第二十二章 自分の靴
晴の競技用の靴は、翌週に戻ってきた。
二年間まったく履いていなかった以上、そのまま氷へ乗るのはやめた方がいいと惟人が言い、いつも世話になっているショップへ持ち込んだ。革そのものに致命的な傷みはなかったものの、長く放置していたことには変わりない。状態を見てもらい、ブレードも点検し、きちんと研ぎ直してもらった。
受け取りに行った晴は、ケースを開けてきれいになった靴を見ても、特別感慨深そうな顔はしなかった。
「きれいになった」
それくらいだった。
むしろ落ち着かなかったのは惟人の方だった。
翌朝、晴はいつも通りリンクへ来た。子どもたちのレッスンが始まる前で、まだ人は少ない。ベンチへ腰を下ろし、ケースを開け、取り出した靴を足元へ置く。惟人は少し離れたところから、その様子を何となく見ていた。
晴が、自分のスケート靴へ足を入れる。
本当に、それだけのことだった。
晴自身も特に何かを意識している様子はない。紐を通し、下から順に締めていく。その手つきは昔と変わらなかった。二年履いていなくても、どこまで強く引き、どこで少し緩めるのか、指はちゃんと覚えているらしい。
立ち上がった晴は、足首を何度か動かした。
「……硬い」
「当たり前だろ。二年履いてないんだから」
「そうじゃなくて」
晴は少し足元を見てから、妙に納得したように言った。
「レンタルが柔らかすぎた」
「今さらかよ」
「忘れてた」
晴は笑って、リンクの入口へ向かった。
ブレードカバーを外し、まず片足を氷へ置く。それから、もう片方。
ほんの一蹴りだった。
それだけで、晴の顔が変わった。
「……あ」
惟人はすぐに気づいた。
「何」
晴は答えず、もう一度蹴った。そのまままっすぐ滑り、少し速度をつけてからカーブへ入る。エッジを倒し、身体を預けるようにして大きく回る。
「……何これ」
「自分の靴だろ」
「うん」
それは分かっている。
けれど、違った。
レンタル靴でも、もう普通には滑れていた。エッジも踏める。ターンもできる。二回転も跳べる。晴自身、それほど不自由しているつもりはなかった。
だからこそ、自分の靴へ戻った瞬間の違いに驚いた。
今まで、どれだけ足元に余計なものを一枚挟んで滑っていたのか、初めて分かったような気がした。
氷が近い。
いや、少し違う。
足が分かる。
どこへ体重が乗っているのか、どの角度でブレードが氷へ入っているのか、自分の身体が今どこにあるのか。その全部が、靴を通してそのまま返ってくる。
晴は少し笑った。
「すごい」
「何が」
「足がどこにあるか分かる」
惟人は、その言い方に少しだけ胸が詰まった。
けれど、何も言わなかった。
晴はもう楽しそうに滑り始めていた。
最初はただのストロークだった。そこから少しずつ速度を上げ、深くエッジへ入る。ターンを一つ入れ、切り返し、また反対のエッジへ乗る。そのたびに、身体が昔の感覚を一つずつ拾い直しているようだった。
自分の靴でどう動いていたのか。どこまでエッジへ身体を預けられるのか、どの位置から戻せば次の足へ無理なくつながるのか。二年間まともに履いていなかったはずなのに、そういう感覚は考えるより先に身体の方が思い出していった。
晴は一度リンクの端まで滑っていき、大きなカーブを描いて戻ってきた。レンタル靴のときより明らかに楽しそうで、惟人の近くまで来ると少し笑いながら声をかけた。
「惟人」
「何」
「これ楽しい」
「よかったな」
「レンタルでも別にいいと思ってた」
「知ってる」
「全然違った」
「それも知ってる」
晴は少しむっとして、「先に言ってよ」と返した。
「言ったって、お前が自分で履くって言わなかっただろ」
言われてみればその通りだったので、晴はすぐに納得した。そのあたりの切り替えの早さは昔から変わらない。自分から履こうと思うまでは、惟人が何を言ったところでたぶん聞かなかっただろう。
またリンクの中へ戻ると、今度は二回転をいくつか試してみた。トウループもサルコウも軽い。ループも、レンタル靴のときより着氷したあとの足元がずっと安定していた。降りた瞬間にブレードが逃げず、氷を掴んだまま次の滑りへ移れる。その感覚が面白くて、晴はだんだん自分の靴で滑ることそのものを楽しみ始めていた。
最後にルッツへ入った。
ルッツは、子どもたちへ見本を見せるためにレンタル靴でも何度も跳んでいる。いつも通り左足のアウトサイドへ乗り、少し長めにエッジを運んでからトウをつく。跳んだのは2Lzだった。
着氷してそのまま数メートル流れたところで、晴は少しだけ首を傾けた。
「……軽い」
リンクサイドから見ていた惟人が答える。
「そりゃレンタルよりはな」
