第十八章 戻すために
再診の日、晴は前回よりずっと素直に病院へ向かった。
最初に来たときは、車の中で何度も「本当に行くの」と聞き、病院へ行くほどではないと最後まで思っていた。自転車に乗れる。仕事にも行ける。痛いところもない。だから健康なのだと、少なくとも生活できる程度には問題ないのだと考えていた。
けれど今は少し違う。
自分の身体が動かないことを、氷の上で実際に知った。
ジャンプは跳べる。
けれど続かない。
スピンは軸を取れるのに姿勢を保てない。
ステップも、頭の中では昔と同じ速度でつながっているのに、脚が途中で重くなる。
言葉で「筋肉が落ちています」と言われたときには、分かったようで分かっていなかったことが、今は身体の感覚として分かる。
だから今回は、惟人が何も言わなくても助手席に座った。
病院へ着いても文句を言わなかった。
そのこと自体が珍しかったのか、受付を済ませたあと惟人が言う。
「今日は大人しいな」
晴は待合室の椅子へ座りながら惟人を見る。
「前も大人しかったよ」
「車で三回くらい帰ろうとしてただろ」
「帰ろうとはしてない」
「病院行くほどじゃないってずっと言ってた」
「それは思ってたけど」
晴は少し考えてから、素直に続けた。
「今日は聞きたいことあるから」
「何」
「筋肉ってどれくらいで戻るのかなって」
その言葉を聞いて、惟人は一瞬だけ黙った。
晴は気づかず、自分の太腿を軽く叩いている。
「あと、どのくらい滑っていいのか」
以前なら、医師から運動を制限されることを面倒に感じていただろう。
今は、自分がどこまでならやっていいのかを知ろうとしている。
惟人はそれを聞いただけで、少し嬉しくなった。
けれど顔には出さなかった。
「それはちゃんと聞け」
「うん」
診察室へ呼ばれたのは、それからしばらくしてだった。
前回と同じ医師が、二人を見ると少し笑った。
「その後どうですか」
晴は椅子へ座りながら答える。
「食べてます」
医師はカルテを見ながら頷いた。
「一日何回くらい?」
「三回の日が増えました」
隣から惟人が補足する。
「俺がいるときは三回です」
晴がすぐ振り返る。
「いないときも食べてるよ」
「抜いてる日あるだろ」
「たまに」
「それを食べてるって言うな」
医師が少し笑った。
「前回よりは改善している、くらいにしておきましょうか」
晴は少し不満そうだったが、否定はしなかった。
睡眠について聞かれる。
晴はそこだけ少し言いにくそうな顔をした。
夜の仕事はまだ続けているし、午前に配送へ入る日もある。
「平均すると?」
聞かれて、晴は少し考えた。
「六時間くらいの日が増えました」
「増えた、ということは?」
「四時間くらいの日もあります」
惟人の眉間に皺が寄る。
医師はそれを見てから、晴へ戻した。
「今は身体を戻す時期なので、できれば睡眠ももう少し確保してください」
「はい」
今回は晴も素直に頷いた。
それから、前回行った検査の結果について説明が始まった。
大きく治療を必要とする異常はなかった。
けれど、すべて正常というわけでもない。
長期間の食事不足を考えれば不思議ではない程度に、いくつかの栄養状態を示す項目が低めだった。
医師は一つずつ説明した。
晴は前回より真面目に聞いていた。
数字そのものより、自分の身体にどう関係するのかを気にしている。
「これって、筋肉落ちてるのと関係あります?」
途中で晴が聞いた。
医師は頷いた。
「直接これ一つが原因というわけではありませんが、長期間エネルギーやたんぱく質が足りない状態が続けば、筋肉は維持できません。九条さんの場合は競技をやめてトレーニング量も変わっていますから、両方が重なっているでしょうね」
晴は自分の腕を見た。
「戻りますか」
前回はしなかった質問だった。
医師は少し考えてから答える。
「戻せます。ただし、時間は必要です」
晴が顔を上げる。
「どのくらい?」
「それは今後の食事、睡眠、運動量で変わります。元々かなり高いレベルでトレーニングしていた方なので、一般の人より身体の使い方を覚えているという意味では有利かもしれません。でも、昔と同じ身体へ急いで戻そうとするのはよくありません」
その言葉に、惟人が少しだけ晴を見る。
晴は真面目な顔で聞いていた。
「今、少し滑ってます」
自分から言った。
医師の手が少し止まる。
惟人は何となく視線を逸らした。
晴は続ける。
「仕事で子どもに見せるくらいです。あと、少しだけ自分でも」
「ジャンプは?」
晴は一瞬だけ黙った。
惟人が横を見る。
「……二回転まで」
医師の視線が少し鋭くなる。
晴はすぐ言い訳した。
「何本もじゃないです」
「種類は?」
「サルコウとトウとループ」
惟人が小さく息を吐いた。
医師は晴と惟人を交互に見る。
「止めていないんですか」
今度は惟人に向けられた。
「止めてます」
「完全には止めてないでしょう」
晴が横から言う。
惟人が睨む。
「お前どっちの味方だよ」
「事実でしょう」
医師は少しだけ笑ったあと、表情を戻した。
「滑ること自体を全部やめる必要はありません。ただ、今の段階でジャンプを増やしていくのはおすすめしません」
晴は素直に頷いた。
「スピンは?」
「どのくらい?」
「軸は取れるんですけど、姿勢が保てなくて」
その言い方に、医師は少し興味を持ったようだった。
「それで自分でも筋力が落ちているのが分かった?」
