第十七章 できることと、できないこと
二回転を跳んだ日から、晴が氷へ乗る時間は少しずつ長くなった。
それでも、練習と呼べるほどのものではなかった。
仕事の合間にリンクが空いていれば、レンタル靴を借りる。子どもに動きを見せたついでに、少しだけ自分でも滑る。エッジを確かめ、ターンをつなぎ、身体が動きそうならシングルや二回転を一本だけ跳ぶ。
最初の頃に比べれば、氷へ乗ること自体はずいぶん自然になった。
もう入口で立ち止まることもない。
ブレードを履けば、そのまま氷へ出る。
押す。
滑る。
曲がる。
身体はそれを特別なものとして扱わなくなり始めていた。
むしろ問題になるのは、その先だった。
晴の中には、現役時代の感覚が思っていた以上に残っている。
だから、何か一つできると、その次もできるような気がしてしまう。
ダブルサルコウが跳べれば、次はトウループ。
トウループが問題なければ、ループ。
それぞれ一度ずつ確かめる程度なら、意外なほど身体は動いた。
もちろん高さはない。
着氷にも昔ほどの余裕はない。
それでも回転そのものは、身体が覚えている。
晴はそれが少し面白かった。
自分の身体なのに、知らないものを確かめているようだった。
「ダブルループもいけた」
ある日、リンクから上がってきた晴が少し嬉しそうに言うと、惟人はタブレットから目を上げた。
「見てた」
「結構ちゃんと降りたでしょう」
「降りたな」
「じゃあ次フリップ」
「今日は終わり」
晴は眉を寄せる。
「なんで?」
「もう三種類跳んだ」
「二回転だよ」
「今のお前には関係ない」
惟人は晴の脚を見る。
本人はまだ平気そうな顔をしているが、少し前から着氷後の流れが短くなっている。
本人より先に、疲労が滑りへ出ていた。
「疲れてるだろ」
「そんなに」
「じゃあもう一周してみろ」
言われて、晴は少しだけ嫌な顔をした。
たぶん自分でも分かっている。
何も言わずもう一度リンクへ戻り、ゆっくり一周する。
最初は普通だった。
けれど後半になると、膝の使い方が浅くなった。
晴自身もそれを感じたらしい。
リンクを上がってくると、今度は素直にベンチへ座った。
「……脚、重い」
「だから言っただろ」
「前はこれくらい何でもなかったのに」
その言葉に、惟人は少しだけ表情を変えた。
晴が自分から、以前と今を比べるようになった。
最初の頃は、そういう比較そのものを避けていた。
もう競技をしないのだから関係ない。
四回転を跳ばないのだから必要ない。
そう言っていた。
今は、自分の身体が昔どうだったかを思い出しながら、今との違いを見ている。
それが良いことなのかどうか、惟人にはまだ分からなかった。
ただ、晴が自分の身体へ関心を戻していることだけは確かだった。
「戻していけばいい」
惟人が言う。
晴は水を飲みながら少し考えた。
「戻るかな」
「戻す気あるなら」
「別に四回転までとは言ってないよ」
「誰もそこまで言ってない」
晴は少し笑った。
でも、その日の午後。
晴は今度はスピンを試した。
きっかけはやはり子どもだった。
キャメルスピンの姿勢が崩れる子を見ていて、何度説明しても足の位置が伝わらない。
晴はしばらく考えたあと、リンクへ入った。
「一回だけ見てて」
子どもが頷く。
晴は軽く助走をつけてスピンへ入り、軸を作って身体を倒す。
そこまでは驚くほど自然だった。
二年間空いているとは思えないくらい、中心はすぐ取れた。
一回転。
二回転。
三回転。
ところが、そこからだった。
姿勢を保つための背中と臀部が、思っていたより早く疲れる。
脚も上がらない。
軸そのものは大きく崩れていないのに、身体をその形へ留めておけない。
晴は予定より早くスピンをほどいた。
最後の出口も少し乱れた。
「……あれ」
思わず声が出る。
子どもがリンクサイドから聞く。
「失敗?」
「ちょっとね」
晴はもう一度やった。
今度は入りをより丁寧にする。
軸は取れる。
感覚もある。
それでも、数回転すると同じように身体が持たない。
晴は途中でやめた。
リンク際へ戻る。
そこには、いつの間にか惟人がいた。
「どうした」
「回れない」
「回ってたじゃん」
「そうじゃなくて」
晴は少し苛立ったように言う。
「軸は取れてるのに、姿勢保てない」
惟人には見ていれば分かっていた。
