫だよ」
「大丈夫な奴はそんな歩き方しない」
「レンタル靴重いんだもん」
「靴のせいにすんな」
「半分くらい靴のせいだよ」
「残り半分はお前の身体だろ」
そこまで言われると、晴も言い返せなくなる。
ただ、不思議なことに、滑ること自体への抵抗はどんどん薄れていった。
最初は、リンクへ乗るというだけで少し身構えていた。
二年ぶりの氷には、父のことも、競技を辞めたことも、自分が逃げたことも、全部つながっているような気がしていた。
でも実際に氷へ乗ってみると、氷は何も言わなかった。
責めもしない。
戻れとも言わない。
ただ、押せば進む。
エッジを立てれば曲がる。
昔と同じだった。
そこに意味をつけていたのは、自分の方だったのかもしれない。
晴は少しずつ、そう思うようになった。
ある日、低学年の子どもがシングルサルコウを何度も失敗していた。
踏み切りの形は悪くない。
けれど、どうしても氷を蹴りすぎる。
飛び上がろうとするあまり、足元が乱れている。
晴は何度か見たあと、その子を呼んだ。
「力入れすぎ」
子どもが不満そうな顔をする。
「でも跳ばない」
「跳ぼうとしすぎてるから」
「どういうこと?」
晴は少し考えた。
こういう説明は、以前よりだいぶ慣れてきた。
それでもジャンプは、言葉だけでは難しい。
「蹴るんじゃなくて、滑ってる流れの中で上に乗る感じ」
子どもは首を傾げた。
「分かんない」
「だよね」
晴は少し笑った。
そして、自分の足元を見た。
今日はすでにレンタル靴を履いていた。
さっき別の子にターンを見せたあと、そのままリンク際にいた。
シングルサルコウくらいなら。
そう考えた。
ほんの一瞬だった。
特別な決意はなかった。
「ちょっと見て」
晴はリンクへ出た。
惟人は別の場所でレッスンをしていたが、晴が中央へ出たことにはすぐ気づいた。
いつもならステップやターンを見せるだけだ。
けれど晴の入り方を見た瞬間、少しだけ違うと分かった。
晴はゆっくり滑る。
アウトからインへ。
身体を開きすぎない。
そのまま踏み切る。
シングルサルコウ。
着氷。
何の問題もなかった。
晴自身も、少しだけ驚いた。
跳べるだろうとは思っていた。
シングルだ。
昔ならジャンプとも呼ばないような難度だった。
それでも実際に身体が浮き、回り、片足で氷へ戻った瞬間、懐かしい感覚があった。
空中にいる時間は、ほんの一瞬だった。
その短い間にも、身体は昔と同じ順番で動いた。
「今みたいに」
晴は子どもの方を見る。
「蹴るより、流れそのまま使う感じ」
子どもは真剣に見ていた。
「もう一回」
「いいよ」
晴はもう一度やる。
今度は少しゆっくり。
踏み切りを見せる。
着氷して戻ってくると、子どもはすぐに真似をした。
一回目。
まだ蹴る。
二回目。
少し変わる。
三回目で、形になった。
「そう」
晴が言う。
「今の」
子どもが嬉しそうに笑った。
その顔を見て、晴も笑う。
そこまではいつもと同じだった。
問題は、そのあとだった。
子どもがもう一度練習へ戻る。
晴はリンクの端へ下がろうとした。
その途中で、少し広いスペースが空いていた。
何となく。
本当に何となくだった。
さっき跳んだ感覚が、身体に残っている。
晴は一度だけ、自分の足元を見た。
シングル。
簡単だった。
それなら。
そう思った。
誰かに見せる必要もない。
ただ、試してみたいと思った。
その感覚が、自分でも少し意外だった。
晴はゆっくり助走へ入った。
惟人はその瞬間、さっきまで見ていた子どもから完全に目を離した。
入り方が違う。
さっきのシングルとは違う。
晴が何をしようとしているのか、すぐ分かった。
「晴」
声をかけるか迷った。
病院では無理をするなと言われている。
筋力も戻っていない。
骨の状態だって、慎重に見なければならない。
けれど、止める前に晴はもう踏み切っていた。
ダブルサルコウ。
二回転。
高さはない。
回転も、現役時代のような余裕はない。
着氷した瞬間、少しだけ身体が前へ流れた。
それでも立った。
晴はそのまま数メートル滑った。
止まる。
自分でも何が起きたのか確かめるように、足元を見る。
惟人はしばらく何も言わなかった。
怒るべきだった。
たぶん。
勝手に跳ぶな。
病院で言われただろ。