「もう一回」
晴はすぐに助走へ戻った。
別に三回転を試そうと思ったわけではなかった。ただ、自分の靴なら同じ二回転がどう感じるのか、もう一度確かめてみたかっただけだった。
左足へ乗り、アウトサイドエッジを運ぶ。
その入りが、さっきよりほんの少し深くなった。
晴自身は意識していなかった。
二年間使っていなかった動きなのに、自分の靴へ戻っただけで、エッジへ乗る位置も身体を預ける角度も昔の感覚へ近づいている。トウをつく場所も、踏み切るタイミングも、レンタル靴で二回転を跳んでいたときとはわずかに違っていた。
現役時代、何度繰り返したか分からない動きだった。
トウをつき、踏み切る。
身体が上がった。
いつもなら二回転で開くはずのところで、身体がまだ締まっていた。
空中で、晴の意識が少し遅れてそのことに気づく。
――あ。
次の瞬間には右足が氷へ戻っていた。
着氷は少し前へ詰まった。それでも転ばず、そのまま数メートル流れることができた。
晴はゆっくり速度を落とした。
しばらく何も言わず、自分の足元を見ていた。それから、確認するように惟人を見る。
「……今」
声が少しだけ変だった。
惟人には、晴が何を聞きたいのかすぐ分かった。
「三回った?」
「回った」
晴はもう一度、自分の足を見る。
「……え」
本気で驚いている。
惟人は思わず笑った。
「何だよ」
「いや」
晴はさっき踏み切った場所へ目を向けた。失敗した原因を探すときのような顔で、氷と自分の足を見比べている。
「跳べるんだ」
そこには、達成感より驚きの方がずっと大きかった。
三回転を取り戻したいと思っていたわけではないし、今日試すつもりもなかった。ただ、自分の靴があまりにも自然に足へ馴染んだから、昔と同じように少し深くエッジへ入り、そのまま身体を使った。
それだけで三回転になった。
晴はしばらく考えていたが、やがてその事実が急に可笑しくなったように笑った。
「身体、覚えてるんだ」
惟人は、その言葉を聞いて少し黙った。
覚えている。
二年間滑らなくても、全部がなくなったわけではない。靴の感覚も、氷の上での身体の使い方も、何千回と繰り返した動きも、晴が自分ではもう必要ないと思っていた場所に残っている。
けれど、それを今わざわざ感傷的に言葉へする必要はなかった。
「今日はそれ以上やるなよ」
惟人が言うと、晴はすぐに振り返った。
「え」
「一本で終わり」
「もう一回くらい」
「駄目」
「今のちょっと前詰まった」
「だから何」
「きれいに降りたい」
「明日にしろ」
晴は明らかに不満そうだった。
惟人は腕を組み、その顔を正面から見る。
「自分の靴履いてテンション上がって、初日に調子乗って壊したら馬鹿だぞ」
「……分かったよ」
渋々だったが、晴は引いた。
それでも口元には笑みが残っていた。
そのあと晴はジャンプには行かず、リンクを大きく使って滑った。深くエッジへ乗り、ターンを入れ、次のカーブへつなぐ。ときどき足元の感覚を確かめるように一つのエッジへ長く身体を預けては、そのまま次の動きへ移っていく。いくつかのステップを確かめるように踏み、また氷上にきれいな図形を描く。
惟人はリンクサイドからその姿を眺めていた。
昨日までと、何かが劇的に変わったわけではない。
三回転を跳べたから晴に戻ったわけでもない。
レンタル靴で2Lzしか跳んでいなかった昨日の時点で、世界中の人間はちゃんと晴だと分かった。
それでも、自分の靴を履き、思いがけず三回転を一つ跳び、自分でも驚いて楽しそうに笑っている姿を見るのは、惟人にとってやはり嬉しかった。
しばらくして、晴がリンクの向こうから戻ってきた。
惟人の前で止まる頃には、頬が少し赤くなっている。息は多少上がっていたが、疲れたというより、久しぶりに夢中で遊んだあとのような顔をしていた。
「ねえ」
「何」
晴はまだ少し不思議そうに、自分の足元を見た。
「これ、持っててよかったかも」
惟人は一瞬、返事ができなかった。
二年前、晴がいなくなったときには、何もかも手放したのだと思っていた。競技も、周囲とのつながりも、自分が九条晴として積み上げてきたものも、全部。
けれど、靴は残っていた。
なぜ残したのか、晴自身にも説明はできなかったのかもしれない。
ただ、最後まで捨てられなかった。
その靴を今、自分から履いている。
楽しそうに氷の上を滑っている。
それだけで十分だった。
惟人は、できるだけいつも通りの顔で答えた。
「そうだな」
晴はそれに満足したように頷き、もう一度自分の靴へ目を落とした。
だから気づかなかった。
その何でもない一言だけで、惟人がまた少し泣きそうになっていたことには。