晴がスピンの入り方を忘れているわけではない。
むしろ、技術そのものはかなり残っている。
ただ、それを維持する筋力が足りない。
晴も同じことに気づいたらしい。
自分の背中へ手を当てる。
「ここ、こんな使うんだっけ」
「使うよ」
「昔全然考えてなかった」
「考えなくてもあったからな」
筋肉が。
その言葉を、惟人はあえて口にはしなかった。
けれど晴も意味は分かったのだろう。
少し黙って、自分の脚を見る。
「ジャンプより分かりやすいかも」
「何が」
「ないの」
晴は自分の身体を指した。
「筋肉」
声は軽かった。
でも、それまでとは少し違う。
数字として四十九キロと言われた。
医師から筋肉が落ちていると説明された。
惟人にも何度も言われた。
それでも、自分の中ではどこか他人事だったのかもしれない。
働ける。
歩ける。
自転車にも乗れる。
だから、自分の身体は普通に動いていると思っていた。
けれどスピンをすると、誤魔化せない。
昔なら意識すらせず保てた姿勢を、今は数秒支えるだけで疲れる。
技術がないのではない。
身体が足りない。
その違いが、晴には初めて実感として分かった。
「ちょっと悔しい」
晴が言った。
惟人はその言葉を聞いて、すぐには返事をしなかった。
悔しい。
晴の口からその言葉が出たことに、少し驚いた。
スケートに関して。
今の自分に対して。
それは、晴が氷を完全に過去のものとして扱っているなら出てこない感情だった。
「じゃあ戻せばいい」
惟人が言う。
晴はすぐに頷かなかった。
「筋肉?」
「まずそこ」
「どのくらいかかるかな」
「知らない。医者に聞け」
晴が少し笑った。
「また病院?」
「行くぞ。結果も聞く予定だろ」
そうだった。
初診のときに行った検査結果の確認と、経過を見るための再診が近づいている。
晴はそれを完全に忘れていたらしい。
「忘れてた」
「俺は覚えてる」
「惟人、僕の予定把握しすぎじゃない?」
「管理しないとお前勝手に仕事入れるだろ」
「最近減らしたよ」
「減らしてその量なんだよ」
晴は何も言い返さなかった。
夜の仕事はまだ続けている。
午前中に配送へ入る日もある。
以前より調整しているとはいえ、休養が十分とは言い難い。
そのうえリンクへ来れば、以前はしなかった運動まで少しずつ増えている。
晴自身も、最近は身体の疲れ方が以前と変わってきたことに気づいていた。
仕事だけをしていた頃は、一日の終わりに身体全体が重くなる。
今はそこに、腿や背中といった特定の場所の疲れが混じる。
滑った日の翌朝には、久しぶりに筋肉痛になることもあった。
その感覚さえ、少し懐かしい。
「病院で、滑ってるって言ったら怒られるかな」
晴が言う。
「怒られろ」
「惟人も一緒に怒られるよ」
「なんで俺が」
「止めてないから」
「止めてるだろ。毎回」
「完全には止めてない」
そこは確かにそうだった。
惟人は晴が氷へ乗ること自体を止めてはいない。
時間を見て。
疲労を見て。
ジャンプを制限している。
それでも、滑るなとは言わない。
晴はそのことを分かっていた。
「惟人」
「何」
「僕が滑るの、嬉しい?」
突然聞かれて、惟人は一瞬黙った。
晴はただ疑問に思ったらしい。
深い意味はない。
惟人がいつも見ているから。
止めながらも、完全にはやめさせないから。
その理由を聞いただけなのだろう。
「嬉しいよ」
惟人は普通に答えた。
晴が少し目を丸くする。
もっと誤魔化されると思っていたのかもしれない。
「そっか」
それだけ言って、晴はリンクへ視線を戻した。
惟人もそれ以上説明しなかった。
競技に戻ってほしいわけではない。
四回転を取り戻してほしいわけでもない。
ただ、晴が氷の上で少し楽しそうにしている。
それを見るのが嬉しい。
今は、それだけでよかった。
晴はしばらくリンクを見てから、自分の脚を軽く叩いた。
「じゃあ筋肉、もう少し戻したいな」
惟人がそちらを見る。
晴はまだ氷を見ている。
「スピン、ちゃんと回れないの気持ち悪い」
理由は、そんなものだった。
大きな決意でもない。
競技へ戻る宣言でもない。
ただ、自分が知っている自分の動きと、今の身体が一致しないことが気持ち悪い。
その程度の理由で。
晴は初めて、自分から身体を戻したいと思った。
惟人には、それで十分だった。




