第二十章 見つかる
晴がリンクで子どもたちを見るようになってから、任される内容は少しずつ広がっていた。
最初の頃は本当に基礎的なところからだった。まだ自分自身が氷へ戻ったばかりで、滑るのが精いっぱいだし、生徒に無理をして難しい見本を見せる必要もない。
小さな子どもの姿勢を直したり、エッジへどう体重を乗せるのかを一緒に確認したり、一回転や二回転のジャンプを見せたりする。晴自身もそれで十分だと思っていた。
競技へ戻るわけではない。今さら高難度ジャンプを跳べるようになるかは、晴にとってそれほど重要なことではなかった。子どもへルッツの踏み切りを見せるなら二回転で足りるし、スピンやステップを教えるならなおさらジャンプの難度は関係ない。
むしろ最近の晴が面白がっているのは、そういう部分だった。自分が現役の頃、何をしていたのか。どうしてそう滑っていたのか。それを一つずつ言葉へ直して、人へ渡していく——晴にとっては、それ自体が初めての作業だった。
技術についてなら、まだ説明しやすい。エッジのどこへ乗るのか。踏み切る前に上体をどこへ置くのか。スピンなら軸へどう身体を集めるのか。現役時代に何千回と繰り返した動作だから、意識すればある程度は言葉にできる。けれど、表現となると途端に難しくなった。
どうやって音楽を解釈しているんですか。何を考えて滑っているんですか。どうして、あんなふうに曲と動きが合うんですか。
競技者だった頃にも何度となく聞かれた質問だったが、晴はいつも答えに困っていた。
表現しようと思って滑っているわけではない。
曲を聞く。その中で滑る。晴にとっては、本当にそれだけだった。
音が長く伸びれば、その間はまだ身体もそこにいる。旋律が軽くなれば、足元も軽くなる。
強い音が来れば、その音の中で跳びたくなる。
腕や指先だけを別に動かしている感覚はなく、音が身体の中を通って、その先に手足があるだけだった。
それが晴にとっては当たり前だった。だからこそ教えるのは難しい。けれど同時に、面白かった。
その日、晴が見ていたのは中学生の女子選手だった。ジャンプは悪くない。二回転は安定していて、いくつかの三回転にも挑戦している。スピンも大きな欠点はなく、ステップも必要なターンやステップはきちんと入っている。それなのに、プログラムとして滑ると演技構成点が伸びなかった。本人もそこを気にしていた。
レッスンの終わりに、晴は一度プログラムの一部を見せてもらった。曲が流れる。少女が滑り出す。腕を上げる位置は合っている。身体を止める場所も、振付通りだ。ステップも抜けていない。ジャンプへ向かう助走にも大きな破綻はない。ちゃんとしている。だからこそ、晴は少し考え込んだ。
滑り終えた少女が戻ってくる。
「どうですか」
「ちゃんとしてるよ」
晴が答えると、少女は少し不満そうな顔をした。
「でも点出ないです」
「うん」
「先生にも、もっと表現してって言われるんですけど……何したらいいのか分かんなくて」
「そうだよねえ」
晴は困ったように笑った。それを自分に聞かれても困る、と思ったけれど、今は教える側だった。
少女がさっき滑ったものを、もう一度頭の中で思い返す。振付はできている。
ただ、腕を上げることと音楽が別々だった。ステップを踏むことと、曲を聞くことも、どこか離れている。
ジャンプへ入る瞬間には、身体全部が「ジャンプを跳ぶこと」へ向かってしまい、それまでそこにあった音楽が消えていた。
晴は曲を途中からもう一度流してもらった。
「ここ、腕上げるでしょう」
「はい」
「なんで?」
少女がきょとんとする。
「振付だから」
「うん。そうなんだけど」
間違いではない。晴は少し考え、もう一度その音を聞いた。
「ここ、音がまだ伸びてるんだよね」
少女も音源の方を見る。
「だから、腕を上げるっていうより、音がまだ終わってないから、その間は身体もそこにいる感じ」
少女の眉間に少し皺が寄った。
