第二十一章 昔の仲間
翌日になっても動画の反響は収まらなかった。
そして当然、それを見つけたのはファンだけではなかった。
午前の練習を終えた惟人がスマートフォンを確認すると、通知の中に見覚えのある名前があった。
Leo Walker.
メッセージは一件ではなかった。
開く。
《ITO》
《WHAT THE HELL》
《IS THAT HARU????》
《ANSWER ME》
そのあと着信履歴が三件。
惟人は画面を見て、少しだけ笑った。
「相変わらずうるせえな」
レオ・ウォーカー。
晴とほぼ同世代のアメリカ人スケーターで、十代の頃から何度も同じ国際大会に出てきた。
身体能力を全面に押し出した、ダイナミックな滑りをする選手だった。大きなジャンプとスピード、それに会場全体を巻き込むような強さがあった。
晴とはタイプがまるで違うスケーターで、だからこそ、何度も順位を争った。
レオが力で観客を持っていけば、その次に晴が空気を変える。
晴が演技そのものを会場へ残せば、レオがその熱をさらに押し上げる。
若い頃から何度そんな大会を繰り返したか分からない。
そしてレオは、前のシーズンのオリンピックを最後に競技を退いた。
それから少し下を見ると、もう一つ未読がある。
梁俊熙。
こちらはもっと簡潔だった。
《Call me. Now.》
その下。
《That is Haru, right?》
さらに数分後。
《Ito.》
そしてまた。
《ITO.》
惟人は思わず笑った。
梁は惟人と同年代だった。
中国代表として長く世界のトップにいて、特徴は何より速度だった。助走からジャンプまでの減速が少なく、高速のまま高難度を入れてくる。後半になってもスピードが落ちず、大きな大会ほどミスが減るタイプでもあった。
惟人との付き合いは長い。表彰台の上でも、リンクの上でも、キスクラの上でも。
何度も隣にいた。
梁もまた、前季のオリンピックで引退している。
惟人は少し迷ったあと、先にレオへ返信した。
《Yes.》
送信して十秒もしないうちに着信が来た。
「早えよ」
言いながら出る。
画面いっぱいにレオの顔が映った。
『ITO!』
第一声から大声だった。
惟人はスマートフォンを少し耳から離す。
「うるさい」
『That was Haru!?(あれ、晴だったの!?)』
「そうだよ」
『You found him!?(見つけたの!?)』
「見つけた」
『WHEN!?(いつ!?)』
「ちょっと前」
レオが両手で頭を抱えた。
画面の向こうで何か叫んでいる。
英語が速すぎて半分くらい聞き取れない。
惟人は面倒になって少し音量を下げた。
『Why did you not tell me!?(なんで俺に言わなかったんだよ!?)』
「なんでお前に報告するんだよ」
『Because it's HARU!(晴だからだよ!)』
「知ってるよ」
『You post ONE photo of him and expect nobody to know!? Are you insane!?
(晴の写真一枚上げといて、誰にもバレないと思ったのか!? 正気か!?)』
「名前出してない」
『EVERYBODY KNOWS!(みんな分かるんだよ!)』
「晴にも同じこと言われた」
レオが一度止まった。
『Haru knows?(晴も知ってるの?)』
「あとで知った」
『AFTER!?(あとで!?)』
また声が大きくなる。
「本人よりお前が怒るなよ」
そこへ別の着信が入った。
梁だった。
惟人は少し考えたあと、通話へ追加した。
数秒後、画面が分割される。
梁の顔が現れた。
『榊』
「よう」
『あれは晴か』
挨拶もなかった。
「そう」
梁は一度目を閉じた。
何かを噛みしめるように、しばらく黙る。
その横でレオがまた騒ぎ始める。
『I told you! I knew it! First three seconds! Three seconds!
