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春待氷  作者: りん
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第十九章 少しずつ戻る


それから三週間ほど、(はる)は医師に言われた通りの生活を続けた。

最初の数日は、あまりにも地味な内容に拍子抜けした。


スクワットも、体幹も、バランス系のトレーニングも、晴が現役時代にやっていたものをずっと軽くした内容だった。


「これだけ?」


初日にそう聞くと、惟人は迷いなく答えた。


「これだけ」


「もうちょっとできるよ」


「できるかどうかじゃなくて、今やる量がこれ」


「でも」


「医者に何言われた」


それを出されると、晴も強くは言えない。


結局、言われた通りにやった。


最初は物足りないと感じた。


けれど、実際に始めてみると、すぐに考えが変わった。


動き自体は簡単でも、回数を重ねると腿が震える。


体幹を保つだけで背中が疲れる。


片脚でバランスを取れば、昔なら気にも留めなかった揺れが出る。


晴はそのたび、今の身体がどこから戻ろうとしているのかを思い知らされた。


それでも、続ければ少しずつ変わる。


その変化は思っていたより分かりやすかった。


最初の一週間は、翌日に筋肉痛が残った。


二週間目になると、同じメニューをこなしても疲労が少し軽くなった。


三週間目には、終わったあとに「まだ少しできそう」と感じる日が増えた。


そこで初めて、惟人が回数を少しだけ増やした。


晴はそれが嬉しかった。


ほんの少し。


自分でも驚くくらい。


競技をしていた頃は、負荷が上がることなど日常だった。


できれば次。


できたらその次。


もっと速く。


もっと高く。


もっと正確に。


そうやって何年も身体を作ってきた。


今は、その頃とは比べものにならないほど小さな段階を上がっている。


それでも、昨日よりできることが増える感覚そのものは変わらなかった。


食事も少しずつ安定した。


惟人の家にいる日は、ほとんど三食。


仕事へ出る日は時間がずれることもあるが、以前のように一日一回で済ませることは減った。


最初の頃は食べる量そのものがなかなか増えず、途中で箸が止まることも多かった。


それも少しずつ変わった。


一度にたくさん食べるのではなく、足りなければあとで食べる。


そのやり方にも慣れてきた。


晴は最初、「一日に何回も食べるの変な感じ」と言っていたが、今はリンクから帰る途中で普通に「お腹空いた」と言うようになった。


惟人はそのたび何も言わず、少しだけ安心した。


身体の見た目も、ほんのわずかに変わり始めた。


劇的にではない。まだまだ細い。


現役時代を知っている惟人から見れば、戻ったと言えるほどではない。


それでも、肩や腿に少しだけ厚みが出て、以前より服が身体に沿うようになった。


晴自身はそこまで気にしていなかったが、ある日、以前買ったパンツを履きながら言った。


「これ、前よりちょうどいいかも」


惟人は一瞬だけ晴の腰回りを見てから、すぐ視線を逸らした。


「よかったな」


「なんでそっち見ないの」


「見てるよ」


「今絶対見てなかった」


「どうでもいい」


晴は少し笑った。


そういうやり取りも、以前より増えた。


晴が家にいることが、もう特別ではなくなっている。


仕事から帰ってくれば荷物を置き、冷蔵庫を開ける。


惟人がいれば何を作っているのか覗く。


先に帰っていれば、洗濯物を取り込むこともある。


ソファベッドは毎晩広げるのが当たり前になり、朝になれば畳む。


その繰り返しが、いつの間にか二人の生活の形になっていた。


リンクでも同じだった。


晴はもう「たまたま来ている人」ではない。


勤務表に名前がある。


子どもたちから呼ばれる。


スタッフから仕事を頼まれる。


そして必要なら、自分でレンタル靴を借りる。


最初の頃は見本を見せるためだけだったが、今は勤務のあとに少しだけ滑る時間を取るようになった。


それでも長くはない。


二十分。


長くても三十分。


途中で休む。


惟人に止められる前に、自分から上がることも増えた。


身体の限界が、少しずつ分かるようになったからだ。


この日は、レッスンが終わったあと、リンクが少し空いていた。


晴はいつものようにレンタル靴を履き、ゆっくり氷へ出た。


最初に一周。


もう一周。


足元を確かめる。


以前ほど、最初の数分で脚が重くなることはなくなった。


エッジへ乗ったときの揺れも少ない。


深く踏もうとすればまだ筋力不足は分かるが、少なくとも身体が途中で逃げることは減った。


晴は少しずつ速度を上げた。


クロスやターン、簡単なステップをつなぎながら、リンクを大きく使って滑る。


その感覚が、以前より自然になっている。


惟人はリンクサイドでタブレットを見ていたが、時々視線を上げて晴を確認していた。


晴が滑るのも、もう珍しい光景ではない。


それでも、見てしまう。


以前とは違う意味で。


今どれくらい動くのか。


疲れていないか。


どこまで戻っているのか。


そういう確認もある。