「……難しいです」
「僕も説明してて難しい」
晴が笑うと、少女も少し笑った。
「あと、ジャンプの前」
晴は続ける。
「ここから急に、曲がなくなる」
「でもジャンプ集中しないと怖いです」
「うん。それはそう」
晴はすぐ頷いた。
「でも、音楽は止まってないでしょう」
言っていて、自分でももどかしくなった。見せれば早い。身体でやれば、たぶんもっと分かる。
晴はしばらくリンクの中を見たあと、少女へ顔を向けた。
「……一回やってみようか」
少女の顔がぱっと明るくなる。
「先生が?」
「途中だけね。僕、その振付ちゃんと覚えてないから」
担当コーチも少し離れたところから頷いた。
それを確認して晴はそのままリンクへ出た。
曲を少し前から流してもらう。晴は少女がさっき滑った部分を思い出しながら、ゆっくりとエッジへ乗った。
少し離れた場所では、自分の練習を終えた惟人が水を飲んでいた。晴が子どもへ見本を見せること自体は、もう珍しくない。だから最初は、惟人も何となく眺めていただけだった。
ところが、晴が一つ目のターンへ入ったところで、惟人の手が止まった。
速くない。むしろ、子どもが見て分かるように速度を落としている。難しいステップを足したわけでもない。さっき少女が滑ったものと、振付そのものはほとんど変わらない。それなのに、まるで違った。
そうか。音があるんだと思った。
生徒の曲に合わせて晴が滑っている。
晴が音へ合わせているようには見えなかった。音があって、その音の中から晴の身体が自然に現れる。エッジを切り替える。その瞬間に、そこに鳴っていた音が急にはっきりする。首を少し傾ける。視線が動く。腕が伸びる。指先が開く。どれも、音に合わせるために作った動きには見えない。晴の指先がそこへ届いたことで、今まで聞こえていたはずの音の余韻が、初めて形になったように見えた。
惟人はそれを知っていた。昔から、何度も見てきた。
晴は表現しようとして滑っているわけではない。
本人に聞けば、きっと今でも「曲を聞いて滑ってるだけ」と言う。
それなのに、音楽そのものが晴の身体を通って、氷の上へ現れる。
久しぶりだった。本当に、久しぶりだった。
惟人はいつの間にかスマートフォンを手に取っていた。
撮ろうと考えた覚えはなかった。指導用に残そうと思ったわけでもない。
気づけば、カメラを晴へ向けていた。
画面の中を晴が滑る。晴はステップから流れを切らず、スピンへ入った。回転そのものは、現役時代ほど速くない。筋力がまだ完全に戻っていないことも、惟人には分かる。
それでも、スピンに入るために、それまでの演技が一度終わったようには見えなかった。
直前まで流れていた旋律が、そのまま晴の身体へ巻き付き、回転へ変わっていく。
スピンから抜けると体重がエッジへ乗り、脚が後ろへ上がった。スパイラル。
リンクの上へ、一本の長い線が伸びる。背中、首、腕、そして伸ばされた指先。そこまで音がある。
惟人は小さな画面を見つめたまま、息を止めた。
ああ。
突然、そう思った。晴だ。
その瞬間、目の奥が熱くなった。晴は、もうずっと目の前にいた。三月に見つけて、家へ連れて帰った。惟人の家で食事をして、眠って朝になれば仕事へ行き、終われば帰ってくる。リンクで子どもを教えている。自分でも少しだけ滑るようになった。それなのに、小さな画面の中で滑っている晴を見た瞬間に、初めて、本当に帰ってきたと思った。
二年前まで、惟人は何度もこうして画面越しに晴を見ていた。大会の映像。練習動画。公式アカウントに上がる短いクリップ。誰かが偶然撮った映像。検索すれば、いつも新しい九条晴がいた。昨日までなかった晴が、今日、増える。次の大会になれば、またその先の晴がいる。
それが、ある日突然止まった。どれだけ名前を検索しても、新しいものは増えなかった。出てくるのは過去だけだった。十七歳。十九歳。二十歳。五輪で勝った晴。最後の世界選手権を滑った晴。そこで、晴の時間だけが止まっていた。