(言っただろ! 俺には分かった! 最初の三秒! 三秒だぞ!)』
梁が冷静に返した。
『I knew from the first turn.(私は最初のターンで分かった)』
『Three seconds was faster.(三秒のほうが早かった)』
『どうでもいい』
「お前ら何の勝負してんだよ」
惟人は呆れた。
けれど、二人が動画だけで晴だと分かったことには驚かなかった。
観客とは違う。
二人は同じ氷の上で晴を見てきた。
公式練習。
六分間練習。
試合。
エキシビション。
同じウォームアップエリアで身体を作り、同じリンクへ出て、同じ大会で順位を争った。
誰より近い場所で、九条晴という選手を知っている。
レオが少し落ち着いたところで聞いた。
『Is he skating again?(また滑ってるのか?)』
惟人は答える。
「ちょっとな」
『Competition?(試合は?)』
「それはない」
すぐに言った。
梁もそこは追及しなかった。
代わりに、
『元気なのか』
と聞いた。
それまでとは声が違った。
惟人は一瞬黙る。
何をもって元気と言うかは難しい。
二年前までの晴と比べれば、まだ身体は戻っていない。
仕事も多いままだし、食事も睡眠もようやく整い始めたところだ。
それでも、最初に見つけた日の晴とは違う。
「少しずつ」
そう答えた。
梁は頷いた。
レオも黙っている。
二人とも、晴が姿を消した二年間について詳しいことは知らない。
あの頃、世界中の選手が同じだった。
世界選手権のあと、晴が突然いなくなった。
連絡もつかなくなった。
知っているのはそこまでだった。
何人かは惟人へ聞いてきたが、惟人にも分からなかったし、もちろん答えられなかった。
レオも、梁も、誰一人晴を見つけられなかった。
『I thought maybe...(もしかしたらって思ってた……)』
レオが言いかけて止まる。
それ以上は言わなかった。
惟人も聞かなかった。
代わりにレオは少し笑って、
『He still skates like Haru.(やっぱり、晴の滑りだな)』
と言った。
惟人も小さく笑う。
「だろ」
『That program isn't his.(あれは晴のプログラムじゃない)』
「分かったのか」
『Of course. Haru wouldn't make that transition there.
(当然。晴なら、あそこにあのトランジションは入れない)』
梁も頷く。
『他人の振付だ』
「子どもの見本」
二人が同時に少し驚いた顔をした。
『Haru is coaching?(晴、コーチしてるのか?)』
「今うちで働いてる」
今度こそレオが完全に固まった。
梁も珍しく目を大きくする。
『待て』
梁が言う。
『お前のところにいるのか』
「いるよ」
『一緒に滑っているのか』
「まあ」
『惟人!』
珍しく梁の声が大きくなった。
レオも横から何か叫ぶ。
一瞬、二人とも同時に話し始め、何を言っているのか分からなくなった。
「一人ずつ喋れ」
『You found Haru and now he works at YOUR rink!?
(晴を見つけて、今はお前のリンクで働いてるのか!?)』
「そう」
『And he is skating!?(しかも滑ってるのか!?)』
「少し」
『And you said NOTHING!?(それで何も言わなかったのか!?)』
「だから何でお前らに報告義務があるんだよ」
『Because we spent FIFTEEN YEARS trying to beat you two!
(だって俺たちは十五年も、お前ら二人に勝とうとしてきたんだぞ!)』
レオの言葉に、惟人は少し笑った。
梁も小さく息を吐く。
それは確かにそうだった。
何度も同じ表彰台へ立った。
晴が一番上にいた日も、惟人がいた日も、レオが真ん中に割って入った日も、梁が全員を追い抜いた日もある。
同じ時代に生まれて、同じ時期に世界へ出た。
そして互いに、相手がいなければもっと簡単だっただろうと思いながら、その相手がいたからこそもっと強くなった。競技を離れた今、レオも梁もそれがよく分かる。
惟人がスマートフォンを手に通路を歩いていると、向こうから晴が来た。
午前の仕事を終えてリンクへ入ったところらしい。
肩からバッグを下げている。
惟人が誰かと話しているのを見て、少しだけ首を傾げる。
「誰?」
普通に近づいてきた。
惟人は答える。
「レオと梁」
晴の足が止まった。
「え」
その声を拾ったらしい。
画面の向こうでレオが叫んだ。
『HARU!?』
晴が少し目を見開く。
惟人は何も言わず、スマートフォンの画面を晴の方へ少し向けた。
最初に見えたのはレオだった。
以前より少し髪が短く、現役を退いて、顔つきも少し柔らかくなった。
その隣に梁。
晴が最後に会った頃と、ほとんど変わっていない。
二人とも、晴を見ていた。
晴は一瞬、何を言えばいいか分からなくなった。
「……久しぶり」
ようやくそれだけ言った。
レオの顔が崩れた。本当に、目に見えて崩れた。
『Oh, fuck』
両手で顔を覆う。
晴は驚く。
「え、何」
その横で梁は何も言わなかった。
ただ画面を見ている。
やがて片手で目元を押さえた。
「……梁?」
晴が呼ぶと、梁は一度息を吐いた。
それから日本語で、『おかえり』と言った。
晴の表情が止まった。