けれど、それだけではない。


ただ、見たい。


その気持ちはまだ変わらなかった。


晴はリンクの端で一度止まり、少し考えた。


今日はスピンをやるつもりだった。


前回は軸は取れた。


でも身体が持たなかった。


三回。


四回。


それくらい回ったところで背中が落ち、脚が下がった。


その感覚がずっと気になっていた。


だから、この三週間、体幹と臀部のトレーニングはかなり真面目にやった。


もちろん、それだけのためではない。


けれど晴自身の中では、一つの目標になっていた。


「やるの?」


リンクサイドから惟人が聞いた。


晴は頷く。


「一回だけ」


「無理ならすぐやめろ」


「分かってる」


助走へ入る。


入りは慎重だった。


軸を作る。


身体を倒す。


キャメルポジション。


一回転。


二回転。


三回転。


晴はそこで、以前との違いに気づいた。


まだ保てる。


背中が落ちない。


脚も下がらない。


もう一回。


さらにもう一回。


回転速度は現役時代ほどではない。


それでも、姿勢は崩れていない。


晴はそのまま予定していた回転数まで保ち、ゆっくり姿勢をほどいた。


出口も大きく乱れなかった。


数メートル滑ってから止まる。


晴は少しの間、自分の足元を見ていた。


何が違ったのか、身体の中で確認するように。


それから、ゆっくり顔を上げた。


惟人と目が合う。


「……回れた」


声には、抑えきれない嬉しさが少し混じっていた。


惟人は笑わなかった。


でも表情は少し柔らかくなった。


「見てた」


「ちゃんと最後まで」


「うん」


「脚も下がらなかった」


「下がってない」


晴はもう一度、自分の身体を見た。


最初にスピンを試した日は、技術だけが残っていて、身体がそれについてこなかった。


軸は分かる。


入り方も分かる。


でも保てない。


その差が、ひどく気持ち悪かった。


今は違う。


ほんの少し。


昔の自分に、今の身体が追いついた。


それだけなのに、晴にはかなり大きなことに思えた。


「本当に戻るんだね」


晴が言った。


惟人は少しだけ首を傾げる。


「だから言っただろ」


「言われるのと、自分で分かるの違うよ」


それはそうだと、惟人も思った。


晴は自分で身体を使って初めて納得するタイプだった。


昔からそうだった。


理屈を聞いて理解しても、最後は氷の上で確かめる。


身体が答えを出せば、それでようやく自分のものになる。


「もう一回やる」


晴が言った。


惟人はすぐ返した。


「一回だけって言っただろ」


「今の感じ忘れたくない」


「忘れない」


「一回だけ」


「今日は終わり」


晴は少し不満そうな顔をした。


「惟人、厳しい」


「お前が調子乗るからだよ」


「一回成功したくらいで調子乗らないよ」


惟人は何も言わず晴を見る。


晴はその視線に負けた。


「……ちょっとだけ乗ってるかも」


「だろ」


晴は笑った。


リンクを上がる。


今日は素直だった。


ベンチへ座り、レンタル靴の紐をほどく。


それでも顔にはまだ嬉しさが残っていた。


ほんの三週間前。


自分の身体には何も残っていないような気がしていた。


正確には、技術は残っていても、それを使うための身体がないと思っていた。


でも、食べて。


眠って。


基礎トレーニングをして。


無理のない範囲で滑って。


そうすれば少しずつ変わる。


時間をかければ戻ってくる。


晴はそのことを、ようやく自分の身体で信じ始めていた。


靴を脱ぎ終えてから、晴はリンクを見た。


ちょうど一人の子どもがトリプルサルコウを練習していた。


踏み切る。


回る。


着氷で少し詰まる。


晴は何となく、そのジャンプを目で追った。


もう一度。


今度はきれいに降りる。


その瞬間、晴の頭の中に昔の感覚が浮かんだ。


三回転。


高さ。


締めるタイミング。


着氷。


二回転より一回多いだけ。


身体はやり方を覚えている。


晴はしばらく黙って子どものジャンプを見ていた。


「晴」


惟人の声が飛んでくる。


晴が振り返る。


「何」


「今何考えてた」


「何も」


「嘘つけ」


「ほんとだよ」


惟人は疑うように見ている。


晴は少しだけ笑った。


「今日はもう跳ばないって」


「今日は?」


しまった、と思ったときには遅かった。


惟人の眉が上がる。


晴は視線を逸らした。


「言葉の綾」


「前も聞いたぞそれ」


「便利だから」


惟人は呆れたように息を吐いた。


晴はもう一度リンクを見る。


今すぐ跳びたいわけではない。


まだ早いことも分かっている。


医師にも難度を上げるなと言われている。


だから、今日はやらない。


ただ以前と違うのは、三回転というものをもう「自分には関係のないもの」として見ていないことだった。


できるだろうか。


そんなことを、少しだけ考えている。


それだけで。


晴の中では、また一つ何かが変わり始めていた。


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