「はい」
晴は少し苦笑する。
「思ってたより全然だめでした」
医師は頷く。
「そこはむしろ大事な気づきですね。技術の記憶が残っている分、できるつもりで動いてしまう方が危ないです」
晴はすぐ意味を理解した。
自分でも同じことを感じていた。
頭の中ではできる。
身体も最初の動きはできる。
だから、その先までできる気がする。
でも実際には、その動きを支える筋力も持久力も戻っていない。
「じゃあ、何ならやっていいですか」
晴が聞いた。
その質問に、惟人はまた少し驚いた。
前回なら、何をしてはいけないかを聞くことすら面倒がっていたはずだ。
今は、自分からやっていいことを知ろうとしている。
医師は少し考えながら答えた。
「まずは低い負荷で滑ること。エッジワークや簡単なステップ。無理のない範囲で、短時間。ジャンプはしばらく難度を上げない。スピンも長く続けるより、姿勢を確認する程度。疲労が残るなら翌日は休む」
晴は頷きながら聞いている。
「筋トレは?」
「必要です。ただし、競技時代と同じメニューをそのままやるのは駄目です」
その言葉に、晴が少し笑った。
「やろうと思ってました」
「やめてください」
即答だった。
惟人も横で笑う。
「言われてるぞ」
「まだやってないよ」
「考えた時点で危ない」
「惟人に言われたくない」
医師は二人のやり取りを聞きながら、少しだけ表情を和らげた。
それから骨密度の結果について説明した。
晴はそこを特に気にしていた。
結果は、今すぐ治療が必要なほどではない。
ただ、元アスリートという背景を考えれば、良好とは言い切れない。
長期間のエネルギー不足が影響している可能性もある。
だから今は、筋肉だけではなく骨を含めた身体全体を戻していく必要がある。
「ジャンプの着氷は、見た目以上に負荷がかかります」
医師が言う。
「昔できたから大丈夫、という考え方はしないでください」
晴は少しだけ神妙な顔になった。
「はい」
惟人も横で頷いた。
そのあと体重を測った。
前回より少し増えていた。
大きな変化ではない。
でも減ってはいない。
晴は数字を見て少し驚いた。
「増えてる」
「食ってるからな」
惟人が言う。
「そんなすぐ増えるんだ」
「少しずつですよ」
医師が補足する。
「体重だけを急いで増やせばいいわけではありません。食事を安定させて、休んで、必要な筋肉を少しずつ戻していく。その結果として体重もついてくるくらいで考えてください」
晴はもう一度数字を見た。
以前なら、体重そのものにほとんど興味を持たなかったかもしれない。
今は少し違う。
この数字が増えることは、自分の身体が戻ることの一部なのかもしれない。
「何キロくらいまで戻した方がいいですか」
晴が聞いた。
医師はすぐには数字を出さなかった。
「まずは体重より、状態を見ましょう。以前の競技時代と同じ数字を目標にする必要もありません。今後どういう活動をするのかでも変わります」
「競技はしません」
晴はすぐ答えた。
そこは変わらない。
医師も頷く。
「それならなおさら、健康に生活できて、今やりたいことが無理なくできる身体を目標にすればいいと思います」
今やりたいこと。
晴はその言葉に少しだけ止まった。
以前なら、その問いに何も浮かばなかった。
今は。
子どもを見る。
リンクへ行く。
少し滑る。
スピンをちゃんと回りたい。
そんなものが、少しずつ出てきている。
「スピン、ちゃんと回れるくらいには戻したいです」
晴が言った。
医師は少し笑った。
「では、そこからですね」
診察が終わり、二人で廊下へ出る。
前回と同じ病院。
同じような時間。
それでも晴の気持ちはかなり違っていた。
最初は、悪いところを探されるために来たような気がしていた。
今回は、自分がこれから何をすればいいのか聞きに来た。
その違いを、晴自身も何となく感じていた。
病院を出る前、惟人が聞く。
「どうだった」
「何が」
「聞きたいこと聞けた?」
晴は少し考えた。
「うん」
それから、自分の腕を見た。
「筋肉戻るって」
「言ってただろ」
「前は、戻す必要ないと思ってたから」
惟人は何も言わなかった。
晴は続ける。
「今は、ちょっと戻したい」
その言い方はまだ軽い。
競技へ戻るわけでもない。
昔の身体を取り戻すと決めたわけでもない。
ただ、できないことがあるのが気になる。
もう少し動けるようになりたい。
その程度だ。
でも惟人には、その程度で十分だった。
「じゃあ無茶すんな」
「分かってる」
「二回転勝手に増やすな」
「分かってるって」
「三回転考えるな」
晴が少し黙った。
惟人がすぐ横を見る。
「考えたな?」
「まだ跳ばないよ」
「まだって言ったな今」
晴は少し笑った。
「言葉の綾」
「信用ならねえ」
二人はそんなことを言いながら病院を出た。
外は少し暖かくなっていた。
三月も終わりに近づいている。
晴は歩きながら、ふと自分の脚へ意識を向けた。
昔と同じではない。
でも、戻らないわけではない。
時間はかかる。それでも、食べて、眠って、筋肉をつけて、無理をしない。やること自体は、思っていたより単純だった。
それが少しだけ嬉しかった。
何をすればいいのか分かるということは、それだけで前へ進みやすい。
晴は歩きながら、次にリンクへ行ったら何をしようか考えていた。
スピン。
まずは姿勢を保つところから。
その程度でいい。
今はまだ。