惟人自身は、そのあとも滑った。晴のいない五輪に出て、世界選手権でも勝った。いくつも新しい映像が増えた。けれど晴だけは、どこにもいなかった。
今、いる。自分の手の中に、今日の晴が、今この瞬間に滑っている。
惟人の視界が滲んだ。泣くつもりなどなかった。けれど止められなかった。二年間、何を探していたのか、ようやく分かった気がした。生きていると知りたかった。それだけでもよかったはずだった。でも本当は、また晴が滑っているところを見たかった。画面の中で、新しい晴を見たかった。
晴はそんなことを知らない。スパイラルから脚を下ろし、短い助走へ入った。左足のアウトサイド。トウ。跳んだのは2Lzだった。何でもない、子どもへ踏み切りを見せるための二回転。かつて世界の頂点で四回転を何本も跳んでいた男のジャンプとして見れば、あまりにも小さい。でも、そんなことはどうでもよかった。
着氷。
身体が流れる。
腕が開く。
その指先が、また次の音へつながっていく。
晴は三十秒ほど滑ったところで止まった。惟人は少し遅れて録画を止めた。画面に、最後の一瞬が残っている。何度見ても晴だった。四回転がなくても。三回転すらなくても。競技者の身体でなくても。晴が滑れば晴だった。
そのことを、どうしても自分一人の中へ抱えておけなかった。誰かに見てほしい。晴を知っていた誰かに。ここにいる、まだ滑っている、今日の九条晴がいる——それだけでいい。
気づけば、SNSをひらいていた。動画を選ぶ。
文章は何も書かなかった。
晴が帰ってきたと書くのは違うと思った。
晴は競技へ戻ったわけではない。人前へ戻るとも言っていない。
帰ってきたと思ったのは惟人自身だ。
だから名前も、説明も、タグも、何もつけなかった。三十秒の動画だけを、そのまま投稿した。
晴には言わなかった。
最初の反応は静かだった。榊惟人のアカウントへ、見慣れない人物のスケート動画が上がった。それだけだった。
《誰?》《惟人のスクールの選手?》《上手い、この人》《目が惹きつけられるね》《こんな選手いたっけ》《え、プロか選手だよね》《スパイラル綺麗》《この人誰だろ》
動画そのものはたった三十秒しかない。難しいジャンプもない。それでも少しずつ見る人が増えた。
《音に入るタイミング綺麗》《指先まで曲の中にいる感じ》《スピン入るところ好き》《この人ほんと誰》《なんか見覚えあるような》
そして少し時間が経って、一つ、短いコメントが落ちた。
《……晴?》
その下、しばらく反応が止まった。やがて——
《え》《待って》《Haru?》《まさか》
そして、
《KUJO HARU?》
一度、名前が出た。そこから空気が変わった。
《九条晴?》《嘘》《これ本当に晴?》《HARU KUJO??》《晴だ》《本当に?》《滑ってる》《晴が滑ってる》
やがてその中に、少しずつ同じ言葉が増え始めた。
《おかえり》《Welcome back》《おかえり、晴》《待ってた》
《Heureux de te revoir, Haru !》 《돌아와 줘서 고마워》 《欢迎回来》
惟人は、その画面を見て少しだけ笑った。そうだよな、と思った。分かるよな。晴が滑れば分かる。顔なんかまともに見えなくても。四回転なんかなくても。誰だって分かる。晴の滑りは、ずっとそうだった。自分だけではなかった。世界中の人間が何年も、この滑りを見ていた。晴を覚えている。そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
晴が異変に気づいたのは、指導が一段落してスタッフルームへ戻ったときだった。置いてあったスマートフォンを手に取る。Instagramの通知が、見慣れない数だけ並んでいた。
「……何?」
画面を見ている間にも、また一つ、次、また。メンション。フォロー。メッセージ。
「え」