今の身体で何考えてる。
言いたいことはいくらでもある。
でも、晴の顔を見た瞬間、その全部が少し遠のいた。
晴は笑っていた。
大きくではない。
ただ、自分でも信じられないものを見つけたような顔で、少しだけ笑っている。
「……跳べた」
その声には、子どもに見せたときとは違う響きがあった。
誰かのためではない。
自分のために跳んだ。
二年間。
そういうジャンプを一度もしていなかった。
晴はもう一度、今降りた場所を見る。
「身体、覚えてるんだ」
その言葉を聞いて、惟人は胸の奥が少し痛くなるような感覚を覚えた。
当然だと思った。
晴がどれだけ跳んできたと思っている。
何千回。
何万回。
転んで。
降りて。
直して。
また跳んで。
それを十年以上繰り返してきた。
二年離れたくらいで、全部消えるわけがない。
「当たり前だろ」
惟人が言う。
晴がそちらを見る。
「そうかな」
「何年やってたと思ってんだよ」
「でも二年だよ」
「二年しか、だろ」
晴は少しだけ目を細めた。
その言い方は、晴の中にはなかった。
二年も離れた。
ずっとそう思っていた。
でも惟人から見れば、二十年以上滑ってきた身体が、二年離れただけなのかもしれない。
その違いが、少し不思議だった。
惟人はリンク際へ来る。
「で」
晴が少し身構える。
「何」
「今日はもうジャンプなし」
「やっぱり怒る?」
「怒ってる」
「でも跳べたよ」
「跳べたことと、跳んでいいことは別」
正論だった。
晴は少し口を尖らせた。
「二回転だけだよ」
「今のお前には二回転でも負荷あるんだよ」
「分かってる」
「分かってたら勝手に跳ぶな」
「ごめん」
謝り方は素直だった。
でも、顔はまだ少し嬉しそうだった。
惟人はそれを見て、完全には怒りきれなかった。
「脚どう」
「平気」
「本当に?」
晴は少し動かしてみる。
「うん。今は」
「じゃあ今日は終わり」
「もう?」
「終わり」
晴は不満そうだったが、今度は逆らわなかった。
リンクを上がる。
ベンチへ座り、レンタル靴の紐をほどく。
その手元を見ながら、晴はさっきの感覚を思い返していた。
踏み切り。
空中。
着氷。
昔なら何も感じなかった。
二回転なんて、ウォームアップの一部だった。
それが今は、少しだけ嬉しい。
できたから。
自分の身体に、まだ残っていたから。
だからといって、もっと難しいものを跳びたいわけではない。
少なくとも、晴はそう思っていた。
三回転も。
四回転も。
必要ない。
競技に戻るわけではない。
ただ。
もう一度跳べたことが、嬉しかった。
その程度だった。
惟人は少し離れたところから、靴を脱ぐ晴を見ていた。
たぶん今は、それでいい。
二回転を跳んだ意味を、無理に大きくする必要はない。
晴自身がまだ、何かを取り戻そうとしているわけではないのだから。
ただ、惟人には一つだけ分かったことがあった。
晴は氷へ乗ることを、もう怖がっていない。
そして今日初めて、自分から跳んだ。
それだけで十分だった。
その日から、晴は見本を見せるためだけではなく、ときどき自分のために少し滑るようになった。
長くはない。
ほんの数分。
仕事の合間にリンクが空いていれば、一周だけ。
ターンをいくつか。
簡単なステップ。
たまにシングル。
そして、惟人が見ているところでは必ず止められるので、二回転は本当に少しだけ。
それでも晴の身体は、氷へ乗るたびに何かを思い出していった。
感覚の方が、筋肉よりずっと早く戻る。
頭の中では、昔の速度で動ける。
足も、次に何をするか知っている。
けれど身体はそこまでついてこない。
その差が、ときどき晴を困らせた。
一度、昔の癖で深くエッジへ乗ろうとして、思ったより脚が支えられずに大きく揺れたことがあった。
転びはしなかった。
でも、そこで初めて少し怖くなった。
自分は、できるつもりで動いてしまう。
身体が覚えているから。
でも今の身体には、その動きを支えるだけの力がない。
晴はそれから、以前より慎重になった。
できることと、やっていいことは違う。
惟人が何度も言っていた意味を、少しずつ理解し始めた。
それでも。
氷へ乗ることはやめなかった。
むしろ、毎回ほんの少しだけ楽しみになっていた。
自分からそれを認めることは、まだなかったけれど。