レオも顔から手を離す。目が赤い。
『Welcome back, Haru』
泣きながら笑っていた。
晴はしばらく何も言えなかった。
昨日も、何度も見た言葉だった。
コメント欄に、日本語で、英語で、中国語で…世界中から。
おかえり。
けれど、今は違った。
同じリンクに立った人間が言っている。
自分が十代だった頃から知っている。
勝って、負けて表彰台で並んだ。
公式練習で牽制し合った。
演技が終われば互いに悪態をつきながら、それでも次の大会ではまた一緒にいた。
そういう人間たちだった。
晴は少しだけ笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「……ただいま、って言っていいのかな」
レオがすぐ答えた。
『YES』
梁も頷く。
『言え』
晴は困ったように笑った。
それから少しだけ視線を落として、
「……ただいま」
と言った。
レオがまた泣いた。梁も目元を押さえている。
「なんでそんな泣くの」
晴が笑う。
『お前が言うな』
梁の返事が早かった。
晴は少し驚いて、そのあと声を上げて笑った。
惟人はその横顔を見た。
こんなふうに晴が昔の仲間と話すところを見るのは、二年以上ぶりだった。
あの二年間の前にあった時間が、少しずつ今へつながっていく。
リンクだけではない。
ファンだけでもない。
晴が置いてきたと思っていた人間関係まで、切れていなかった。
レオは少し落ち着くと、今度は一転して矢継ぎ早に質問を始めた。
『How much are you skating? Can you jump? You did a double Lutz in that video. Was that a double Lutz? That was a double Lutz, right?(どれくらい滑ってるんだ? ジャンプは跳べる? あの動画でダブルルッツ跳んでたよな。あれダブルルッツだよな? ダブルルッツだったよな?)』
「レオ、うるさい」
『Can you still do a triple Lutz?(トリプルルッツはまだ跳べる?)』
「やらないよ」
『QUAD?(四回転は!?)』
「やらないって」
『Why!?(なんで!?)』
「なんで四回転から聞くの」
梁が横から冷静に口を挟む。
『ルッツは最後だろう。身体が戻っていない』
「梁は話が分かるね」
『アクセルは?』
晴が黙りこみ、惟人が笑った。
「結局同じじゃねえか」
梁は悪びれない。
『確認だ』
レオもすぐ乗ってくる。
『Axel! Triple Axel! Can you still—(アクセル! トリプルアクセル! まだ跳べる——)』
「まだやってない」
晴が答えると、二人が同時に何か言いかけた。
晴は笑った。
この感じも懐かしかった。
誰が何を跳んだ。どこを変えた。今季は何を入れる。
散々探り合っておきながら、結局普通に情報を交換してしまう。
昔から、そうだった。
晴は惟人のスマートフォンを少し覗き込むようにして、画面へ近づいた。
「二人とも引退したんだよね」
レオが頷く。
『Olympics. Done. Finished. My knees are grateful.(オリンピックでもう終わり。引退。おしまい。膝も喜んでるよ)』
梁も、
『私は膝より腰だ』
と言った。
「おじさんみたい」
晴が笑う。
『お前も二十五だろ』
「まだ若いよ」
『私も二十七だ』
「惟人と同じじゃん」
横にいる惟人を見る。
「おじさん?」
「ぶっ飛ばすぞ」
晴がまた笑った。
その声を聞きながら、レオも梁も少しずついつもの顔に戻っていった。
けれど通話を切る前、レオがもう一度言った。
『Haru』
「何?」
少しだけ間がある。
『I'm really glad you're here.(ここにいてくれて、本当にうれしい)』
今度は騒がしくなかった。
晴は画面を見た。
「……うん」
梁も続ける。
『また話そう』
「うん」
『今度は榊を通さずに連絡先をよこせ』
晴は少し困った顔をした。
「スマホ変えたから二人の連絡先ない」
『だからよこせと言っている』
「はいはい」
レオが横から、
『ME TOO』
と叫ぶ。
「分かったよ」
最後まで騒がしい。
通話が切れたあと、晴はしばらく惟人のスマートフォンを見ていた。
黒くなった画面に、自分の顔が薄く映っている。
「びっくりした」
「向こうもだろ」
「泣くと思わなかった」
「二年音信不通だからな」
晴は少しだけ視線を落とした。
「……そうだね」
その言葉に、以前ほど強い罪悪感はなかった。
申し訳ないと思うし、心配をかけたとも思う。
でも、それだけではなくなっている。
昨日から何度も聞いた。
待っていた。
覚えていた。
帰ってきてほしかった。
自分が勝手に切ったと思っていたものは、向こう側では切られていなかった。
晴は少し考えてから、スマートフォンを惟人へ返した。
「あとで連絡先送って」
「自分でやれ」
「二人の知らないんだから送ってよ」
「分かったよ」
惟人が受け取る。
晴はそのままリンクの方へ歩き出した。
数歩進んだところで、一度振り返る。
「惟人」
「何」
「動画、上げてよかったかも」
惟人は一瞬だけ目を細めた。
「だろ」
「調子乗らないで」
晴はすぐそう言って、また歩き出した。
その足取りは、昨日までよりほんの少しだけ軽かった。