さらに増える。晴は眉を寄せた。
「なになになに」
現役時代なら、通知が増えること自体は珍しいことではなかった。大会のあと、特に五輪や世界選手権でメダルを取ったときなど、この程度では済まなかった。けれど、今の晴のInstagramがこんなふうに動くことは、もう二年間なかった。
二年前、姿を消すと決めたとき、電話番号を変えた。以前の連絡先も、ほとんど切った。SNSもInstagram以外は残さなかった。Instagramだけは消せなかった。自分のためではない。惟人を見るためだった。
投稿はしない。いいねもしない。コメントもしない。
自分が見ていると分かるようなことは何もしなかった。ただ見るためだけ。惟人の試合。公式が上げる映像。惟人自身が投稿する写真。五輪も、世界選手権も。晴はずっと、そこから見ていた。
だから、二年間ほとんど沈黙していた自分のアカウントが、今さらなぜこんなに動いているのか、それが分からなかった。
晴は通知の一つを開いた。動画が出た。自分だった。ステップ。スピン。スパイラル。2Lz。晴はしばらく無言で見た。投稿者、榊惟人。文章は何もない。動画だけ。
晴はゆっくり顔を上げた。
「……惟人」
スマートフォンを持ったまま、リンクへ戻る。呼ばれた惟人が、少し離れたところから振り返った。
「何」
晴は近づき、そのまま画面を見せた。
「これ」
惟人は一度見た。
「うん」
「上げたの?」
「上げた」
「なんで?」
惟人はすぐには答えなかった。昼間、カメラの中で晴を見た。それで初めて、帰ってきたと思った。そのことを全部そのまま言葉にするのは、少し難しかった。だから、
「見てほしかった」
と言った。晴が瞬く。
「誰に?」
「誰かに」
「何それ」
晴は少し困ったように笑った。それから画面へ視線を戻す。コメント欄には、もう自分の名前がたくさん並んでいた。HARU。KUJO HARU。晴。そしてその間に、何度も「おかえり」という言葉がある。
晴はしばらく黙ってスクロールした。英語。日本語。知らない名前。見覚えのあるアイコン。昔から応援していたらしい人。大会のたびに見たいろんな国の国旗。
《おかえり》《Welcome back》《待ってた》《また滑ってるところ見られて嬉しい》《元気ならそれでいい》
晴の指が止まった。しばらく、その文字を見る。そして惟人を見る。
「……みんな」
晴の声は、少しだけ不思議そうだった。
「覚えてたんだ。僕のこと」
惟人は本気でぎょっとした。
「……は?」
晴が今度は惟人の顔を見る。
「何でそんな顔するの」
「いや」
惟人は晴を見た。本当にそう思っていたのか。
「……当たり前だろ」
晴が瞬く。
「そう?」
「そう?じゃねえよ」
惟人は思わず眉を寄せた。
「どうして忘れてもらえると思ってたんだよ」
晴は少し困ったように、また画面を見る。
「だって」
少し考える。
「消えてから、二年も経ってるし」
惟人は何も言わなかった。数秒、晴を見る。そして心の底から、
「……馬鹿か」
と言った。晴の眉が寄る。
「なんで」
「何でじゃねえよ」
「でも二年だよ」
「二年だろ」
惟人は呆れたように息を吐いた。
「お前、自分が誰だったと思ってんの」
晴は少し黙る。
「五輪で勝って、世界選手権も取って、何年も世界中で滑って」
惟人は一度言葉を止めた。
「忘れるわけないだろ」
晴は、それでも少し信じられないような顔をしている。惟人には、それがまた理解できなかった。顔すらはっきり映っていない。名前も書いていない。それでも一人が「晴?」と言った。その一言だけで、世界の記憶が一気につながった。それほど、晴の滑りは人に残っていた。
「よく分かったね」
晴が言う。
「何が」
「僕だって」
惟人はまた少し呆れた。
「分かるだろ」
「惟人はね」
「俺だけじゃないじゃん」
晴は画面を見る。確かに、自分の名前がどんどん増えている。
それはすごく、不思議な気持ちだった。
その夜、家へ帰ってからも、晴のInstagramにはまだ通知が届いていた。全部読むのはとうに諦めていた。
惟人はソファの反対側で、昼間撮った三十秒の動画をまた見ていた。晴はその様子に気づいて、少し笑った。
「気に入ったの?」
「うん」
惟人は素直に答えた。晴は少しだけ意外そうな顔をした。そのまままたスマートフォンへ戻る。
コメントの中には、まだ「おかえり」という文字がある。晴は何度見ても、少し不思議だった。
自分では帰ってきたつもりなどなかった。
二年間、ただ生きていた。仕事をして、食べて、眠って、借金を返して。
そうやって毎日を過ごした。
けれど世界から見れば、自分は本当にいなくなっていたらしい。その自分が、たった三十秒滑っただけで見つかった。見つけてくれる人たちがいた。
晴はふと、部屋の端へ目を向けた。そこに、引っ越してきた日から一度も開けていないケースがあった。晴はしばらくそれを見る。それから何も言わず、立ち上がった。
惟人が顔を上げる。
「何」
晴は答えず、ケースを持って戻ってきた。慎重に留め具を空けて開かれたケースの中に入っているものを見た瞬間、惟人は動きを止めた。
スケート靴だった。晴が最後のシーズンまで使っていた競技用の靴。細かな傷。革についた癖。ブレード。全部知っている。何年も、何度も見ていた。練習前。試合前。海外のホテル。リンクサイド。五輪でも、世界選手権でも、いつも晴の足にあった。
惟人は一度、息を吸った。
「……持ってたんだ」
晴は何でもないことのように、片方を持ち上げた。
「うん」
それだけだった。惟人は靴を見る。晴を見る。そしてまた、胸の奥がいっぱいになる。電話番号を変え、連絡を絶ち、世界から消えた。スケートからも全部離れた——そう思っていた。でも、これだけは残っていたことが、惟人は嬉しかった。理由を聞きたいような気もした。でも、聞かなくてもいいような気もした。
晴は自分の靴を手に持ったまま、少しだけ笑った。
「メダルもさ」
靴を見ながら言う。
「売ったら、借金もっと早くなくなるんだろうなとは思った」
惟人は反射的に、売れよ、と思った。たぶん顔にも出た。晴が惟人を見て笑う。
「今、売れよって思ったでしょう」
「……思った」
「僕も思った」
晴は少しだけ肩をすくめる。
「でも」
それから、あっさりと、
「売れなくてさ」
と言った。それだけだった。
大切だからでも、いつか戻るつもりだったからでもなかった。
少なくとも、晴自身はそう思っていた。
父が、ひとつずつしまっていたものだった。
メダルも、衣装も、靴も。
借金の額を知ったあとなら、売った方がいいことくらい分かっていた。
それでも、父が大事そうに残していたものを、金に換えることだけはできなかった。
だから残った。
それだけだった。
晴は片方の靴をしばらく眺めた。重さを確かめる。革を触る。そしてふと、本当に何でもないことのように、
「これ履こうかな」
と言った。
惟人は何も言えなかった。一瞬、ただ晴を見る。履くんだ。晴が、また自分の靴を——その事実だけで、胸の奥がまた熱くなる。けれど惟人は、何とかいつもの声を出した。
「そのままは駄目」
晴が顔を上げる。
「なんで」
「二年放置してただろ。革の状態見てもらえ」
「ああ」
「ブレードも。研ぎ直し必要」
晴はなるほどという顔で、靴の裏を見る。
「そっか」
それから素直に頷く。
「じゃあ持ってく」
それだけだった。競技へ戻る話でも、何か難しいジャンプを跳ぶ話でもない。ただ、次に氷へ乗るとき自分の靴を履く。晴にとっては、それだけ。惟人は、それで十分だった。
晴は靴をケースへ戻しかけた。でも途中でやめた。ソファの脇へ置く。蓋は閉めなかった。
惟人は何も言わず、その靴を見ていた。今日、二年ぶりに、世界へ新しい九条晴の映像が一つ増えた。そして次に、晴が氷へ乗るとき、もうレンタル靴ではない。




